勝負からおりる
この作品はゆきの中のあかり①②③の番外編です。
高遠玲子
世の中には様々な戦い方がある。
戦わずにして逃げるというのも一つの戦法で、わたしは逃げました。夫とあらゆる男から。
人を愛することも人から愛されることも放棄したつもりはありません。なぜならわたしは娘を愛しているし、娘もわたしを愛しています。
この愛があれば、他には何も要らない。
男には絶対に心を傾けないと自分で固く決めてました。父は氷のように冷たくよそよそしい人だった。それでも母はそんな父を愛していて、いつも傷ついていた。これでもかというくらい。
わたしはこうはならないと決めていた。
父が見つけてきた人と言われるとおり結婚した。
父と同じ人種。いわば、敵。
わたしは最初夫をそうみなしてた。
その認識が改められたのは、有希を授かって、もう抱かせないと言った後です。
主人の態度は全く変わらなかった。
ただ、わたしに触れなくなっただけ。
わたしは主人は父のように氷のように冷たくなって、外に女の人を作って、家を持って、子供を持つと思ってました。そして、用事がある時以外は、帰って来なくなると覚悟してた。
だけど、主人はそれでも帰ってきた。
時々は外で遊んで外泊しましたが、翌日には帰ってきた。そういうことが繰り返された。
主人の父親は、結婚してから一緒に仕事するようになりましたが、わたしの父とはまたタイプが違う。だけれどしてることは同じ。外に家庭のある人でした。
しかも、これは結婚してから知りましたが、義父は本妻の亡くなった後の家に妾腹の子を入れたそうです。それに耐えられなかった主人は学生の頃から家を出て暮らしてたのだと知った。
悪人ではないのだけれど、俗っぽい人で、義父は。商売の仕方にもそれが現れる。そんな義父の側にいるのが耐えられなかったからでしょうか?
主人は会社に居付かなかった。そして、ある時、旅行に行きたいという。
「非常識なお願いだってことはわかってるんだけど。」
許してもらえるとは思ってなかったのかもしれません。だめもとで言ってみたのかも。
「最後にちゃんと帰って来るのならいいですよ。」
自分で言い出したくせに夫は驚きました。
「無理してる?」
「いいえ。」
「……」
「そのかわり、ちゃんと帰って来てください。」
主人が日本に居付かなくなると、友人知人親戚などからいろいろなことを言われました。離縁するようすすめる人もいましたが、驚いたのは意外と主人を擁護する人が多かったことです。
「本当に可哀想な子なんだよ。」
親戚のおじさんは見限らないで欲しいとわたしに頭を下げに来ました。しばらく経つとわかった。義父の行いには皆内心呆れていて、主人に同情的な人が多く、子供がいるというのに道楽息子のようなことをしていても、ある一定の人望を、主人は親戚や知人から得ていました。
そのうち、義父の持病が悪化して会社を続けるのが難しくなってきたのを機に、主人は戻って来ました。義父は、自分や自分の愛人や子供達が切り捨てられることに怯えていました。
主人は直接やりとりすることを嫌がって、わたしに任せましたが、義父から根こそぎ取り上げるようなことはしなかった。ある程度の生活ができるくらいは保証していました。
最初は怯えていた義父も、こちらに取り上げる意図がないとわかると、すぐに図々しくなりました。煩わしい金の無心をするようになった。
わたしが適当にあしらいました。時にはこたえ、大抵を突っぱねるようにして。
わたしたちにはある一定の協力関係がありました。
わたしの夫婦でありながら床を共にしない要求を受け入れた代わりに、わたしは主人が義父から逃げ回るのを許した。夫の敵が弱ると、わたしたちは自分達の思うとおりに会社を動かしました。主人とビジネスで関わるのは楽しかった。
そんな頃、主人に特別な人ができました。
自分の趣味でやってたお店を与えて、まるで籠に入れた小鳥を飼うように、主人は女の人を飼い始めた。
ああ、とうとうこれで、この人はわたしと有希を残して出ていくだろうと思った。いつかこういう日が来るだろうと覚悟はできていた。
でも、主人はやっぱり、帰って来るんです。
今までと変わらない。ときどき外泊する以外は、きちんとうちに帰って来るんです。
どうしてこの人はわたしのところへ帰ってくるのか?それは、きっとビジネスのためなんだと結論づけた。主人は恋や愛の相手としては他の女を選んだのだけれど、仕事の相手としてはわたしを選んだのだと思います。
だから、わたしのところへ帰ってくるのだと思う。
不思議と心が落ち着いた。穏やかな海の上に小舟を浮かべて、その上に寝そべって空を見ているような気持ちになりました。空はきれいだった。
それなのに、そんな凪の日は続かない。主人に飼われているはずの小鳥は、籠の中に飽きたのか、自分もビジネスをしたいと言い始めた。
わたしは生まれて初めて、父以外の人間を恨みました。
それは、やっと見つけたわたしの場所を奪おうとする人だったからです。
主人の横は、わたしのものです。
仕事をする上での主人の横は。
どうして女というのは時にひどく貪欲なのでしょうか?
彼女は既に主人のほとんどを手にしているというのに、どうして残り僅かなものまで手に入れようとするのでしょうか?
どうして全てを得ようとするのか?理解できない。
そんな折、わたしは仕事で失敗をしました。
普段から女を下に見ていて、顔を見合わせるたびにわたしに嫌味をいう年上の男がいました。地元の一応名士とされていましたが、わたしに言わせると代々金持ちの家に生まれただけの品性も下品なぼんくらでした。
自称投資家の彼とは、主人もこみで資産家同士顔見知りの関係。
とある案件でバッティングして、主人だったら揉め事を避けるために譲っただろうと思いますが、わたしは油断させておいて目の前からかっさらった。
彼はそこそこの損失を出しました。
そして、かんかんに怒らせてしまった。
噂でその様子を聞いていたわたしは、彼と顔を合わせそうな集まりには顔を出さないようにしていました。でもある日、ついうっかり会ってしまった。立食形式のパーティーで、わたしの後をつけまわし、ねちねちと苦情を言われました。
その様子は尋常ではなかった。
「旦那に相手にされないからって、腹いせにこんなことしやがって。」
ひどい侮辱の言葉を受けたとき、ばしゃりと彼に頭から水をかぶせた人がいた。
一瞬何が起こったのかわからない。似合いもしない高いスーツから、薄くなり始めた頭髪までびしょびしょになりました。ぽかんと間抜け面した後に顔を真っ赤にして怒鳴りながら彼が後ろを向くと、
「飲みすぎですよ。田所さん。」
いつの間に来たのか主人が立っていました。顔は笑っていたけれど、主人は静かに怒っていました。田所さんとわたしの様子を近くで見ていた知り合いの人が、心配して呼び出してくれたのでした。田所さんは相手が主人だとわかると、めちゃくちゃに興奮して、食って掛かりましたが、主人は相手にせずに適当にあしらうとわたしの手首をつかまえて、
「帰ろう。」
会場を出ても、タクシーを捕まえるために歩きながら、主人は何も言わず、ただわたしの手首を引っ張りました。
「怒ってるの?」
「怒ってるよ。」
「わたしに?」
主人はそこでふいにぱっと手を離して立ち止まり、振り返りました。
「最近の君は、どうかしてる。冷静さが足りない。あんなつまらないやつにひっかかって、あんなひどいこと言われるなんて。」
「わたしが何を言われたって、あなたには関係ないじゃありませんか。」
「関係あるよ。」
「……」
「君は有希の母親だ。大切な娘の。家族を侮辱するやつは許さない。」
何も……、言えませんでした。
「でも、その前に、普段の君ならあんなつまらないやつと揉め事なんて起こさないのに。」
それからその後、帰りのタクシーで主人は一言も話さなかった。
わたしは彼に出会って初めて、謝らなければならない気がしていた。でも、謝ることができなかった。魚の骨がのどにささってしまって、ちくちく痛むみたいに、しばらく謝ることのできないのどが痛みました。
数日後、わたしはいつぞやのおじさんに呼び出された。主人が海外をふらふらとしている時期に、わたしに見限らないでくれと頼んだおじさんです。
「玲子ちゃん」
「はい」
彼は主人のこともわたしのことも自分の子供のように思ってて、2人をちゃん付けで呼びました。
「この前、秀ちゃんが田所のやつに人前で水かけたって聞いたんだけどね。」
「はい。」
人の噂というのは怖いものです。すぐに伝わってしまう。
「そのせいで、今、あいつは秀ちゃんのこと、なんかぶつぶつ怒ってるらしい。」
「……」
「普段は、そんなことしないのにね。あの子はさ……」
おじさんは、葉巻に火をつけました。とてもいい香りのする葉巻でした。
「お気楽な性格だから、みんなの人気者で可愛がられてるように見えるだろ?だけど、それだけじゃない。あの子はさ、自分は今までさんざん嫌な目にあってきてるけどね、人を嫌な目には合わせないんだ。たとえ、相手がつまらない嫌なやつでもね。」
「はい。」
それは知っている。義父のときがそうだった。
「だから、田所がどんなにくだらないやつでもさ、普段の秀ちゃんなら水をかけたりしないんだよ。それなのに、あんなことしたの、どうしてかわかる?」
「……」
「玲子ちゃんのためだよね。これ以上田所の怒りが玲子ちゃんに向かないように、わざとひどいことしたんだよね。」
「……」
おじさんはしばらくじっとわたしの顔を見ていました。
「お金のやりとりをしているとさ、人が変わっちゃうんだよ。みんな。つまらないことで恨みを買っても損だってことはわかってるよね。」
「はい。」
「今、玲子ちゃんが転んだら、転ぶのは一人じゃない。秀ちゃんだって転ぶし、有希ちゃんだって危ない目に合わせるんだ。気をつけなさい。」
「……」
言ってることは簡単なことでしたが、わざわざ呼び出されたことに意味がありました。それだけ、その頃の自分は危うかったのだと思います。
帰り道、音楽を聞きながら遠回りしました。
主人が言った言葉を思い出してました。
家族を侮辱するやつは許さない。
誰もいない車中で、涙を流しました。
生まれてから今まで、わたしには家族なんていないと思ってた。
だって、母とわたし、2人で家族というのはちょっと違うと思うんです。
自分が結婚して、三人になったけど、これを家族と呼ぶことは避けていた。
いつか、主人が、出て行くと思ってたから、その時に壊れるものを家族と呼ぶことが怖かった。ずっと名前をつけないで、家族とは認識しないで生きてきた。
でも、あの人はあんなにあっさりと簡単に、家族と言った。家族と呼びました。
嬉しかったんです。たったそれだけのことが。
父がもしあの場にいたらどうだったでしょうか?わたしを侮辱する人を見て、怒ってくれたでしょうか?わたしには父がわたしのために怒ったり、笑ったりした記憶がないんです。守られたという感覚がない。
わたしは生まれてから、男の人に守られているという感覚を持ったことがなかった。
この前初めて守られていると感じました。
たった一回でも、わたしには貴重な一回でした。
そして、いつしか自分は、有希には、娘には、わたしとは違う道を歩ませたいと思うようになった。わたしみたいに勝負をおりるなんて人生を歩んでほしくなくなったのです。知り合いにあたって、これはと思う男性を探して、有希にお見合いさせた。
娘は幸せになったと思ってた。わたしの肩の荷はおりました。
それなのに、ある日、娘は主人の女の人の所へ押しかけていって、一緒に働くことになったというのです。彼女は娘のために主人と別れたのだという。
驚きました。有希は一体何をしてるのでしょうか。
そしてふと思った。もしかしたら有希は、わたしのためにそんなばかなことをしたのではないかと。
愚かな子です。
有希はわたしとは違う。有希は幸せな子です。今、1人の男の人を完全に手に入れている。普通の女の人です。わたしとは違う。
わたしは1人の男の人の全部を手にしたいなんてこと、一度も思ったことないのに。
わたしは今のままでも十分だったのに。
「離婚しましょうか?」
気づけばそう口にしていました。主人は一瞬驚いて、その後すぐにきっぱりと言いました。
「そのつもりはない。俺に君と別れるつもりはない。今も、これからも。」
「どうして?」
本当に驚きました。言い出しさえすれば、応じるだろうと思っていた。この人は優しいけれど、でも、優しいだけにわたしが何か言えば、すぐに応じるだろうと。
「別に別れても、ビジネスはパートナーとしてやってけば問題はないでしょう?」
「君に、こんなに何度も世話になっていて、それを全然返してないのに。解消するつもりはない。」
「藤田さんを愛しているのに?」
「君と別れて塔子の所へ行っても、彼女は俺を受け入れない。それに、そういうことをする自分を、結局は自分で許せない。」
一体、夫のこういう感情は何と呼ぶべきなのでしょう?これは愛情?それとも……。
そう、これは友情、なのかもしれません。
そして、友情というものも結局は大きな意味では愛情の一種なのではないでしょうか?
一瞬、一瞬だけ、ふと夫に尋ねてみたいと思いました。
あなた、わたしと別れるつもりがないというけれど、じゃあ、彼女とわたし、どちらか1人を選んで、もう一人には一生会えないと言ったら、どうする?
あなたはどっちを選ぶ?
もちろん、口には出しませんでした。
わたしは勝負からおりた女です。こんなわたしには友情で十分です。愛情を戦って奪い取るようなそんな強さは、持ち合わせてませんから。
有希、ありがとう。
有希がいたから、お母さん。お父さんがお母さんと離婚するつもりはないなんて言葉、お父さんの口から聞くことができたわ。
あなたには理解できないかもしれないけどね。
お母さんにはね、これだけでも十分なの。
もう、十分幸せなのよ。




