妻を迎えに
19 妻を迎えに
2020.10.31
この作品はいつも空を見ている②③の
2人が結婚して、子供が中高生になった
頃の番外編です。短編蓮集になってます。
樹
食事を終えても千夏さんがなかなか戻ってこない。出張あがりで疲れていたはずだけれど……。スーツから普段着に着替えると、靴を履く。
「あれ?出かけるの?」
長男が声をかけてくる。
「うん。ちょっとね。」
「買い物かなんか?」
「うん。まぁ……。」
曖昧に笑うと、それ以上は聞いてこなかった。ちょっと妻を迎えに行ってきます。
***
駅前のネットカフェと言っていた。てくてくと夜を歩く。まだ宵の刻。街は活気に満ちている。店の前まで行くと、千夏さんのスマホに電話入れた。
着信音が鳴る。おかしいな。いつもより出るのが遅い。
「はい……」
その声のトーン、一瞬ぽかんとしてその後、つい笑ってしまった。
「なに?なんでそんな笑うわけよ。」
「いや、だって。なんか死神から電話きたみたいに出るんだもの。」
「え?なに?どういうこと?」
「ただいま帰りましたけど、君はどこにいるの?」
「え、どこって……」
「というか、本当はもう夕方に家に帰ったの。君を迎えに来たんだけど。」
「迎えに?」
「春樹が駅前のネットカフェにでもいるんじゃないのって言ってたけど、あたり?下の道路んとこいるけど。」
返事が返ってこない代わりにごそごそとスマホ越しに音が聞こえた。
「あ、ほんとだ。いた。」
僕は顔を上げてネットカフェの二階の窓ガラスを見上げた。そこに見慣れた人の顔がのぞいている。片手で電話持ったまま、軽く手を振った。向こうも振り返してくる。
なんだかこういうの、久しぶり。向こうもそう思ったのかな?お互いに少し笑った。
「家出の続きしようよ。」
そう言ってカフェから出て来た千夏さんの手を引く。
少し歩いて二階にあるこじんまりとしたお店に連れて行った。
「前よりいい店じゃん。」
「せっかくだからね。」
メニューもらって覗いた。
「お腹空いてる?」
「ちょっと。」
お酒を二杯と、彼女の好きなもの少し頼んだ。
料理を前に軽く乾杯して、彼女が食べるのをそっと見つめる。
「食べないの?」
「いや、僕は夕飯はいただきましたから。」
フォークを口に突っ込んだままで固まりました。妻。
それを見て思わずまた吹き出してしまった。
「もう、なんでそんなに笑うわけ。」
「なんでそんなに緊張するのかな。」
「なんでかな?よくわかんないんだけど。多分、時間のせい?」
「時間?」
「だって、ご飯作ってって言われ続けて、というか、途中からあなた言わなくなったけど、気づけばすごい年数が経ってるじゃない。」
「うん。」
「その間に、ものすごいハードルが上がっていっていたというか、もはやそれはハードルではなくて、城壁なんですよ。」
「うん。それで、その城壁を乗り越えて作ってくれたの?」
「うん。」
「ありがとう。嬉しかった。すごい。」
「……」
千夏さんは耳まで赤くしそうな勢いで照れた。照れ隠しにお酒のグラスに口をつけてる。
「変な味だったでしょ?」
「いいや。美味しかったよ。」
今度は微笑みながら、下を向いてしまった。子供みたい。変な夫婦だと思う。奥さんがご主人に料理を作っただけ。普通のことなのに、ね。
「これで許してくれる?」
「何を?」
「あなた出張いく前の日、怒ってたじゃない。暎万にひどいこと言われたって。」
「ん?」
頭の中で思い返す、先週の記憶。
「ああ、忘れてた。」
妻がじっと僕の顔を覗き込んでる。
「ほんと?」
「うん。忘れてた。」
「なんだ。珍しく北極みたいに怒ってたから。」
北極みたいにってどういう意味なんだろう?まぁ、いいけど。
「ま、でも、たまには怒ってみるものだね。」
いいことあったじゃないですか。僕の様子を見て落ち着いて、やっと食欲が湧いたのか、千夏さんが料理を突っついている。
「あ、でも。」
「はい。」
「子供達に説明するようなああいう時に、逃げるのはやめて。」
ギクリとした顔で、またフォークが止まる。
「わざとでしょ?どうせ、暎万が聞いたら激怒するのわかってて、とりあえず僕に任せたんでしょ。」
「ばれてたか。」
「何年一緒にいると思ってるんだよ。任せられるところはどんどん周りの人に任せる要領のいい人だってのはわかってるよ。仕事でも、仕事以外でも。」
「なんだよ〜。忘れてたって言ってたのに、思い出して怒らないでよ。」
「僕が一番利用されている気がする。あなたの周りにいる人たちの中で。」
「いや、そんなことはないよ。」
「お義母さんも、お義父さんも利用されているけれど、最大限に利用されているのは僕だ。」
「いいや、そんなことはない。」
お酒をすすりながら、上目遣いで見てくる。
でも、妻には言いませんが、僕はいつだって世界の中で一番に彼女に利用されるのは自分でありたいと思ってる。僕や家族の前ではめちゃくちゃにわがままな人ですが、この人は元々は人に甘えるのが苦手な人なんです。この人が僕に甘えるってことは、つまりは僕は、この人にとって特別な存在であるという証なので。
「僕がいなくなると、困る?」
「え?何それ、まじ?」
「……」
黙って見つめ合う。こんな言葉くらいでね、簡単には不安にならない。だって、今まで何度となく僕はこの人のわがままを最後には聞いてきたし、僕たちは長い時間を一緒に過ごしてきた。
年月が積み重ねて築く建物のようなものだと思う。結婚というのは。僕たちの周りに壁が築かれていく、ゆっくりと。風や雨をしのぐ建物。その建物はとある日の思いつきで言った一言なんかでは揺るがない。
「まじ」
「いや、嘘だ。絶対、嘘。」
「外に好きな女の人ができたのかもよ。」
「ないないない。」
ため息が出る。不安に思わせないように気を回しすぎたのかなぁ。
「そこまで安心されてもな。結局、損するもんなんだね。安心させすぎるのって。」
「え?」
「この年になってわかったよ。」
僕の顔色を一生懸命読んでる。その横でグラスの酒を流し込む。
「世の中にはね、熟年離婚ってのがあるんだからね。あまり調子に乗ってると、いくら僕でもいなくなりますよ。」
「……」
少ししゅんとした。千夏さん。
彼女のその顔を見つめる。
相手がひどいかひどくないか、傍若無人かどうかとかそういう理由ではないのだと思う、別れる理由というのは。どんなに相手がわがままでもやっぱり結局はその人といたいかどうか。善人だからその人と一緒にいたいわけではないと思うんです。人というのは。
だけど、あなたと一緒にいたいと毎日のように言葉には出さないでしょう?夫婦は。
言わなくてもわかっているというのもあるけど、ただでさえ安心しきっているところに更にダメ押しをすることはないだろうと思う。夫婦にもそれなりの駆け引きがあるものだと、今更ながら気づいたところなんです。
「そういえば、起業の方はどうなってるの?順調?」
「う〜ん。」
可もなく不可もなくそういう顔をした。
「お義父さん、お金出してくれそう?」
「それがさ〜。」
ため息をつきました。
「契約書みたいなの、ぱぱっと用意しちゃうのよ。実の親子なのに、背筋が凍ったわ。」
「へ〜。」
「それで、こうなの。お金を口座に振り込んで、きっかり一年の時点で、少しでも黒字経営なら、合格。それができなければ貸したお金を全額一気に返すか、返さないでもいいから、起業なんて諦めて、英語使って働けるところにでも再就職しろだって。」
「ふうん。」
「でもさ、ちょっとでも黒字って言うんなら、楽勝じゃないって内心思ったわけ。そしたらそれ見すかすみたいにお父さん、千夏、お前、今まで一度も組織を離れたことないだろう?って。個人なんて結局大したことないんだぞ。お前が今まで多少なりとも結果を残せたのは、会社という組織に属していたからだ。頭で考えているのと実際にやるのはぜんぜん違うぞ〜って。」
「うん。」
言ってることはもっともだと思うけど。
「それで、今は何をやってるの?」
「貿易の勉強。本読んだり、セミナー受講申し込んだりしてさ。それと、輸出先をね、色々調べてみようと思って。」
「輸出先?」
「うん。香港。とりあえず。」
そう言って、妻はにっこり笑った。
「香港?」
「結構最近は、日本のものが人気があるって聞くし、あそこはそこそこ裕福なところだからさ。それに、ほら、昔住んでたし。懐かしいっていうか。」
「ああ……」
「会社の名前も決めたんだよ。ストロベリートレーディング。」
「へ?」
ぽかんとした。
「なんか、聞くまでもないけど、苺の輸出をするつもりなの?」
「うん。とりあえずは。それで、ちゃんと儲けられるかわからないから、暫定だけどね。」
「苺を香港のどこに売るの?」
「わたしの頭の中ではね、こう、スーパーとか、デパートとか、大きいところはさ、商社がやるんだと思うのよ。でも、わたしは個人じゃない。だから、お客さんも個人規模がいいのかなって。」
「個人規模?」
「パン屋さん、ケーキ屋さん、レストラン、とかの飲食店?」
「苺だけでそんなに需要があるの?」
「成り立つかわからないのよ。だからそしたら、まだ他に品物を増やすのかなぁ。」
「食品の輸出って物よりいろいろややこしいんじゃないの?物の方がやりやすいんじゃないの?」
「いや、でも、それだと本末転倒だから。」
「本末転倒?」
「わたしの目的はさ、日本の素晴らしい食品を売りたいわけだから。海外に。」
にっと笑う。いい笑顔。
「アニメではなくて、苺になったわけか。」
「アニメは、ほら、わたしでなくても売る人がいるしさ。」
この人の思い切りの良さは尊敬に値する。
「いろいろ調べないといけないね。」
「そうだねぇ。でも、それにはさ、また、ちょぴっとお父さんに手伝ってもらおうかなぁ。」
「え?何させるの?」
この人、ほんと利用できるものならなんでも利用するんだから。
「ほら、香港にもさ、お父さんの会社の営業所があるわけよ。お父さん、アジアではそこそこ偉い人だったし、もう退職したけど、今からでも顔がきくわけ。」
「はぁ。」
「香港調査するときにさ、お父さんも連れてって、それで、営業所の人を紹介してもらっちゃおうかなぁって。ほら、商社の人なら、市場の調査なんてお茶の子さいさいでしょ?」
ニコニコしている。
「すごいちゃっかりしてる……。」
それから、想像する。商社の香港駐在の人。女の人ではないだろう。男、それも、そういうのに付き合ってくれそうな人なんて、ペーペーの若い男だろうなぁ……。
「普通はさ、商社の駐在員なんてむっちゃ忙しいから、無理でしょ。片手間になんてさ。」
「ええ?無理?」
「駐在員じゃなくてさ、現地のスタッフと仲良くなった方がいいんじゃない?それも、女の子。」
「なんで、女の子?」
「ほら、営業事務とかで手伝ってくれる子とかの方が、時間に余裕あるし、日本の商社で働いている子とか日本に興味あって、勉強になるとか思って協力してくれそうじゃない?」
「ええ?でも、他にも香港で通関業務代理でしてくれそうな業者とか探さないといけないし、どこの業者が良さそうとか意見求めて頼りになる?そういう子。」
不満そうな顔で見ている。
「それはそうだけどさぁ……」
「駐在員の男の人は協力してくれないかなぁ?お父さんの影響力ってやっぱ会社の中にいる間だけ?」
「最初に会うのはできても、協力し続けるには本人にもそれなりの見返りがないと。」
「そういうものかなぁ。」
千夏さん自身ともっと関わりたいとでも思わないと無理。また会いたいとかさ、認められたいとかさ。じっと奥さんの顔を見る。
「なに?じろじろ見て。変なの。」
「いや、別に。」
20代くらいのサラリーマンの男にとって、かつてとはいえ自分の会社の中でそこそこ偉い人の娘さん。どちらかといえば憧れの対象。その人が起業するとか言って生き生きとしている姿をしていたら……。
「お代わり頼む?」
「ああ、じゃあ、もう一杯だけ。」
自由のないサラリーマンの自分と比べてなんか素敵だなと思うと思うわけですよ。きっと。それにこの人、年とったけど、綺麗だしさ。若い女の人にはない魅力があるわけです。それに普通はね、バリバリ仕事する才色兼備の人なんてなかなか出会わないしさ。
嫌だなぁ。なんか。すごい嫌だ。
「何にするの?またジンにするの?」
「いや。今度はウォッカがいいかなぁ。」
二人でメニューをのぞいた。
同じ会社だったら、千夏さんがどんな様子でいるのかすぐに見えたけど、別の会社なっちゃうとさっぱりわからない。僕の知らないところで若い男に甘えてたりしたらやだなぁ。
知らず知らずのうちにため息が出てしまった。
目ざとい彼女が僕を見る。
「どうしたの?急に元気がなくなったような……」
「いや、なんでもありません。」
こんなくだらない話、絶対聞かせない。
「やっぱりまだ怒ってるとか?」
「いや、そういうことではありません。」
妻は妻でまた別の心配があるみたいだけど。ええっと、熟年離婚?しばらく思わせておこうじゃないですか。この人にもお灸が必要だし。
「嘘。樹くん、だって怒ると急に話し方丁寧になるもん。」
ちょっと泣きそうになってるではないですか。可愛いな。思わず笑ってしまった。彼女の髪を撫でる。彼女が微笑んだ。
「いや、ほんと。君には冷たくできないな。」
今日は何分もったんだ?いや、何秒?冷たくしようと思ってもすぐに甘やかしてしまう。




