丞相様、女子だからこそ地図に載せるのですか?
劉明珠でございます。
前回、私の腹の中にいる子は、丞相様の地図に載せられました。
まだ生まれてもいないのに……
泣いてもいないのに……
名もないのに……
たいへん迷惑です。
人は生まれてから苦労するものだと思っておりましたが、どうやら血筋の悪い子は、生まれる前から扱いが難しいようでございます。
劉備玄徳の娘が産む、曹休文烈の子。
言葉にすると、ずいぶん立派に聞こえますね。
実際には、腹が重く、腰が痛く、周囲が過保護になり、妹が鼻をほじるのを止める日々でございます。
今回は十月から始まります。
丞相様は呉を討つため兵を動かされ、文烈様もそれに従って出陣なさいます。
私は大きな腹で、夫を見送ることになりました。
長坂で置かれた娘が、今度は曹休家の奥で、帰ると言った方を待つ側になる。
人生とは、たいへん意地の悪い巡り方をするものです。
そして十二月。
文烈様のいない屋敷で、私は子を産みます。
生まれたのは、女子でございました。
女子ならば、地図から下りられる。
そう思えるほど、私は幸せな頭をしておりません。
女子だからこそ、どこへでも置ける。
私がそうであったように……
玉珠がそうなりつつあるように……
この子もまた、いつか誰かの家へ向かうのでしょう。
それでも、まずは子です。
札ではなく、子です。
母として、そこだけは譲らぬつもりでおります。
……そのつもりでおりました。
ええ――
また文が来ます。
本当に、丞相様の文というものは、産後の体によろしくありません。
十月になり、私の腹は、もはや私一人の持ち物とは言いにくくなっておりました。
歩けば足に来る。
座れば腰に来る。
寝返りを打つにも、まず腹の中の方へ許可を取らねばならないような有様です。
たいへん困ります。
母になるとは、もっと静かで、柔らかく、ありがたいものだと後世の皆様はお思いかもしれません。
違います。
重いのです。
そして、周囲がうるさいのです。
「明珠、急ぐな」
「急いでおりません」
「足元を見ろ」
「見ております」
「見えているのか」
「腹で少し見えにくいだけです」
文烈様は、私が廊下を歩くだけで戦場の崖を渡る兵を見るような顔をなさいます。
私は曹休家の奥方であって、転がる壺ではございません。
もっとも、今転がれば、ただでは済まない自覚はございます。
そこへ、さらに面倒な報せが参りました。
丞相様が、呉を討つため兵を動かされる。
文烈様も、それに従って出陣なさる。
私は文を読んだ瞬間、腹へ手を当てました。
腹の中の子は、まだこちらの都合など知りません。
父親が出かけると聞いても、返事一つしない。
なかなか大物です。
あるいは、ただ眠っているだけかもしれません。
文烈様は、いつものように支度を整えられました。
戦へ向かう方は、去る時まで静かです。
静かに鎧を確かめ、静かに家令へ言葉をかけ、曹肇様と曹纂様を呼び、私の前に立たれました。
「明珠」
その呼び名にも、私はだいぶ慣れてしまいました。
慣れてしまった自分に腹が立ちます。
「はい」
「無理をするな」
「それは、もう何度も伺いました」
「何度でも言う」
「言葉で腹が軽くなるなら、もっと仰ってください」
文烈様は苦笑されました。
それから、私の腹へ視線を落とします。
「戻る」
その一言に、私は少しだけ息を止めました。
父上は、あの時戻りませんでした。
長坂で、私と玉珠は置かれました。
追ってくる者はいても、戻ってくる父はいなかった。
けれど文烈様は、出ていく前に戻ると言う。
約束を口にする。
それがどれほど残酷に優しいことか、この方は分かっておられるのでしょうか。
「必ずでございますか」
「必ずだ」
「武人の必ずは、時々あてになりません」
「では、曹休の必ずにしておけ」
ずるい言い方です。
私は文烈様を見上げました。
腹が重いと、怒るにも少し力が要ります。
「お戻りにならなければ、この子に言いつけます」
「生まれる前から叱られるのか?」
「父親が約束を破ったと」
「それは困る」
「困ってください」
文烈様は、そっと私の手を取られました。
戦へ行く手です。
けれど、その手は今、私を押しのけるためではなく、支えるためにありました。
曹肇様がそばで唇を結んでおられます。
以前のように袖をつかみません。
代わりに、きちんと立っていました。
「父上、明珠殿と赤子は、私が見ます」
その声を聞いた時、私は胸の奥が不意に熱くなりました。
この子は、私の腹から生まれた子ではありません。
けれど今、私の子を守ると言っております。
人の縁とは、ずいぶん勝手に育つものです。
「肇、頼む」
「はい」
曹纂様は、難しい話が分からぬ顔で、文烈様の衣を握っていました。
「ちちうえ、いく?」
「行く。だが戻る」
「もどる?」
「戻る」
曹纂様は少し考え、それから私の腹を見ました。
「ちちうえ、あかちゃん、まつ」
文烈様の目がやわらぎました。
私はそっと視線を外しました。
こういう場面で泣くのは、たいへん癪です。
そして玉珠は、私の横で、鼻に指を入れておりました。
「玉珠」
「ん?」
「今、何をしていますか?」
「考えてる」
「鼻で考えないでください」
「あ……」
玉珠は慌てて指を抜きました。
文烈様が出陣なさるという場で、なぜ妹は鼻の奥から思案を掘り出そうとするのでしょう。
「嫁入り修行中では?」
「緊張したから」
「緊張すると鼻を掘るのですか?」
「落ち着くかなって」
「落ち着きません。周囲が乱れます」
文烈様は、笑わずに耐えておられました。
たいへん立派です。
ただ、肩が少し揺れておりました。
見なかったことにいたします。
出陣の朝、私は門まで出ました。
文烈様は何度も私を止めようとされましたが、ここで引けば一生言われる気がいたしました。
私にではありません。
私自身にです。
父に置かれた娘が、夫を見送る。
それは似ているようで、まるで違います。
私は捨てられるのではありません。
待つのです。
帰ると言った方を、曹休家の奥で待つ……
その違いを、私は腹の子にも覚えさせたかった。
「いってらっしゃいませ」
私がそう申しますと、文烈様はまっすぐ私を見ました。
「行ってくる」
短い言葉です。
けれど、短い言葉ほど、人を縛ることがある。
私はその日、門が閉まる音を聞きました。
腹の中で、かすかに何かが動いた気がいたしました。
十二月になりました。
寒さが屋敷の隅へ入り込み、庭木の枝が細く震える頃、私の体は急に別のものになりました。
痛みというものは、礼儀を知りません。
こちらが奥方であろうと、劉備玄徳の娘であろうと、曹休文烈の妻であろうと、まったく遠慮なく押し寄せてまいります。
たいへん無礼です。
乳母たちが動き、侍女たちが湯を運び、屋敷の奥は一気に戦場になりました。
文烈様はいません。
戦場へ行かれた方が、本当に戦場にいる間に、こちらの奥も別の戦場になる。
世の中は、どうしてこうも配置が悪いのでしょう。
玉珠は部屋の外にいました。
中へ入ろうとしては止められ、また戸の前でうろうろします。
「姉上、死なない?」
「勝手に殺さないでください」
「でも、すごい声」
「聞かないでください」
「耳はあるから」
「では鼻をふさいでいなさい」
「鼻を?」
嫌な予感がしました。
次の瞬間、戸の向こうで侍女が小さく悲鳴を上げました。
「玉珠様、それはおやめください!」
やはりです――
妹は鼻をふさいだのではなく、また指を突っ込んだのでしょう。
この忙しい時に、何をしているのですか。
怒鳴る気力はありません。
痛みが次々に来ます。
私は寝台の縁を握りしめました。
母上も、こうだったのでしょうか。
糜夫人も、甘夫人も、名の残る女も、名の残らぬ女も……
誰かの妻として、誰かの母として、体の中から未来を押し出す。
その未来が、自分の手元に残るとは限らないのに……
「奥方様、もう少しにございます」
もう少し――
人は苦しい時ほど、簡単な言葉にすがります。
もう少し……
その少しが、ずいぶん長い。
私は歯を食いしばりました。
曹休家の奥方として、などと考える余裕はありません。
劉備の娘として、などという札も剥がれ落ちました。
ただ、私でした。
痛くて、苦しくて、腹立たしくて、それでもこの子を外へ出さねばならない私でした。
そして、赤子の泣き声が上がりました。
細く、高く、けれど確かに生きている声でした。
部屋の空気が変わります。
乳母が声を震わせました。
「姫君にございます」
女子――
私は目を閉じました。
安堵したかった……
ただ、よかったと思いたかった……
けれど私は、あまりにも多くを見てしまっております。
女子であるということは、地図から下りることではありません。
むしろ、どこへでも置けるということです。
私がそうであったように……
玉珠がそうなりつつあるように……
この子も、いつか誰かの家へ行くのでしょう。
曹休家の娘として……
劉備玄徳の外孫として……
曹家に生まれた、扱いの難しい女子として……
乳母が赤子を私の腕に乗せました。
小さい。
あまりにも小さい。
この小さな手で、どうやって地図に抗えばよいのでしょう?
「……よく、生まれてきましたね」
私の声は、自分でも驚くほどかすれておりました。
赤子は泣き疲れたのか、目を閉じています。
まだ名もありません。
文烈様がお戻りになってから決めるべきでしょう。
父親がいない間に生まれた娘です。
せめて名くらいは、父に呼ばせてやりたい。
戸の向こうで、玉珠が叫びました。
「姉上! 赤ちゃん、鼻ある?」
「あります」
「よかった!」
何がよかったのでしょう……
「玉珠様、お静かに」
「赤ちゃん、鼻ほじる?」
「生まれたばかりでほじりません!」
私は思わず笑いそうになりました。
笑うと痛いので、すぐ後悔しました。
玉珠は本当に、どの場面でも玉珠です。
けれど、その声が戸の外にあるだけで、私は少し息ができました。
数日が過ぎ、体が少し落ち着いてから、私は文を書きました。
まずは文烈様へ。
十二月、女子を産みました。
母子ともに無事です。
姫君はよく泣き、よく眠ります。
名は、お戻りを待ちます。
父親の仕事を残しておきましたので、必ず帰ってきてください。
そう書いたところで、私は筆を止めました。
少し脅しすぎたでしょうか。
いいえ、足りません。
戻ると言ったのは文烈様です。
約束は、使えるうちに使うべきでございます。
次に、丞相様へ文を書きました。
これがたいへん厄介でした。
ただの出産報告なら簡単です。
けれど丞相様は、子が生まれたら知らせよ、と仰いました。
劉備の娘が産む、曹休の子だ、と……
ならば、この文はただの祝い文ではありません。
地図の上へ、新しい札が生まれたことを報告する文です。
私は腹の上ではなく、腕の中で眠る娘を見ました。
この子は札ではない。
けれど、札として見られる。
そのことを知らぬほど、私は愚かではありません。
筆を取り直しました。
丞相様へ申し上げます。
十二月、女子を産みました。
母子ともに大事ございません。
曹休家の子として、大切に育てます。
そこまで書いて、少し迷いました。
女子にございます。
その一言で、丞相様が何を思われるか、想像はつきます。
男ではないのか、と落胆なさるでしょうか。
いいえ――
あの方は、おそらく笑う。
女子か。
ならば置き場所が多い、と……
私は唇を引き結びました。
そして、最後に一行を加えました。
この子が、まず子として扱われますよう、母として努めます。
喧嘩ではありません。
祈りです。
ただし、少し尖った祈りです。
文を出した後、私は娘を抱いて眠りました。
小さな息が腕の中で続いています。
この子がいつか嫁ぐとしても……
この子がいつか地図の上へ置かれるとしても……
今日だけは、私の腕の中にいる。
それだけは、誰の政でも動かせません。
そう思っておりました。
甘かったようです。
丞相様の返書は、驚くほど早く届きました。
私は赤子を寝かせ、侍女から文を受け取りました。
封を見ただけで、胃のあたりが重くなります。
産後の体に、丞相様の文はよくありません。
医師に禁じていただきたいものです。
文は短いものでした。
女子、承知した。
母子無事、よろしい。
文烈へも知らせる。
そこまでは、まだよろしい。
まだ、です。
私は次の行を見て、指先が冷えました。
玉珠の件、元譲と進めよ。
一瞬、部屋の音が遠のきました。
私は娘を産んだ報告をしたはずでした。
返ってきた文には、妹の名がありました。
私が母になったことで、玉珠の道まで前へ進んだのです。
戸の外から、玉珠の声がしました。
「姉上、赤ちゃん起きた?」
私は文を握ったまま、返事ができませんでした。
玉珠が戸の隙間から顔を出します。
そして、指を鼻に入れたまま首を傾げました。
「姉上?」
私は静かに言いました。
「玉珠」
「なあに?」
「鼻から指を出しなさい」
「今?」
「今です」
玉珠は素直に指を抜きました。
私の腕の中で、娘が小さく身じろぎをしました。
生まれたばかりの娘。
嫁ぐ道へ進められる妹。
そして、それを一枚の文で同時に動かす丞相様。
私はようやく理解しました。
曹休家の奥は、出産で静かになる場所ではない。
女が生まれた瞬間から、次の女の行き先が決まっていく場所なのです。
その時、廊下の向こうから家令の足音が近づいてまいりました。
「奥方様」
嫌な予感がいたしました。
たいへんよく当たる予感です。
「夏侯元譲様より、使者にございます」
玉珠が、きょとんと瞬きました。
私は娘を抱き寄せました。
丞相様の地図は、もう次の線を引き始めていたのです。
劉玉珠です。
今回は、姉上のお腹がとても大きくなりました。
玉珠は最初、赤ちゃんはお腹の中でお菓子を食べているのかと思いました。
違うそうです。
少し残念です。
文烈様は、また戦へ行きました。
でも、今回はちゃんと「戻る」と言いました。
玉珠はそれを聞いて、少し安心しました。
前に父上は、そういうことを言ってくれなかった気がするからです。
姉上は、文烈様を見送る時、泣きませんでした。
でも、泣かない顔にも種類があります。
姉上の顔は、泣かないように頑張っている顔でした。
玉珠は、そういう顔を見ると、何かしてあげたくなります。
だから鼻をほじりました。
姉上に怒られました。
よく分かりません。
落ち着こうとしただけなのに……
十二月に、赤ちゃんが生まれました。
姫君です。
とても小さいです。
鼻もありました。
よかったです。
赤ちゃんはまだ鼻をほじりません。
赤ちゃんはえらいです。
玉珠も嫁入り修行中なので、鼻をほじらないようにしています。
でも、考える時と、緊張する時と、姉上が怖い顔をしている時は、指が勝手に鼻へ行きます。
これは玉珠のせいではないと思います。
指が悪いのです。
でも姉上は、玉珠のせいだと言います。
たいへん厳しいです。
姉上は、赤ちゃんを抱くと少し優しい顔になります。
でも、そのあとすぐ難しい顔になります。
赤ちゃんは赤ちゃんなのに、大人たちはすぐ文に書いたり、地図に載せたり、どこかへ置こうとしたりします。
玉珠には、まだよく分かりません。
赤ちゃんは、姉上の腕の中にいるのが一番よいと思います。
でも、丞相様からまた文が来ました。
文は、赤ちゃんのことだけではありませんでした。
玉珠の名前もありました。
元譲様の名前もありました。
玉珠は、元譲様を知っています。
片目を戦場に置いてきて、もう食べた人です。
怖いけど、怖くない人です。
でも、姉上の顔は怖くなりました。
たぶん、玉珠の嫁入り修行は、鼻の問題だけではなくなったのです。
次は、元譲様から使者が来ます。
玉珠は鼻をほじらないようにします。
たぶん――
……たぶんです。




