曹肇様、その鍵は軽く渡してよいものですか?
劉明珠でございます。
前回、文烈様のいない曹休家で、曹肇様と曹纂様が少しだけ近づいてまいりました。
曹纂様は、相変わらず私の袖をつかんでおられます。
片袖ではございません。
場合によっては、両袖です。
幼い若君の手というものは、小さいくせに、たいへん強力でございます。
曹肇様も、行かないと仰りながら、結局こちらへ来られました。
見ていただけだと仰りながら、しっかり見ておられました。
曹肇様の言葉と足は、どうやら別々の主人に仕えているようです。
誰かに似ております。
誰かとは申しません。
申しませんが、私の足も、先日たいへん不忠でした。
文烈様が西へ向かわれてから、屋敷は静かになりました。
けれど、静かになったからといって、何も起きないわけではございません。
むしろ静かな場所ほど、重いものが出てくる場合がございます。
今回、私の前に出てきたのは、小箱でした。
屋敷の奥にしまわれていた、古い小箱です。
鍵は、曹肇様が持っておられました。
小さい鍵です。
けれど、曹肇様の顔を見るかぎり、軽いものではなさそうでした。
玉珠は、小箱の中身がお菓子である可能性をまだ捨てていない顔をしておりました。
さすが我が妹です……
どのような場面でも、甘味への道を探す姿勢だけは揺らぎません。
ですが、残念ながら、これは菓子の箱ではございません。
たぶん――
少なくとも、曹肇様があのような顔をして持つ鍵が、ただの菓子箱の鍵であるはずがございません。
今回は、その小箱を開けるお話です。
文烈様は不在です。
ですが、不在だからといって、私を困らせないわけではありません。
この方は、いない場所からでも、人を曹休家の奥へ押し込んでくるようです。
たいへん困ります。
父上――
あなたの娘は、敵地で鍵を渡されました。
箱の中身を見る前から、すでに重いです。
そして私は、開ける前から少しだけ負けております。
小箱の蓋を開ける前から、私はすでに負けておりました。
たいへん困ります。
鍵というものは、小さいくせに重すぎます。
曹肇様の手の中で、古びた鍵が光っていました。
文烈様からの文には、屋敷の奥の小箱を私に預ける、とありました。
鍵は、肇に渡してある、とも……
つまり、これはただの小箱ではありません。
ただの小箱なら、曹肇様の顔があのように硬くなるはずがないのです。
「曹肇様」
私は静かに呼びました。
「その鍵は、私に渡すよう文烈様から言われたのですか」
曹肇様は鍵を握りしめたまま、答えません。
曹纂様は私の袖をつかんで眠っています。
玉珠は隣で、たいへん真剣な顔をしていました。
たぶん中身がお菓子かどうかを考えております。
この場でその可能性を捨てない妹の精神は、ある意味では強いです。
「父上は」
曹肇様が、ようやく口を開きました。
「明珠殿に見せよと言った」
「渡せ、ではなく」
「見せよ、と」
見せる――
その言葉は、渡すよりも厄介でした。
渡されるだけなら、受け取るか返すかを選べます。
見せられるものは、見てしまえば戻れません。
知らなかった頃には戻れないのです。
人生にはそういう罠が多すぎます。
「曹肇様は、それでよろしいのですか?」
「父上が言った」
「私が伺っているのは、文烈様のお言葉ではございません」
曹肇様が、こちらを見ました。
「曹肇様のお気持ちです」
部屋の空気が少しだけ止まりました。
玉珠も黙りました。
珍しいことです。
曹肇様は鍵を見下ろしました。
まだ幼い指です。
けれど、その指は鍵を離そうとしません。
「……分からぬ」
正直な声でした。
「父上が、明珠殿ならよいと言った」
「はい」
「でも、母上のものだ」
その言葉で、私はようやく息を止めました。
小箱の正体が、見えた気がしました。
曹肇様と曹纂様の亡き母君。
私がこの屋敷へ入る前から、この家にいた方。
文烈様の妻であり、この若君方の母君であった方。
私は、その方の名も、顔も、声も知りません。
けれど、この屋敷のあちこちに、その方がいたはずです。
空いた席。
使われなくなった櫛。
幼子が泣く時に探す気配。
曹肇様が大人の顔をしようとする理由。
曹纂様が袖をつかんで離さない理由。
知らない方なのに、ずっと近くにおられたのです。
たいへん困ります。
知らない相手にまで、私は礼を尽くさねばならないようです。
いえ――
礼を尽くさねばならないのではありません。
尽くしたいと思ってしまったのです。
それがまた、たいへん困るのです。
「曹肇様」
私は言いました。
「その箱は、母君のものなのですね?」
曹肇様は小さく頷きました。
「ならば、軽く開けてよいものではございません」
玉珠が目を丸くしました。
「開けないの?」
「開けます」
「軽く開けないのに、開けるの?」
「心を重くして開けるのです」
玉珠は少し考えました。
「箱は重いの?」
「中身によります」
「お菓子なら軽い?」
「今はお菓子から離れなさい」
「はい……」
素直です。
ただし、目はまだ小箱を見ています。
曹肇様が、ゆっくり私へ鍵を差し出しました。
その手は少し震えています。
私はすぐには受け取りませんでした。
「曹肇様」
「何だ」
「私は、母君の代わりにはなれません」
曹肇様の目が揺れました。
言うべきか、迷いました。
けれど言わねばなりません。
ここで黙れば、私はこの屋敷で一番大切な影を踏むことになります。
「私は文烈様の妻として、この屋敷におります。曹肇様と曹纂様のそばにいることも、文烈様から頼まれました。けれど、母君を消して、その場所に座るつもりはございません」
曹肇様は、何も言いません。
「母君は、母君です」
声に出すと、その言葉は思ったより重く響きました。
「私が来たからといって、いなかったことにはなりません。忘れてよい方にもなりません。曹肇様が覚えておられるなら、なおさらです」
曹肇様の手から、力が少し抜けました。
「忘れたら、悪いのか?」
「忘れたい時もあるでしょう」
「……忘れたくない」
「なら、忘れなくてよろしいのです」
私は曹纂様を見ました。
幼い子は眠ったまま、私の袖をつかんでいます。
「曹纂様が覚えておられないことも、曹肇様が覚えているなら、いつか話して差し上げればよいのです。母君はおられた、と。曹纂様を抱いた方がいた、と」
自分で言いながら、胸の奥が少し痛みました。
おられた……
いた……
その言葉は、いつか誰かに私のためにも言ってほしい言葉なのかもしれません。
長坂で落ちた娘がいた。
荷車の上にいた。
父の物語から外れても、生きていた。
私は、まだそこまで考えてはいけません。
今は曹肇様の母君の話です。
私の痛みを、他人の痛みに混ぜてはいけません。
「明珠殿は……」
曹肇様の声は小さくなっていました。
「母上のものを、捨てないか?」
「捨てません」
「使わないか?」
「私のものではございません」
「父上の妻なのに?」
鋭い言葉でした。
幼いくせに、そこを突いてきます。
たいへん困ります。
文烈様――
ご子息は、あなたに似て逃げ道を塞ぐのがお上手です。
「文烈様の妻であることと、母君のものを奪うことは別でございます」
私は答えました。
「この箱の中に何があっても、それはまず母君のものです。それを守るために私が預かるなら、預かります。ですが、私が母君になるために使うことはありません」
曹肇様は、じっと私を見ていました。
やがて、鍵を差し出しました。
今度は、手が震えていませんでした。
私は両手で受け取りました。
たいへん重い鍵です。
金属としては、小さいのに……
「開けても、よろしいですか?」
曹肇様は頷きました。
玉珠が息を止めています。
曹纂様は袖をつかんだまま眠っています。
部屋の者たちも、誰も音を立てません。
私は小箱の前へ座りました。
古い木の箱です。
派手ではありません。
けれど手入れはされていました。
大切にしまわれてきたものの匂いがします。
鍵穴へ鍵を差し込みました。
かちり、と小さな音がしました。
それだけの音なのに、胸の奥まで響きました。
蓋を開けます。
中には、淡い布に包まれたものがありました。
まず出てきたのは、櫛でした。
黒く艶のある、小さな櫛。
次に、簪。
華美ではありません。
けれど、細工は丁寧で、持ち主が日々大切に使っていたことが分かります。
その下には、幼子の名を書いた小さな札が二つ。
曹肇様。
曹纂様。
さらに、細く折られた布。
子どもの産着の端を切り取ったものでしょうか?
私は手を止めました。
これは、母君の箱です。
文烈様の亡き妻の箱ではありません。
母の箱です。
子を産み、育て、途中で手を離さざるを得なかった方の箱。
私が触れるには、あまりに近く、あまりに遠い。
玉珠が小声で言いました。
「お菓子じゃなかった」
「そうですね」
「でも、大事なものだね」
「ええ――」
玉珠は、こういう時だけ真っ直ぐです。
菓子かどうかで世界を測る妹でも、大事なものかどうかは分かるのです。
曹肇様は、櫛を見つめていました。
「母上の櫛だ」
「はい」
「父上がしまっていた」
「はい」
「私は、あまり覚えていない」
曹肇様の声は、先ほどより小さくなりました。
子どもが無理に沈めた声です。
「でも、これは覚えている。母上の髪にあった」
私は櫛へ触れませんでした。
触れられませんでした。
「覚えておられるなら、それでよろしいのです」
「少しだけだ」
「少しでも、曹肇様の中におられます」
曹肇様のまつげが震えました。
「纂は、覚えていない」
「なら、曹肇様が教えて差し上げればよろしいのです」
「私が?」
「はい。母君のことを知っている兄上ですから」
兄上――
その言葉に、曹肇様の顔が少し変わりました。
子ども扱いされることを嫌がる顔ではありません。
役目を渡された顔です。
「私が、纂に?」
「はい」
「母上のことを?」
「はい」
曹肇様は黙りました。
それから、私のそばへさらに近づきました。
昨日より近く。
先ほどよりも近く。
肩が触れるほどではありません。
けれど、逃げるための距離ではありませんでした。
玉珠が小さく笑いました。
「曹肇、近いね」
「近くない」
「近いよ」
「……箱を見るためだ」
「そうだね」
玉珠があっさり頷きました。
そこは追い詰めないのですね。
妹にも、たまには加減があるようです。
私は箱の中へもう一度目を落としました。
櫛と簪。
名札と産着の布。
そして一番下に、小さな包みがありました。
古びた紙です。
封はされていません。
けれど、開かれた跡もありませんでした。
私は手を止めました。
曹肇様も、それを見ています。
顔が強張っていました。
「曹肇様」
「それは……」
声が震えました。
「父上が、まだ開けるなと言ったものだ」
「文烈様が?」
曹肇様は頷きました。
「明珠殿が、母上を消さぬと言ったなら、見せよと」
息が止まりました。
文烈様――
あなたはどこまで読んでおられるのですか?
私は、母君を否定しないと答えることまで、試されていたのでしょうか?
いえ――
試すというより、信じられていたのかもしれません。
どちらにせよ、重いです。
たいへん重いです。
「これは、何ですか」
私が尋ねると、曹肇様は小さく答えました。
「母上が、父上に残した文だそうだ」
部屋の空気が変わりました。
曹纂様の寝息だけが聞こえます。
玉珠も黙っています。
私は古びた紙包みを見つめました。
亡き母君が、文烈様に残した文……
それを、文烈様は私へ見せようとしている。
母君を消さないなら……
母君を否定しないなら……
この家の奥へ入ってよい、と言うように……
「姉上」
玉珠が、ひそひそ声で言いました。
「これは、お菓子より重い?」
私は、紙包みから目を離せませんでした。
「比べものになりません」
曹肇様が、私を見上げました。
「明珠殿」
その声には、先ほどまでよりも明らかな頼りが混じっていました。
「一緒に、読んでくれるか?」
私は答えられませんでした。
曹肇様の手が、私の袖に触れました。
曹纂様の手とは違います。
泣いて捕まえる手ではありません。
選んで、そばに来る手でした。
小箱の底で、亡き母君の文が眠っています。
文烈様は西におられます。
この屋敷には、残された子どもたちと、亡き方の文と、私がいます。
たいへん困ります。
私はいったい、どこまでこの家の奥へ入れられるのでしょうか?
それでも、曹肇様の手は離れませんでした。
そして私は、その手を振りほどけませんでした。
劉玉珠です。
今回は、小箱を開けました。
お菓子の箱ではありませんでした。
玉珠は、とても悔しかったです。
でも、すぐに分かりました。
あれは、お菓子よりずっと大事な箱です。
姉上も、最初から分かっていたようです。
鍵を見る前から、顔が少し難しくなっていました。
曹肇も、いつもよりずっと難しい顔をしていました。
曹纂様は眠っていました。
でも、姉上の袖は離していませんでした。
曹纂様は眠っていても、姉上を捕まえることができます。
すごいです!
小箱の鍵は、曹肇が持っていました。
小さい鍵でした。
でも、軽そうではありませんでした。
玉珠は、鍵というものは戸や箱を開けるものだと思っていました。
でも、今回の鍵は、たぶん心も少し開けるものだったのだと思います。
姉上は、曹肇に聞きました。
それでよいのですか、と……
父上が言ったからではなく、曹肇はどう思っているのか、と聞きました。
曹肇は、分からぬ、と言いました。
曹肇が分からぬと言うのは、少し珍しい気がします。
いつもは、見ていただけだ、とか、行かない、とか、近くない、とか言います。
でも今回は、分からぬと言いました。
本当に分からなかったのだと思います。
小箱は、曹肇と曹纂様の母上のものでした。
姉上は、それを聞いて、すぐに軽く開けてよいものではありませんと言いました。
玉珠は、少し難しかったです。
軽く開けないのに、開けるのです。
姉上は、心を重くして開けるのだと言いました。
心は見えません。
でも、その時の姉上の顔は、たぶん重かったです。
姉上は、曹肇に言いました。
自分は母君の代わりにはなれない、と。
母君を消して、その場所に座るつもりはない、と。
玉珠は、その言葉を聞いて、少し静かになりました。
姉上は、時々たいへん大事なことを言います。
怒っている時や皮肉を言っている時もありますが、大事な時は、ちゃんと大事に言います。
母君は、母君です。
姉上は、そう言いました。
曹肇は黙っていました。
でも、顔が少し変わりました。
玉珠には分かります。
曹肇は、少し安心したのだと思います。
母上がいなかったことにされない。
忘れなくてよい。
捨てられない。
使われない。
奪われない。
たぶん、曹肇はそれを聞きたかったのです。
姉上は、それをちゃんと言いました。
だから、曹肇は鍵を渡しました。
今度は、手が震えていませんでした。
玉珠は、それを見ました。
小箱の中には、櫛がありました。
簪もありました。
曹肇と曹纂様の名が書かれた札もありました。
産着の布のようなものもありました。
お菓子はありませんでした。
でも、玉珠でも分かりました。
あれは、母上の箱です。
文烈様の亡き妻の箱ではなく、母上の箱です。
姉上も、そう思ったようでした。
姉上は櫛に触れませんでした。
触れられなかったのだと思います。
姉上は、遠慮する時があります。
でも、ただ遠慮しているのではありません。
大事なものを大事にするために、触れない時があるのです。
曹肇は、母上の櫛だと言いました。
母上の髪にあった、とも言いました。
少しだけ覚えているそうです。
少しだけでも、覚えているなら、それでよいと姉上は言いました。
曹纂様は覚えていないそうです。
だから姉上は、曹肇がいつか教えて差し上げればよいと言いました。
母君のことを知っている兄上だから、と。
その時、曹肇の顔がまた少し変わりました。
兄上。
その言葉は、たぶん曹肇にとって大事だったのだと思います。
曹肇はまだ小さいです。
でも、曹纂様の兄上です。
母上のことを覚えている兄上です。
姉上は、曹肇を子どもとしてだけではなく、兄上として見ていました。
だから曹肇は、姉上の近くへ来ました。
近くない、と言っていました。
でも、近かったです。
箱を見るためだ、と言っていました。
でも、たぶんそれだけではありません。
玉珠は追い詰めませんでした。
玉珠は偉いです。
たぶん。
小箱の底には、まだ紙包みがありました。
古い文だそうです。
曹肇は、それを見て顔が強張りました。
父上が、まだ開けるなと言ったものだそうです。
姉上が母上を消さぬと言ったなら、見せよ。
そう言われていたそうです。
文烈様は、遠くへ行っているのに、また姉上を困らせました。
いないのに、すごいです。
いないのに、重いものを残していきます。
小箱の中の文は、亡き母上が文烈様に残した文だそうです。
玉珠は、お菓子より重いかと聞きました。
姉上は、比べものにならないと言いました。
それは、とても重いということです。
お菓子にも重いものはあります。
餅などは重いです。
でも、あの文は餅より重いのだと思います。
たぶん、心に乗る重さです。
曹肇は、姉上に一緒に読んでくれるかと聞きました。
玉珠は、その時の声を聞きました。
曹肇は、姉上を少し頼っていました。
昨日よりも、今日の方が頼っていました。
さっきよりも、もっと頼っていました。
曹纂様は、眠りながら姉上の袖をつかみます。
曹肇は、起きていて、自分で姉上の袖に触れました。
同じ袖でも、少し違います。
曹纂様は、離れたくないからつかみます。
曹肇は、そばにいてほしいから触れたのだと思います。
姉上は答えられませんでした。
でも、手を振りほどきませんでした。
それなら、たぶん答えたのと同じです。
姉上は、口では遅い時があります。
でも、逃げない時は、もう半分答えています。
玉珠は知っています。
姉上は、母君を消しませんでした。
母君は母君だと言いました。
忘れなくてよいと言いました。
曹纂様にいつか話せばよいと言いました。
だから曹肇は、姉上に近づいたのだと思います。
姉上は、曹肇と曹纂様の母上にはなれません。
でも、母上を大事にする人にはなれます。
それは、たぶん曹肇にとって、とても大事なことです。
次回は、母上の文を読むのでしょうか。
読むなら、玉珠も聞いてよいのでしょうか。
姉上は、たぶん駄目と言います。
でも、今回は玉珠も静かにできます。
たぶんできます。
少しならできます。
お菓子の音を立てないようにすれば、大丈夫かもしれません。
でも、お菓子は持ち込まない方がよい気もします。
とても重い文だからです。
小箱は、お菓子の箱ではありませんでした。
けれど、玉珠は覚えました。
世の中には、甘くなくても大事な箱があります。
そして、軽くなくても、開けなければならない箱があります。
姉上は、また困った顔をすると思います。
曹肇も、きっと難しい顔をすると思います。
曹纂様は、たぶん袖をつかんでいると思います。
玉珠は、ちゃんと見ています。
できれば、静かに見ています。
たぶん――




