丞相様、腹の中まで戦場にしないでくださいませんか?
劉明珠でございます。
前回、私は丞相様へ返書を書きました。
曹休家の奥を預かる者として。
劉備玄徳の娘として。
玉珠の姉として。
文烈様の妻として。
札が多すぎます。
人間は札束ではございません。
たいへん困ります。
父の道は父の道。
娘の道は娘の道。
そう書いた以上、私はもう父上の名の陰へ隠れることも、捕虜だから仕方ないと目を伏せることもできなくなりました。
自分で書いた文とは、たいへん厄介です。
あとから自分の首を締めてまいります。
しかも、その返書を書く前に、丞相様は玉珠の名まで文に乗せてこられました。
夏侯元譲様が、いずれ玉珠を夏侯家へ迎えたいとのこと。
玉珠はまず、お菓子の有無を気にしました。
次に、鼻をほじってよいかを気にしました。
嫁入りとは、そこから教えねばならないものらしいです。
姉として、たいへん先が長うございます。
そして最後に、西から文が来ました。
潼関の戦は終わった。
文烈様の御名が、その文にある。
そう聞かされたところで、前回は終わりました。
文の中に名がある。
それだけで、人の胸は冷えます。
生きているのか?
勝ったのか?
戻るのか?
それとも、また私は丞相様の短い言葉に心臓を握られるのか?
今回は、その文の続きでございます。
文烈様が戻られます。
本当に戻られます。
帰ってくる、と書かれた方が、本当に帰ってくる。
それだけなら、喜ばしい話のはずでした。
けれど私の人生で、喜ばしいだけで終わる出来事など、あまり記憶にございません。
文烈様は戻られます。
屋敷は少し静かになり、少し温かくなり、少しだけ逃げ場がなくなります。
呼び名も変わります。
距離も変わります。
そして、私自身の体も、知らぬ間に変わってまいります。
たいへん困ります。
人の運命というものは、戦場だけで動くわけではございません。
文の上でも動きます。
屋敷の奥でも動きます。
夜の灯りが落とされた後にも動きます。
そして時には、丞相様の前で倒れかけた拍子に、腹の中まで地図の上へ載せられるのです。
父上――
あなたが長坂で置いていった娘は、曹休家で母になろうとしております。
しかも、その事実を一番面白がりそうな方の前で知らされることになります。
たいへん困ります。
私の腹の中まで、曹操と劉備の戦場にしないでいただきたいのですが……
どうやら、そう都合よくはいかないようでございます。
帰ってくる、と文に書かれた方が、本当に帰ってくる。
それは本来、たいへん喜ばしいことでございます。
けれど私は、喜ばしいことを素直に喜ぶ訓練を受けておりません。
たいへん困ります。
潼関の戦は終わり、文烈様は無事――
そう聞かされた私は、曹休家の奥におりました。
曹肇様は近くないと言いながら、私の袖に手を伸ばしておられます。
曹纂様は乳母の腕の中で、ちちうえ、ちちうえ、とまだ舌の回らぬ声で繰り返しておりました。
玉珠は菓子の袋を握りしめ、鼻から手を遠ざけております。
たいへん立派です。
立派の基準が地面に落ちている気もいたしますが、今は拾って褒めておきましょう。
門の方から、家令の声が響きました。
「文烈様、ご帰還にございます」
その一言で、曹肇様が立ち上がりました。
曹纂様も身を乗り出します。
玉珠は、なぜか私の顔を見ました。
「姉上!」
「何です?」
「今、鼻触ってないよ!」
「今はそこではございません」
「でも、文烈様が帰ってくるから」
「それは、たいへんよろしい心がけです」
ええ――
本当に、たいへんよろしい心がけです。
文烈様のお帰りを、妹が鼻をほじって迎えたとなれば、私はその場で倒れる自信があります。
私は立ち上がりました。
ゆっくりと……
決して慌ててはおりません。
奥方として、夫を迎えに出るだけでございます。
足が少し速くなったとしても、それは廊下が短くなったからです。
屋敷とは、時々、勝手に伸び縮みするものなのです。
門のところに、文烈様は立っておられました。
戦場の土をまとい、旅の疲れを帯び、それでも目だけは穏やかでした。
その姿を見た瞬間、胸の奥が妙な音を立てました。
私は、こういう音を聞くために生きているわけではございません。
「明珠殿」
文烈様が私を見て、そう呼ばれました。
それだけで、用意していた言葉がすべて散りました。
お帰りなさいませ。
ご無事で何よりです。
屋敷は乱しておりません。
若君方もお待ちでした。
言うべきことはいくらでもあったはずなのに、私の口から出たのは、たいへん間の抜けたものでございました。
「……お戻りに、なられたのですね」
「戻った」
文烈様は少し笑われました。
「約束したからな」
そのようにまっすぐ言われると、こちらが困ります。
約束を守る男は、たいへん扱いにくい。
守られなかった約束に慣れた身には、なおさらでございます。
曹肇様が、私の横から一歩出ました。
「父上」
小さい声でした。
けれど、しっかり届きました。
文烈様の目がやわらぎます。
「肇」
曹肇様は走りませんでした。
飛びつきもしませんでした。
ただ、一歩近づき、そこで止まります。
近くない。
きっと本人はそう思っているのでしょう。
文烈様はそれを分かっているように膝を折り、手を伸ばされました。
曹肇様は少し迷い、それからその手をつかみました。
それだけで十分でした。
曹纂様は、父上という言葉より先に腕を伸ばしました。
「ちちうえ」
乳母がそっと近づけると、文烈様は曹纂様を抱き上げました。
曹纂様は安心したように、文烈様の衣を握ります。
その小さな手を見て、私は思いました。
この子たちは、私の子ではない。
けれど、この家の子です。
文烈様の子です。
そして今、私はこの子たちのそばに立っております。
人はいつの間にか、逃げられない場所を自分で選んでしまうものなのですね。
玉珠が、そろそろと文烈様を覗き込みました。
「文烈様」
「玉珠も元気そうだな」
「鼻、触ってないよ!」
文烈様が一瞬、固まりました。
私は目を閉じました。
どうして、そこで言うのですか?
どうして、今なのですか?
「……そうか」
文烈様は大変立派でした。
笑いもせず、怒りもせず、ただ真面目に頷かれました。
「それは、よいことだ」
「嫁入り修行中です」
「嫁入り……」
文烈様が私を見ました。
私は静かに視線をそらしました。
その話は後でございます。
たいへん後でございます。
その日は、屋敷の者たちが静かに忙しく動きました。
大騒ぎは禁じました。
けれど、祝いの膳は整えました。
戦から戻った主を迎えるのです。
騒がず、浮かれず、冷たくもならず。
奥を預かる者として、その加減を考えねばなりませんでした。
たいへん面倒です。
けれど、面倒なことを面倒と言いながら片づけるのが、どうやら私の役目らしいのです。
夜になり、ようやく静かになると、文烈様は私に向き直られました。
「明珠殿」
「はい」
「屋敷を守ってくれて、かたじけない」
その言葉は、戦場帰りの方の声にしては、あまりにも穏やかでした。
私は少し目を伏せました。
「守ったなどと、大げさでございます。私は文を読まされ、返書を書かされ、若君方に袖を貸し、玉珠の鼻から指を遠ざけていただけです」
「それを守ったと言う」
「丞相様の文が多すぎました」
「それは否定せぬ」
文烈様は苦笑されました。
「丞相様から、お前の返書のことも聞いた」
「何を仰ったのですか?」
「曹休家の奥は、思ったより骨がある、と」
褒め言葉でしょうか?
脅しでしょうか?
丞相様の言葉は、たいてい両方混じっております。
「たいへん困ります」
「明珠殿らしい」
「私は骨扱いされるために嫁いだ覚えはございません」
「では、何のために嫁いだ?」
文烈様の声が、少しだけ低くなりました。
責める声ではありません。
ただ、近い声でした。
私は答えに詰まりました。
何のために――
それを聞かれると困ります。
最初は、私の意思ではありませんでした。
長坂で捕らえられ、許へ送られ、曹家の内へ置かれ、いつの間にか曹休家の奥にいる。
私の人生は、他人の手で札を動かされ続けてきました。
けれど今、文烈様の前に座っている私は、もうただの札ではありません。
自分で返書を書きました。
父の道は父の道。
娘の道は娘の道。
そう書いたのは私です。
「分かりません」
私は正直に申し上げました。
「けれど、今はここにおります」
文烈様は、しばらく私を見ておられました。
それから、そっと手を伸ばされました。
「嫌なら、言うがよい」
そう言われて、私は腹が立ちました。
本当に、腹が立ちました。
この方は、いつも逃げ道を用意してくださる。
それが優しさだと分かっているから、なお腹が立つのです。
「今さら逃げ道を用意されましても、困ります」
「逃げるか?」
「逃げません」
声は震えませんでした。
少なくとも、そう思いたいところです。
文烈様の手が、私の手に触れました。
戦場帰りの手です。
硬く、熱く、少し傷がありました。
私はその手を引きませんでした。
外では、冬の風が庭木を鳴らしておりました。
部屋の灯りが、ゆっくり落とされます。
祝いの膳の香りも、遠くなりました。
その夜のことを、長く書くつもりはございません。
書けばよいというものではないのです。
ただ一つだけ申し上げるなら――
私はその夜、曹休家の奥方になりました。
形だけではなく。
文の上だけでもなく。
逃げ場を失った捕虜としてでもなく。
自分でここに残ると決めた女として……
たいへん困ります。
困るほど、静かな夜でございました。
年が改まり、しばらくは穏やかな日が続きました。
穏やかと申しましても、玉珠が鼻をほじらない練習をしている時点で、本当の穏やかとは少し違う気もいたします。
曹肇様は文烈様が戻られてから、以前よりも少しだけ素直になりました。
近くないと言いながら、父上のそばにも、私のそばにも来ます。
曹纂様は父上に抱かれ、私の袖も探します。
たいへん贅沢な若君です。
文烈様はそれを見て、少し笑われます。
その笑い方を見るたび、私は胸の奥が落ち着かなくなりました。
戦場の報せより、穏やかな笑みの方が手に負えないこともあるのです。
二月に入った頃から、私は少し体が重くなりました。
最初は寒さのせいだと思いました。
次に、文の読みすぎだと思いました。
その次は、玉珠の嫁入り修行を見張りすぎたせいだと思いました。
つまり、原因をずいぶん遠くに探しておりました。
朝、膳の香りが妙にきつく感じられる日がありました。
いつもなら何ともない汁物の匂いに、胸が悪くなります。
「姉上、食べないの?」
玉珠が心配そうに覗き込みました。
「少し、食欲がありません」
玉珠は目を見開きました。
「大変」
「大げさです」
「食欲がないのは大変だよ。玉珠なら死ぬかもしれない」
「あなたを基準にしないでください」
「お菓子なら食べられる?」
「そういう話ではございません」
玉珠は真剣に考えました。
「じゃあ、鼻をほじる?」
「なぜですか?」
「気がまぎれるかも」
「嫁入り修行中でしょう」
「あ」
危ないところでした。
妹に看病をさせると、病の前に礼儀が死にます。
私はしばらく、その不調を隠しました。
隠したつもりでした。
けれど、文烈様は気づかれました。
「明珠、顔色が悪いな」
その呼び方に、私は一瞬だけ言葉を失いました。
明珠殿ではありません。
明珠――
たった一文字ほど減っただけで、人の胸を乱すとは、呼び名というものはたいへん危険です。
「気のせいです」
「気のせいではない」
「では、季節のせいです」
「季節だけでそこまで青くならぬ」
「丞相様の文のせいかもしれません」
「それはあり得るが、違う」
文烈様は、しばらく私を見ておられました。
「医師を呼ぶ」
「大げさでございます」
「少し休めば治ります」
「本当か?」
「本当です」
嘘ではございません。
少し休めば、少しはよくなります。
ただし、また悪くなるだけです。
文烈様は納得しておられない顔でした。
けれど私は、ただの疲れだと言い張りました。
この頃の私は、自分の体で起きていることを、まだ知らなかったのです。
五月になりました。
外では、馬騰殿とその子らが誅されたとの噂が流れておりました。
西の戦は終わっても、西の血はまだ乾いていないようでございます。
体調は、良い日と悪い日を行き来しておりました。
文烈様は過保護になりました。
私は認めたくありませんが、かなり過保護です。
外へ出る時は付き添いを増やし、歩く速さにまで口を出してこられます。
「明珠、急ぐな」
「急いでおりません」
「早い」
「廊下が短いのです」
「廊下のせいにするな」
反論できませんでした。
腹立たしいことです。
その頃、丞相様へ挨拶に伺うことになりました。
文烈様の帰還後、屋敷の内が落ち着いたこと。
若君方が無事であること。
そして、私が曹休家の奥方として役目を果たしていること。
そうした報告を兼ねた挨拶でございます。
正直に申しますと、行きたくありませんでした。
丞相様の前に出ると、たいてい何かが起こります。
あの方は戦場にいなくても、人の人生を動かしてこられます。
たいへん迷惑です。
けれど、避けるわけにはまいりません。
私は文烈様とともに、丞相様の前へ出ました。
丞相様は、相変わらず小柄で、相変わらず目だけが鋭い方でした。
玉珠が以前、チビ、と言いかけて私の魂を抜いた相手です。
今日は玉珠を連れてこなくて本当によかった。
心からそう思いました。
「文烈」
「は」
「戻ってから、屋敷は落ち着いているようだな」
「明珠がよく守っております」
やめてください……
本人の前で言うことではございません。
丞相様の目が、私へ移りました。
「そなたの返書は読んだ」
「恐れ入ります」
「父の道は父の道、娘の道は娘の道、であったな」
「はい」
「よくぞ申した」
褒められているはずなのに、背筋が凍りました。
丞相様に褒められるということは、獲物としてよく見られていることとあまり変わらない気がいたします。
私は礼を取りました。
その瞬間、少し目の前が揺れました。
まずい、と思いました。
ここで倒れるわけにはまいりません。
丞相様の前です。
文烈様の隣です。
曹休家の奥方として、あまりにも格好がつきません。
けれど、体は格好を考えてはくれません。
膝から力が抜けかけました。
「明珠!」
文烈様の手が、すぐに私を支えました。
丞相様の目が細くなります。
その場の空気が一瞬で変わりました。
私は倒れたくて倒れかけたわけではございません。
「顔色が悪いな」
丞相様が言いました。
「医師を呼べ」
判断が早すぎます。
戦場の采配と同じ速さで、私の体調を処理しないでいただきたい。
しかし、呼ばれた医師はすぐに来ました。
脈を取り、私を見て、文烈様を見て、最後に丞相様へ頭を下げました。
「おめでたにございます」
部屋の中が、静まりました。
文烈様の手に力が入ります。
医師は、さらに頭を下げました。
「御身に宿られて、三月ほどにはなりましょう」
三月――
私は思わず、文烈様を見ました。
一月の、あの夜。
そこへ考えが届いた瞬間、耳まで熱くなりました。
場所を選んでください。
本当に、場所を選んでください。
なぜ丞相様の前で、そこまで思い出さねばならないのですか。
身籠る……
私が……
曹休家の子を……
文烈様の子を……
そして、それを丞相様の前で知らされる……
たいへん困ります。
私の人生は、どうして大事なことほど場所を選ばないのでしょう。
丞相様は、しばらく黙っておられました。
その沈黙が怖い。
怒っているのではない。
喜んでいるのでもない。
もっと別のものを見ている沈黙でした。
やがて、丞相様は穏やかに笑われました。
「そうか」
その一言だけでした。
けれど、その目は私ではなく、もっと遠い場所を見ているようでした。
おそらく、益州へ向かった父上の方角を……
劉備玄徳――
父上――
あなたの娘は、曹家の屋敷で子を身籠りました。
曹休の子を……
曹家の子を……
丞相様の目が、ほんのわずかに愉快そうに細まります。
口には出されません。
けれど、私はその場にいて、何となく分かってしまいました。
この方はいま、心の中で父上に向かって何かを言っておられる。
たぶん、こうです。
「劉備よ、お前の娘が、曹家の子を身籠ったぞ」
たいへん困ります。
私の腹の中まで、曹操と劉備の戦場にしないでいただきたい。
私はただ、子を宿しただけです。
父の旗でも、曹家の戦利品でも、丞相様の勝ち札でもございません。
そう思いましたが、口には出せませんでした。
代わりに、私は腹に手を添え、静かに頭を下げました。
「曹休家の子として、大切にいたします」
丞相様の目が、私へ戻りました。
「それでよい」
短い言葉でした。
また短い。
この方は、本当に短い言葉で人の人生を決めてきます。
文烈様は、私を支えたまま、静かに言いました。
「明珠、無理をするな」
「しておりません」
「している」
「丞相様の前で倒れかけるほど、私は無礼ではございません」
「倒れかけた」
「まだ倒れておりません」
丞相様が笑いました。
本当に笑いました。
「文烈よ」
「は」
「その妻は、腹に子を抱えても口は減らぬな」
「はい」
文烈様――
そこで素直に頷かないでください。
私は抗議の目を向けましたが、文烈様は少しだけ嬉しそうでした。
困ります。
本当に困ります。
丞相様は、机の上へ視線を落とされました。
そこには地図がありました。
益州の名が見えました。
父上のいる方角です。
そして、そのすぐそばに、丞相様の指が置かれました。
「子が生まれたら、知らせよ」
私は息を止めました。
「劉備の娘が産む、曹休の子だ」
部屋の空気が、また少し変わりました。
私の腹の中にいるまだ形も見えぬ子が、その瞬間、丞相様の地図の上へ置かれた気がいたしました。
この子はまだ、泣いてもおりません。
名もありません。
男か女かも分かりません。
それなのにもう、曹操と劉備玄徳の間に立たされようとしている。
私は腹へ手を置きました。
何も動きません。
けれど、確かにそこにいる。
父上――
あなたが長坂で置いていった娘は、ここで母になります。
曹家の奥で……
あなたの敵の家で……
そしてこの子は、生まれる前から、丞相様の地図に載せられました。
私は顔を上げました。
声は、震えませんでした。
「承りました」
そこだけは、私の勝ちでよろしいでしょう。
けれど丞相様は、まだ笑っておられました。
その笑みの向こうで、益州の文字が、妙に濃く見えました。
私はこの時、初めて悟りました。
母になるということは、私一人の幸せでは済まないのだと……
曹休家の奥は、また静かではいられなくなるのだと……
劉玉珠です。
今回は、文烈様が帰ってきました。
帰ってくる、と文に書いてあった人が、本当に帰ってきました。
これはすごいことです。
玉珠は、文というものを少し見直しました。
でも、文はやっぱり怖いです。
姉上の顔を変にします。
文烈様が帰ってくる前、姉上は落ち着いている顔をしていました。
でも、あれは落ち着いている顔ではありません。
落ち着いているふりをしている顔です。
玉珠には分かります。
姉上の顔は、難しい文を読む時と、文烈様のことを心配している時で、少し違います。
どちらも変ですが、種類が違います。
文烈様が屋敷に入ってきた時、玉珠はちゃんと鼻を触っていませんでした。
これは大事です!
嫁入り修行中ですから!
でも姉上は、今はそこではありません、と言いました。
そこだと思います……
文烈様が帰ってくるのです。
鼻を触って迎えるわけにはいきません。
玉珠も、それくらいは分かります。
たぶん――
文烈様は、戦から帰ってきたのに、怖くありませんでした。
土の匂いはしました。
疲れているようにも見えました。
でも、曹肇を見る目と、曹纂様を抱き上げる手は、前と同じでした。
曹肇は走りませんでした。
近くない、という顔をしていました。
でも、文烈様の手をつかみました。
近いと思います。
曹肇は、近くないと言いながら近いです。
姉上と少し似ています。
姉上も、困りますと言いながら逃げません。
困っている人ほど、そばにいることがあります。
玉珠には、少し不思議です。
夜になってから、文烈様と姉上は二人でお話をしたそうです。
玉珠は聞いていません。
本当です。
廊下にいたわけではありません。
たぶん――
ただ、次の日から、文烈様の呼び方が少し変わりました。
前は、明珠殿、と呼んでいました。
それが、明珠、になりました。
殿がなくなりました。
殿はどこへ行ったのでしょうか?
戦場に置いてきたのでしょうか?
それとも、夜のうちに消えたのでしょうか?
姉上に聞いたら、黙りなさいと言われました。
たぶん、大事なことです。
それから、姉上は少し具合が悪くなりました。
食欲がないと言いました。
大変です。
食欲がないなど、玉珠なら命に関わります。
姉上は、玉珠を基準にしないでくださいと言いました。
でも、食べられないのは大変です。
お菓子なら食べられるかもしれないと思いました。
鼻をほじれば気がまぎれるかもしれないとも思いました。
姉上には怒られました。
嫁入り修行中なので、玉珠も反省しました。
少しだけです……
五月になって、姉上は文烈様と一緒に丞相様のところへ挨拶に行きました。
玉珠は連れて行ってもらえませんでした。
理由は言われていません。
でも、たぶん、前にチビと言いかけたせいです。
言いかけただけです。
全部は言っていません。
姉上の魂が抜けそうな顔をしたので、途中で止めました。
だから半分くらいは許されてもよいと思います。
丞相様の前で、姉上は倒れかけたそうです。
そして、そこでお医者様に言われました。
おめでたです、と。
姉上のお腹に、赤ちゃんがいるそうです。
玉珠は驚きました。
姉上のお腹に赤ちゃん。
文烈様の赤ちゃん。
曹休家の赤ちゃん。
でも、丞相様はそれを聞いて、父上の方角を見たそうです。
父上は益州にいます。
赤ちゃんは姉上のお腹にいます。
場所がぜんぜん違います。
それなのに、丞相様の頭の中では、二つがつながっているようです。
大人は不思議です。
赤ちゃんは、まだ生まれていません。
お菓子も食べません。
泣いてもいません。
鼻も触っていません。
それなのに、もう地図の上に乗せられたそうです。
とても早いです。
玉珠より早いかもしれません。
姉上は、赤ちゃんを曹休家の子として大切にすると言いました。
姉上らしいです。
でも玉珠は思いました。
赤ちゃんは赤ちゃんです。
曹休家の子でも、劉備玄徳の孫でも、丞相様が面白がる札でも、まず赤ちゃんです。
お菓子はまだ食べられません。
でも、生まれたら、いつか食べられるようになります。
その時は玉珠が教えてあげます。
姉上に怒られない食べ方を。
鼻を触らない食べ方も、たぶん教えてあげます。
たぶんです!
次回から、姉上は母上になる準備をするのだと思います。
でも、ただの母上ではありません。
曹休家の奥で、父上の娘のまま、文烈様の妻のまま、丞相様の地図に載せられた赤ちゃんを守る母上です。
とても大変そうです。
玉珠なら、お菓子を食べないと無理です。
それに、丞相様は言ったそうです。
子が生まれたら、知らせよ、と。
玉珠は少し分かってきました。
丞相様が知らせよと言う時は、ただ知らせれば終わる話ではありません。
きっとまた文が来ます。
赤ちゃんが生まれる前から、もう文が待っている気がします。
姉上の顔が、また難しくなると思います。
だから玉珠は、次回までに音を立てないお菓子を探しておきます。
あと、鼻には触りません。
赤ちゃんに見られたら大変ですから。




