杞憂
この作品は、
彼女は牡丹 君は椿①②③の番外編で、
最後のシーンは③の場面と一部重なっています。
とある女
わたしには姉がいました。
大人になる前に死んでしまった。
普通の死に方ではなかったんです。
自殺でした。
そのことがわたしや家族の人生を大きく狂わしてしまった。
そして、月日が過ぎてわたしは姉の年齢をこして、大人になり結婚しました。娘が生まれて、2人目は息子だった。息子が何歳くらいの頃からでしょうか。なんとなく感じていた。息子は、死んだ姉に性質が似ている。
息子は、息子には、言葉でいちいち説明しなくてもわたしの本当の気持ちが見えてしまうのです。まるで頭の中を覗いているみたいに。
「どうしてお母さんはあの人のことを嫌いなのに、いつもニコニコするの?」
小学校低学年の頃ぐらいまでは、こんなどきりとするようなことをよく言われた。子供というものは本来鋭いものだと思う。言っていいことと悪いことの区別もついていないし。
ただ、息子の、蒼生の鋭さは、その域を超えてました。実際経験した人しかわからないと思うのですが、その人のことを嫌いだという事は誰にも言ったことはなかった。自分自身だけの秘密で周りに気づかれないように注意していた。でも、蒼生には分かってしまう。そういう、本当に誰にも教えてないことを暴かれることが一度や二度ではなかった。
姉に似ていました。本当によく似てた。そういうところが。
姉は高校生になったばかりの頃、学校帰りにそのままいなくなった。家から車で1時間ほど離れたところにある海岸で、靴が見つかった。靴の下に封書が置いてあって、それは簡単な遺書でした。
「もう生きていくのが嫌になりました」
姉の字でした。でも、名前すら書かれてなかった。
海に落ちた遺体はすぐには見つからず、父母は万が一の可能性にかけてました。生きている可能性に。
でも、潮の流れが幸いにとでもいうのか、或いはなにか不思議な力でも働いたのでしょうか、数日後に姉の体は浜辺に打ち上げられた。
悪夢はそれで終わりませんでした。
警察はその死んだ状況をすぐに自殺とは認めませんでした。遺書は短かった。署名もなかった。
誰かが筆跡を真似て書いたか、或いは脅して書かせたか。また、姉が周囲から見て死ぬほどに悩んでたなんてまるで見えなかったことも禍いしました。
警察は誰かを探した。誰かを探して何度もうちへ来ては、姉の部屋をひっくり返していきました。
あろうことかその誰かにはうちの両親も入っていたのです。
最終的に姉の死は自殺で片づけられました。
静かな日々は戻ってきた。
でもわたしたちは元には戻れませんでした。
父も母もわたしも、それぞれが傷ついてしまった。
深く傷ついてしまっていました。
いつか蒼生も姉と同じ事をするかもしれない。わたしはその考えに取り憑かれました。
幼い頃はまるで人の心が見えてるかのような発言をしていた蒼生も大きくなると、一切そういったことを言わなくなった。そうなると、息子は大人しくて本の好きな普通の少年に見えました。
でも、時折蒼生はじっとわたしを見ることがあって、そういう時はどきりとしました。わたしは知っていました。言わなくなっただけで、息子は変わってません。息子には見えてます。見透かされている。
まるで超能力でも持ってるみたいに心が見える、うちの子には。
自分の産んだ子なのに、この子のことがわたしはさっぱりわからない。それどころかどこか怖いのです。
この子が死んでしまったらどうしようと心配して怖いのなら、それは母親としての自然な感情で、わたしは息子を愛してるのでしょう。
でも、本当にそうなんでしょうか?
わたしが恐れているのは、息子の死?それとも、死によって我が身にふりかかる禍い?
わたしは一体、息子を愛してるのでしょうか?
わたしにはいつも息子に対する後ろめたさがあったように思えます。
息子は姉の年齢をこして、大人になった。
そして、東京の大学へ進学して離れた。
少しだけ楽になりました。
だけど、大学を卒業する頃になると、息子は不意にきちんと就職をせずにアルバイトしながら生活すると言い出して、親を驚かせました。理由を聞くと、小説家になりたいのだという。
「小説は書いてもいいけど、きちんと就職して働きながら書けばいいじゃないか」
夫がもっともなことを言うと、息子は珍しく口ごたえをした。
「お父さん、僕のような人間には、正社員になって働くなんてこと、無理です」
夫はとてもショックを受けました。
20 年強、大切に育ててきた我が子が自ら自分を欠陥品のように言ったからだったのだと思います。
そのことは即ち、わたしたちもまた親として欠陥品だということになるのです。
夫は珍しく声を荒げ、息子は淡々とそれを聞いていましたが、
「今までありがとう。ごめんなさい」
突然そういうと、頭を下げてそれから立ち上がり家を出て行った。
息子は帰って来なくなりました。
そして、2人の子供のうちの1人を失ってしまって、わたしたち夫婦はしょんぼりと日々を過ごし、夫の定年に合わせてわたしが子供時代を過ごした伊豆へと戻ってきました。
海が見える高台に家を持った。
わたしはそこから毎日海を眺めます。
姉をのみこんで吐き出した海を。
そのまま、どこか寂しい悲しいままで、主人と2人慰め合いながら静かに暮らしていくのかと思ってました。
あの子が出て行ってからどのくらい経った頃でしょうか、家に小さな小包が届いて、送り主が日野蒼生、息子でした。あけると本が出てきた。
なんであの子急に本なんかと思って眺めて気がついた。作者の名前。
火野蒼生
これはあの子が書いた本でした。
中に手紙が入っていた。
随分時間がかかりましたが、やっと形になりました。
宛名も自分の名前も書かずにそれだけ
姉の遺書を思い出した。それを見て。
本当は何を言いたいんでしょうか?
この子は。
そして、姉は。
どうして何も言ってくれないの?
言ってくれなかったの?
わたしはそんなに頼りないですか?
どうして実の息子とこんなにも心が離れてしまったんでしょう?
わたしはどうしてこんなにダメな人間なのでしょうか。
息子の本を読みました。なんだか綺麗な話なのだけれど、よくわからなかった。あの子が本当に書いたのかとちょっと信じられなくもあった。
主人もわたしも、反対していた後ろめたさもあって、素直におめでとうと言えないところもありました。
信じられないことはまだ続いて、テレビを見ていたら、蒼生、あの子の名前が出た。
あの子の書いた本が、映画になりました。
テレビに出た名前が、本名とほとんど同じだったのもあってぽつりぽつりと親戚や知り合いから確認の電話が入る。確かに本人だと言うと、お祭りみたいに騒いで、すごいね、おめでとうと言われました。
立派な息子を持って鼻が高いだろうと。
何度かそういう電話を受けた後に主人がぽつりと言いました。
「郵便なんかで届けずに、持ってくるべきだろうに。育ててやった恩をなんだと思ってるんだ」
でもその口調は決して怒ってはいなかった。
口に出さなくてもわかる。夫婦ですから。
わたしたちは悔やんでいました。
あの日、あの子が小説家になりたい、会社で勤めることなんてできないと言ったときに、どうしてもう少しちゃんと話を聞いてあげなかったのか。
どうして会社で働けないと言った息子を欠陥品だなんて思ったのか。
どうして一番の味方でなければいけない親が、自分の息子を立派な息子だと信じてあげられなかったのか。
あの日に一生懸命頑張りなさいと2人で背中を押してあげられなかったのか。
息子はそれでも1人で成し遂げた。
1人で成し遂げたことに親からの祝福はもはやいらないのです。
それから更に数年経って、家の電話が鳴って出ると蒼生でした。
「どうしたの?急に」
そんなつまらないことしか言えませんでした。
「急にごめんなさい。東京から出てきたんだ。会わせたい人がいて」
夫と2人で蒼生の指定した喫茶店へ行くと、息子が女の人と2人でいました。夫と2人でぽかんとした。
とても綺麗な人だったので。
「結婚するとかそういう話?」
主人が聞くと息子がばつの悪そうな顔をした。すると、横にいた華やかな人がちらりと蒼生の顔を見た後に口を開きました。
「初めまして。旧姓月島あかりと申します。今は日野あかりです」
そう言ってあかりさんは笑いました。
その時、世界の色調が変わった。
一段明るくなりました。
そして、その笑顔を見た時に、わたしと主人は救われた。いくつもの後悔や寂しさをあかりさんの笑顔は全部掬い取っていってくれたんです。
「挨拶が遅れまして本当に申し訳ありません。ほら、蒼生もちゃんと謝って」
「やめろよ」
あかりさんが蒼生の頭を押さえて下げようとして、息子が嫌がりました。
「ちゃんと謝るって約束したでしょ?」
「自分でやるからやめろ」
その後、息子はわたしたちに頭を下げました。
「長い間、連絡も取らず、勝手に結婚してすみませんでした」
頭を下げる息子をあかりさんは嬉しそうに見ていました。
こんな日が来るなんて……。
もう和解することなど叶わないかと思っていました。
でも、蒼生はわたしたちを許してくれました。
わたしは主人の横で少し涙ぐんでしまった。
主人はなぜかちょっと慌ててしまって、
「それにしてもあれだな。小説家ってのはいいな。こんな美人と結婚できんだから」
「やだ。お義父さんたら」
主人が柄にもなく軽口をたたき、蒼生は呆れて、あかりさんが笑った。彼女が笑ったことでわたしたちを取り巻く空気がまたひとつ軽くなりました。
もうこの子のことを心配しなくてもいいのかもしれない。わたしは起きもしないことを一生懸命心配していただけだったんだ。
わたしの人生の中で、姉を失って以来こんなに清々しかったことなどあったでしょうか?本当に生まれ変わった気になりました。
それなのに
それなのに人生とはうまくいかないものです。息子のもとへ来てくれたあの美しくて明るい人。名前そのもののようなあかりさん。
交通事故に遭ってしまって、植物状態になってしまった。
息子が心配で時折会いに行きました。
蒼生はいつも眠ったままで起きないあかりさんのそばに佇んでいました。時が経つにつれて、蒼生は影が薄くなっていくように思えた。
わたしの中の心配がもう一度、鎌首をもたげた。
5年ほど経った頃に連絡が入って、あかりさんが息を引き取ったと。お葬式に行って、蒼生の顔を見た。
「蒼生」
とても静かな目をしていました。
深い湖の底にでもいるような。
「来てくれたの?」
「あなた、大丈夫?ひどい顔してるわよ」
この時ほど息子を遠く感じたことはありません。ああ、この子はきっとあかりさんを追って行ってしまう。
姉の時も、息子の時も、わたしは何もできない。
沈鬱な日々が戻ってきました。
わたしは身を縮こめて怯えながら日を過ごした。
だけど、人生とは本当に不思議なものです。明るく見えて次の瞬間に真っ暗なところへ落ちたかと思うと、不意にまたキラキラと輝き出す。
「初めまして」
いつぞやのあかりさんとまだ若かった蒼生を思い出さずにはいられませんでした。主人もわたしも。
あの時はあかりさんの美しさに驚いた。
今回は……。
「野中このはと申します」
「今回はまだ日野ではないんだね」
「あなた」
くだらない事をいう主人を嗜めました。
「失礼ですけど、おいくつですか?」
「27歳です」
主人と顔を合わせました。
「一回り以上も離れてるじゃない」
「うん」
息子に言うとそれしか言いませんでした。ため息が出た。このはさんに向かって言いました。
「ご両親はなんておっしゃってるんですか?」
このはさんは蒼生の横で硬く小さくなってました。恐る恐ると口を開いて、
「父は応援してくれてます。兄も」
「お母様は?」
「……」
もう一度、主人と顔を見合わせました。
「でも……」
このはさんが顔を真っ赤にしながら、わたしたちに話しかけました。
「わたしは先生と結婚させていただきたいんです」
主人とわたしは一瞬ぽかんとして、そして横で様子を見ていた蒼生が優しい顔で笑いました。
この子はいつの間にこんな顔で笑うように、笑えるようになったのでしょうか。
「もちろんわたしたちに反対する気持ちなんてありませんよ。あなたたちがそれで本当にいいのなら」
ねぇ、あなたと言うと主人も頷いた。
このはさんはそれを聞いてほっとしたようでした。
しばらくしてこのはさんと庭から海を眺めながら少し話しました。
「本当に眺めのいい所ですね」
「海の見えるところに住みたいと言ったことをあの人がずっと覚えていて」
「素敵なご主人ですね」
そう言ってこのはさんは笑いました。
可愛らしい人でした。あかりさんがきれいなら、このはさんは可愛らしい。
「あの子は、蒼生は…、難しい子で、ずっと心配してたんです。でも、わたしじゃ、あの子を理解できなくて」
「はい」
「わたしの亡くなった姉に似ているんです。性質が」
「そうなんですか」
「今日は顔見たら、元気みたい。安心しました。あの子のことよろしくお願いします」
そう言ってお互いに狭い庭先でお辞儀をし合った。
その後、このはさんはガラス戸からそっと中を覗きました。中では蒼生と主人が話すともなしに2人でお茶を飲んでます。こちらを見てはいませんでした。
「わたしがこんなことお義母さんに言ったのがわかったら、後で先生に怒られるんですけど……」
そう言ってこのはさんは話し出しました。
「お義母さんってどんな人ですかって聞いたことがあるんです」
「え?」
一気に緊張しました。でも、このはさんはそんなわたしの様子に気づかず続けます。
「母は自分では気付いていないだろうけど、僕と性質が似ている。僕ほどじゃないけど結構繊細で、それで、誠実であろうとする人でね。それはそれは自分に厳しいんだ。そこまで自分を責めなくてもいいのに、見ていて心配なんだって」
そう言って、晴れた空とキラキラ光る海を背景にこのはさんはにこにこと笑いました。
「本当に蒼生がそんなことを?」
「ええ」
驚きました。本当に。
「そんなに温かな想いがあるなら、先生、伝えないとダメですよって言ったんですけど、うまく伝えられる気がしないって言って……」
「……」
わたしは息子の何を見てたのでしょうか。心を覗かれるのを恐れて、あの子はただ、わたしをどこかで軽蔑してるんだって思い込んでました。
「このはさん、わたし、恥ずかしながら、小説ってあまり分からなくて。あの子の書く小説はどうですか?」
そう聞くと、彼女は顔いっぱいの笑顔になりました。
「素晴らしいです。とても温かくて」
「温かいですか?」
「はい」
「このはさんは蒼生の本を何冊くらい読んだんですか?」
「全部読みました」
「え?全部?」
わたしが驚くと、このはさんは少し恥ずかしそうにしました。
「本人に会う前から、ファンだったんです」
「あら」
その後、2人でしばらく声を揃えて笑いました。
思えばこの時やっとわたしは蒼生は小説家なのだと実感できた気がします。
「なに話してんの?」
蒼生が引き戸を開けて顔を覗かせました。
「たいしたことではありません」
このはさんはそう言って、少しいたずらっぽい顔でわたしに笑いかけました。
2人が帰った後に、主人がぽつりと漏らしました。夕食前に冷蔵庫からビール出して、1人で枝豆つまみに飲みながら。
「小説家はいいなあ」
「なんですか?藪から棒に」
「顔は俺とたいして変わらないのに、すごい美人連れてきたと思ったら今度はあんな若い子……」
「もう」
主人は笑いながらわたしを見ました。
「蒼生の前でそういう下世話なこと言わないでくださいよ。あの子、そういう俗っぽい考え、嫌がるんだから」
「ああ、そうだな。芸術家様だからな」
言葉自体は皮肉めいてましたけど、主人の顔は嬉しそうでした。
「どうして俺たちみたいな普通の親からあんな子が生まれてきたんだろうなぁ」
「ほんとですね」
しばらく2人で黙って夕方の海を眺めました。
こんなに幸せな気持ちになったのは久しぶりでした。
「わたし、蒼生の本を全部買って、読みます」
「ん?」
「せっかく息子が小説家になったのだもの。わたしも小説家の母というのを楽しまないと」
主人はそれを聞いて笑いました。
もう、息子がわからないと言って悩んだり恐れたりするのはやめようと思います。
また、ビールを飲み始めた主人をほっといて、わたしは夕食の準備を再開しました。




