元譲様、妹の鼻まで真似しないでくださいませんか?
劉明珠でございます。
前回、私は文烈様のいない屋敷で、女子を産みました。
母子ともに無事。
たいへん喜ばしいことでございます。
ただし、喜ばしいことだけで終わらせてくださらない方が、この世にはおられます。
丞相様です。
私は娘が生まれたことをお知らせしただけのつもりでした。
ところが返ってきた文には、玉珠の名がございました。
娘を産めば、妹の道が進む。
女が一人生まれれば、次の女の行き先が決まっていく。
たいへん分かりやすく、たいへん腹立たしい仕組みでございます。
今回は、夏侯元譲様より使者が参ります。
いえ、使者だけならまだよかったのです。
元譲様は、玉珠を急ぎ奪うつもりはないと仰います。
丁寧です。
礼もあります。
菓子もあります。
そして、鼻をほじらせるな、ともあります。
そこまで覚えていらっしゃらなくて結構でございます。
玉珠は天然です。
緊張すると鼻へ指が行きます。
そして元譲様は、どうやら普通の大人とは少し違う受け止め方をなさいます。
私は曹休家の奥方です。
産後です。
娘はまだ名もありません。
文烈様はまだ戻っておられません。
その状態で、妹の縁談が、礼儀正しく、逃げ場なく、前へ進みます。
……本当に、曹休家の奥は静かになりません。
夏侯元譲様より使者。
その言葉を聞いた瞬間、私は娘を抱く腕に力を込めました。
生まれたばかりの赤子は、何も知りません。
母の腕の中で、小さく息をしております。
たいへん羨ましい。
知らぬということは、時に最高の防具でございます。
私は文を開く前から、中身を半分ほど察しておりました。
丞相様から届いた文には、すでに書かれていたのです。
玉珠の件、元譲と進めよ。
その一行で、私の産後の安らぎは消えました。
産後の安らぎなど、そもそも長く続くものではございません。
乳を飲ませ、寝かせ、泣かれ、また抱く。
そこへ丞相様の文が来る。
これで安らげる者がいれば、ぜひその肝を薬として売っていただきたい。
家令が控えめに申しました。
「夏侯元譲様の使者は、奥方様のお体が落ち着いてからで構わぬ、と」
「では、今日来る必要はなかったのでは?」
「まず文だけでも、とのことでございます」
まず文だけ……
たいへん嫌な言葉です。
世の中の面倒事は、たいてい文から始まります。
長坂も文ではありませんでしたが、その後の私は文で動かされ続けております。
私は娘を乳母に預け、夏侯家の文を受け取りました。
封は重くありません。
けれど、中身は十分に重い。
読み始めて、私は深く息を吐きました。
玉珠殿の件、お願い申し上げる。
急ぎ奪うつもりはない。
姉上の産後もある。
まずは我が家へ通わせ、家のことを少しずつ覚えさせよ。
それから、最後に短く添えてありました。
菓子は用意する。
鼻はほじらせるな。
私は文を閉じました。
閉じたところで、内容が消えるわけではありません。
たいへん残念です。
「姉上?」
玉珠が戸口から顔を出しました。
先ほどまで娘の顔を覗き込んでいたはずです。
なぜか頬に粉菓子の欠片がついております。
「何ですか?」
「元譲様、何て?」
「あなたのことです」
「玉珠の?」
「そうです」
「お菓子ある?」
そこですか。
いえ、そこなのでしょう。
玉珠の世界では、婚姻も、文も、家の名も、まず菓子の有無を通ってから理解されます。
「菓子は用意する、とあります」
玉珠の顔が明るくなりました。
「元譲様、いい人!」
「早いです。判断がたいへん早いです」
「鼻のことも書いてある?」
「書いてあります」
「玉珠、有名?」
「悪い意味で、記憶に残っております」
玉珠は少し考えました。
そして自然に指を鼻へ持っていきました。
「玉珠」
「まだ入れてない」
「入れる前に止めております」
「考えてただけ」
「あなたはなぜ、考えを鼻から取り出そうとするのですか?」
玉珠は真剣な顔で首を傾げました。
こちらが聞きたいのです。
その時、娘が小さく泣きました。
私はすぐに振り向きます。
乳母が抱いてあやしておりましたが、声を聞くだけで胸の奥が引かれます。
この子はまだ名もない。
文烈様が戻られてから名を呼んでいただくつもりでおります。
けれど、この子より先に、玉珠の行き先が形を持ち始めました。
女の子は、泣く前から地図に載ります。
泣いた後には、次の女の道まで動かす。
私は母になったはずでした。
なのに、今度は姉として妹を送り出す準備をさせられております。
人の役目は、一つずつ渡していただきたいものです。
数日後、夏侯家の使者が再び参りました。
ただし、使者だけではございませんでした。
「夏侯元譲様、お越しにございます」
その報せを聞いた時、私は一瞬、本気で寝台へ戻ろうかと思いました。
産後です……
医師からは無理をするなと言われております……
文烈様からも、出陣前に何度も言われました……
ならば、夏侯元譲様との対面など、どう考えても無理に含まれるのではないでしょうか?
しかし曹休家の奥方として、ここで逃げるわけにはまいりません。
私は衣を整えました。
娘は乳母へ預けます。
曹肇様がそばへ来られました。
「明珠殿、私も同席します」
「若君が?」
「父上が不在です。明珠殿だけに任せるわけにはいきません」
小さかったはずの子が、いつの間にかそのようなことを言うようになりました。
困ります……
胸が痛むではありませんか……
「ありがとうございます」
曹肇様はうなずきました。
「玉珠殿は、曹休家におられる方です」
その言葉に、私は少しだけ目を伏せました。
玉珠は劉備玄徳の娘です。
私の妹です。
けれど今、曹肇様は曹休家の者として玉珠を見ると言っております。
私がこの家で守ったものが、いつの間にか私を守る側へ回ろうとしている。
人の縁とは、本当に勝手です。
広間へ出ると、夏侯元譲様はすでに座っておられました。
隻眼。
大柄な体。
戦場の匂いを薄くまとったような方です。
玉珠が昔、片目を戦場に置いてきた人、と覚えたのも無理はございません。
元譲様は私を見ると、軽く頭を下げられました。
「産後にすまぬ」
「お気遣い痛み入ります」
「無理はしておらぬか?」
「無理をしておりません、と申し上げたいところですが、元譲様が目の前におられる時点で少し無理でございます」
曹肇様が横で息を止めました。
私は少し言い過ぎたかもしれません。
けれど、元譲様は怒りませんでした。
むしろ、穏やかに笑われました。
「文烈の妻らしい」
たいへん困ります。
私は私でございます。
ただ、文烈様の妻らしいと言われて、不快ではない自分がさらに困ります。
玉珠は私の後ろに隠れていました。
隠れているつもりです。
実際には、衣の裾から顔が半分出ております。
しかも片手が鼻の近くにあります。
私は低い声で言いました。
「玉珠」
「まだ」
「まだ、ではありません」
「元譲様がいるから緊張して」
「だからこそです」
元譲様の目が玉珠へ向きました。
玉珠はびくりと肩を揺らしました。
「玉珠」
「はい!」
「覚えておるか」
「片目を戦場に置いてきた人です!」
広間が凍りました。
私は魂が半分ほど抜けました。
元譲様は真顔です。
真顔のまま、うなずかれました。
「そうだ!」
認めないでください。
そこは認めるところではございません。
玉珠は少し安心したようでした。
「もう食べた人!」
「そうだ!」
重ねて認めないでください。
曹肇様が必死に表情を保っておられます。
この子も、なかなか鍛えられてまいりました。
元譲様はしばらく玉珠を見ておられました。
玉珠の指は、また鼻へ近づいております。
私は止めようとしました。
けれど、その前に元譲様が動かれました。
ゆっくりと、自分の鼻へ指を近づけたのです。
広間の空気が止まりました。
私は何を見せられているのでしょう。
夏侯元譲――
丞相様の重臣。
猛将。
隻眼の武人。
その方が、真顔で鼻に指を近づけておられます。
「こうか?」
私は死ぬかと思いました。
玉珠の目が輝きました。
「そう!」
「深くか?」
「時々」
「玉珠!」
私は叫びました。
産後の体に悪い。
本当に悪い。
元譲様は指を下ろされました。
そして、玉珠へまっすぐ言いました。
「緊張すると、兵も妙なことをするからな」
「兵も?」
「叫ぶ者もおる。震える者もおる。腹を壊す者もおる」
「鼻をほじる人も?」
「知らぬが、一人くらいはおるだろう」
「じゃあ玉珠、兵?」
「違います」
私は即答しました。
元譲様はまた笑われました。
それから声を少し改めます。
「玉珠を笑いに来たのではない」
その一言で、場の空気が変わりました。
「奪いにも来ておらぬ」
私は黙って元譲様を見ました。
「文烈は不在、明珠殿は産後、姫君も生まれたばかり。今すぐ玉珠を連れていくほど、我が家は無作法ではない」
「では」
「通わせる。夏侯家の女たちに会わせる。食事も、作法も、家の空気も覚えさせる。嫌がるなら、その時は言え」
あまりにも丁寧でした。
乱暴に言ってくだされば、怒れます。
命じてくだされば、抗えます。
けれど、守ると言われる。
待つと言われる。
玉珠が萎縮しないよう、鼻の真似までされる。
怒る場所を、奪わないでいただきたい。
「玉珠は、まだ幼うございます」
「知っている」
「父母の元を離れております」
「それも知っている」
「姉の私から離れることを、不安に思います」
「だから急がぬ」
元譲様の声は、短く、硬く、けれど雑ではありませんでした。
玉珠がそっと私の袖をつかみました。
「姉上も一緒?」
その問いは、以前にも聞きました。
私は答えに詰まりそうになりました。
曹休家の奥。
生まれた娘。
不在の文烈様。
曹肇様と曹纂様。
そして玉珠。
私の手は、いくつあっても足りません。
「私は、この家におります」
玉珠の顔が少し曇りました。
「じゃあ、玉珠だけ?」
「まだ、すぐではありません」
「まだ?」
「そうです。まずは通うだけです」
玉珠は元譲様を見ました。
「お菓子ある?」
「ある」
「鼻は?」
「人前ではやめよ」
「人がいない時は?」
「姉に聞け」
なぜ私へ戻すのですか?
私は静かに申しました。
「人がいなくても、やめなさい」
玉珠は深刻な顔になりました。
どうやら婚姻より、鼻の制限の方が大問題らしいです。
曹肇様が一歩前へ出ました。
「元譲様」
「何だ?」
「玉珠殿を曹休家から出す時は、粗略にはいたしません」
私は曹肇様を見ました。
曹肇様は小さな体で、きちんと元譲様へ向き合っておられました。
「明珠殿が守ってきた方です」
その言葉は、私の胸へまっすぐ入りました。
血のつながらぬ若君が、私の妹を守ると言う。
私は何をしてきたのでしょう。
ただ袖を貸し、文を読み、泣く子を抱き、鼻を止めていただけのはずです。
それでも、この家では何かが育っていたようです。
元譲様は曹肇様を見て、ゆっくりうなずかれました。
「文烈の子だな」
曹肇様の背が、少しだけ伸びたように見えました。
その日の話は、そこで終わると思っておりました。
甘い考えでした。
元譲様は帰り際、私へ一通の文を差し出されました。
「丞相様へ出す前に、明珠殿へ見せておく」
「何でございますか」
「玉珠を、春より夏侯家へ通わせる。その許しを求める文だ」
春――
私は指先が冷えるのを感じました。
まだ遠いようで、すぐです。
冬が終われば、玉珠はこの屋敷から夏侯家へ通う。
通うだけ――
そう言い聞かせても、道は一度できれば太くなります。
元譲様は続けられました。
「それと、もう一つ」
まだあるのですか?
本当に、文というものは一枚で終わりません。
「通い始める前に、玉珠を一度、わしが我が家へ連れていこうと思う」
私は息を止めました。
玉珠が目を丸くしました。
「元譲様のお家?」
「そうだ」
「お菓子ある?」
「ある」
「鼻は?」
元譲様は真顔で答えられました。
「その日は、我慢しろ」
玉珠は絶望した顔になりました。
私は娘の泣き声を遠くに聞きながら、夏侯元譲様の文を見つめました。
生まれたばかりの娘は、まだ名を持ちません。
妹は、春を待たずに夏侯家へ足を踏み入れることになりました。
そして文烈様は、まだ帰っておられません。
曹休家の奥は、私一人で守るには、少し広すぎるようでございます。
劉玉珠です。
今回は、元譲様が来ました。
片目を戦場に置いてきて、もう食べた人です。
玉珠はちゃんと覚えていました。
姉上は、覚えていなくてよいことまで覚えている、という顔をしていました。
でも、元譲様も覚えていました。
玉珠の鼻のことです。
すごいです!
玉珠は有名人かもしれません。
ただ、姉上は「悪い意味です」と言います。
たいへん厳しいです。
元譲様は怖い人です。
大きいです。
声も強いです。
片目だけなのに、両目で見られている気がします。
でも、玉珠が緊張して鼻へ指を持っていったら、怒りませんでした。
なんと、元譲様も鼻へ指を近づけました。
「こうか?」と聞かれました。
玉珠は、少しうれしくなりました。
分かってくれる大人は大事です。
姉上は死にそうな顔をしていました。
赤ちゃんが生まれたばかりなのに、姉上まで倒れたら大変です。
でも倒れませんでした。
姉上は強いです。
元譲様は、玉珠を笑いに来たのではないと言いました。
奪いにも来ていないと言いました。
少しずつ夏侯家へ通うそうです。
お菓子もあるそうです。
でも、人前で鼻をほじってはいけないそうです。
人がいない時はどうなのか聞いたら、姉上に聞けと言われました。
姉上は、やめなさいと言いました。
やっぱり厳しいです……
曹肇様も、玉珠を粗略には出さないと言ってくれました。
玉珠は少しびっくりしました。
曹肇様は、前より大きく見えました。
本当はまだ小さいのに、不思議です。
赤ちゃんはまだ名前がありません。
文烈様が帰ってきたら、名前をつけるそうです。
文烈様はまだ帰っていません。
姉上は赤ちゃんを抱いて、玉珠を見て、文を見て、いつもより忙しそうです。
玉珠は手伝いたいです。
でも、手伝おうとすると、だいたい鼻のことで怒られます。
次は、玉珠が元譲様のお家へ行くかもしれません。
お菓子があります。
でも、その日は鼻を我慢しろと言われました。
玉珠は頑張ります。
たぶん――
……でも、元譲様のお家がすごく広かったら、緊張すると思います。
緊張したら、指はどこへ行くのでしょうか?
玉珠にも、まだ分かりません。




