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兄の頼み

 面会為の部屋はエレナの居室が有る棟の東側。アレスの執務室の有る棟の比較的近くに有る。乳母とその直属の侍女。それからフィーアを引き連れてエレナは急ぎメンデルの下に向かった。


「お待たせいたしました」


 部屋の中央に置かれた長椅子に腰掛けていたメンデルはエレナが部屋に入ると俯いていた顔を上げた。その顔色は酷く悪く、エレナは驚きのあまり思わず足を止めた。


「どうした?」


 メンデルが怪訝な顔をする。


「いえ……何でもありません」


(お兄様、昨夜と比べるとまるで別人のようだわ)


 たった一晩の間に何が有ったのだろうか。気になるけれど直接的に聞く事は憚られた。エレナの内心の動揺に気付いてないのか、気にしていないのか、メンデルはろくな挨拶も無く用件を切り出して来た。


「お前を訪ねたのは頼みがあるからだ」

「お兄様が私に? どの様な事でしょうか?」


 ますます不審感が募って来る。エレナは王太子妃と言っても政治的な権力は無いに等しい。


 カーナ家時期当主の兄がそれを知らないとは思えない。それでもエレナにする頼みごととは一体何なのだろうかと身構えてしまう。


「王太子妃の位を降り神殿に入って欲しい」


 身構えていたはずなのに衝撃は大きかった。咄嗟に言葉が出て来ないエレナに変わり、フィーアが言った。


「それは王太子殿下と離縁しカーナ家へ戻れとおっしゃっているのでしょうか?」


 メンデルが苛立たしげにフィーアを睨んだ。その怒りを察した乳母がフィーアを嗜める。


「あなたは控えていなさい!」


 けれどフィーアが怯む事は無かった。


「主の意を伝えるのも女官の役目です」


 メンデルの目付きが更に険悪になる。動揺から抜け切れないままエレナは口を開いた。


「お兄様、どう言う事なのですか? フィーアが言った通り私にアレス様と離縁しろとおっしゃっているのですか?」


 メンデルは不快さを消す事は無いままエレナに視線を戻して頷いた。


「そうだ。国王には父上から話をしているからお前は何も気にせずに王宮を出る事が出来る」


 まるでそれが当然の事である様にメンデルは言う。エレナの気持ちなど微塵も考えていない態度だ。


「お兄様……そのお話を受ける事は出来ません。私はアレス様と離縁する気は有りませんから」


 メンデルは瞬きもせずにエレナをじっと見つめて来たが、しばらくするとまた感情の篭らない声を出した。


「言い方を違ったようだ。これは頼んでるのではなく命令だ。神官長からの命令だから逆らう事は許されない」


 冷酷さを感じる言葉には妹への情など少しも感じられない。エレナは酷く悲しい気持ちになり言った。


「その命令には従えません」

「なぜだ」

「私がアレス様の側に居たいと思っているからです。いくらお父様とお兄様に言われてもこれだけは譲れません」


 メンデルから視線を逸らさずに告げる。目の前から大きな溜息が聞こえて来た。


「アレス王太子を愛しているのか?」


 メンデルはエレナをじっと見つめながら言う。

その青白い顔からは感情は読み取れない。命令に従わない事でもっと怒りを顕にすると思っていたエレナは少し戸惑いながらも頷いた。


「はい」

「カーナ家に、父に逆らってもその意思を貫くのか? それで身を滅ぼす事になってもか?」


 メンデルの言葉はとても恐ろしく、エレナだけでなくその場に居た乳母たちをも震え上がらせた。しかもその言葉はただの脅しではない。古くから王家を操っていたカーナ神官長ならば容易く実行する事だろう。


 それでも、覚悟を決めて宣言する。


「私からアレス様の下を離れる事は有りません。たとえ誰に逆らうことになっても。お兄様、私は簡単な気持ちで言ってる訳では有りません」



 きっとメンデルはエレナを罵倒するだろう。または怒りこの部屋を出て行くか。けれどメンデルはそのどちらでも無く、深く息を吐き目を瞑った。


(お兄様?)


 メンデルの反応は先ほどから予想外で、エレナは更に戸惑いを大きくした。頼りのフィーアも困惑の表情だ。乳母と女官はこの緊張した空気が耐えられないのかすっかり顔色を失くして立ち尽くしている。


 しばらくするとメンデルはゆっくり目を開いた。


(なにか変わった?)


 先ほどまでメンデルを覆っていた暗く疲れきった気配が消えている気がした。こんな短時間で人が変わる訳はないのにそんな風に錯覚してしまう何かが有る。


 黙ったままでいるエレナの前でメンデルはゆっくりと足を組む。そんな砕けた態度の兄を見るのは初めだった。部屋に困惑が広がる中、メンデルが口を開いた。


「お前の決意は分かった。好きにするといい」

「……え?」


 突然の離縁話には徹底反発の姿勢だったけれど、あっさりと「好きにしろ」と言われるとそれはそれで不安になる。


 何か企みが有るのだろうか。疑いの目をするエレナにメンデルが言った。


「警戒しているようだな」

「……はい。お兄様の考えが分かりませんから。安心は出来ません」

「相変わらず呆れる程正直な物言いだな」


 メンデルは昔を思い出しているのだろうか。遠い目をして呟く。


「お兄様?」


 その呼びかけでメンデルの意識はエレナに戻る。それから直ぐに彼は控えていた乳母達に告げた


「この後は我らカーナ兄妹だけの会話とする。お前達は許可をするまで下がっていろ」

「かしこまりました」


 乳母と女官はすぐさま礼をして部屋を出て行く。ただフィーアだけはメンデルに睨まれてもその場を動こうとしなかった。エレナの希望も有り、メンデルは渋々といった様子でフィーアの同席を許した。口を挟まないと条件をつけはしたけれど。



「私の主張が一貫していない事で混乱しているようだな」

「はい」

「無理もないな。お前にも分かる様に説明すると王太子との離縁を望んでいるのは父で私の意志ではない。私はお前の好きにすれば良いと考えている」


 まさかという想いでエレナはメンデルを見つめた。


「それはお父様とお兄様の考えは違うという事ですか?」


 父と兄の意志が違うなんて考えた事もなかった。現神官長と次代神官長。向かう方向は同じだと誰もが認識しているはずだ。それなのにメンデルは涼しい顔で言う。


「おかしな話では無いだろう。私と父は別の人間だ、全て同じ考えなど有りえない」

「そうかもしれませんけど……では違う意志だと言うならなぜお兄様は私に離縁の話を伝えに来たのですか?」


 エレナが問いかけるとメンデルの顔に自嘲する様な笑いが浮かんだ。


「たとえ考えが違っていても父に逆らうおろかな真似を私は選ばなかっただけだ。今までもそうだった、カーナ家の意志、父の意志に従順に従って私は生きて来た。そこに自分の意志など関係無かった」

「そんな! どうしてですか? それではお兄様は辛いばかりではないですか」


 そんな生き方はエレナからすれば信じられない。その考え方に反発せずにはいられない。でも続いたメンデルの言葉でエレナは何も言えなくなった。


「誰もがお前の様に心のまま生きていける訳ではない。私は心のまま生きるより今手にしている全てのものを守りたいと思ったのだ」


 それは逆に考えれば心のままに生きれば、大切なものを失うと言う事だと気付いたから。いつも無表情で父の隣に立ち冷たい空気を纏っている。何を考えているのか分からない。それが兄メンデルの印象だったけれど今になって急激に崩れていく。


 妹への情など無い人だと思っていた。拒絶されていると感じていた。でも違っていたとしたら?


「お兄様。どうして私にお気持ちを話してくれたのですか? お父様からの命令を受けているのに好きにしろと言ってくれたのはどうしてですか?」

「……」

「突然離縁の話になったのはどうしてですか? 昨夜の夜会ではそんな気配は有りませんでした。それなのに今日になってこんな話……お兄様が一晩で憔悴してしまった事と何か関係が有るのではないですか?」


 エレナの追及にメンデルが頷く。既に自分のすべき事を決めていたのか悩む躊躇う様子はなかった。



「簡単な話ではないから長くなる。だが先にお前に問おう。お前はなぜ自身がアレス王太子の妃に選ばれたと思っている?」

「政略の為に国王陛下とお父様が決めたのだと聞いています」


 アレスもそう言っていたから間違いないはずだ。メンデルが知らないはずはないのになぜ改まって問うて来るのだろう。首を傾げるエレナをメンデルは憐れむ様に見る。


「政略だとしてなぜお前が選ばれる? カーナ家の姫はお前一人じゃない、セーラがいる。共に直系の姫、年も同じ。それなのになぜお前が選ばれた?」

「そ、それは……」


 答えられなかった。


 メンデルの言う通りセーラ姫もエレナと同じくカーナ本家直系の姫。考えてみればどちらが王太子妃になっても良かったはずなのだ。


 嫌な予感がする。メンデルの言葉の後、フィーアが息を飲む気配を感じた。きっとエレナと同じ気持ちなのだろう。


「客観的に見てアレス王太子に相応しいのはどちらだ? どちらが王太子妃としての素養がある?」


 背中に嫌な汗が流れる。もう答えは分かっていた。


 王太子妃に求められる能力。広い知識、政治力、厳しさ。どれもエレナには無いものばかりなのだ。



“感情が顔に出やすくて王太子妃失格だ”アレスにいつかそう言われた。


“政治向けの性格と思えません”フィーアにもそんな事を言われたなと思い出す。



「もう気付いているだろうが、お前はろくに王妃教育を受けないまま王太子妃になった。なぜならお前は本来王太子妃候補では無かったからだ……王太子妃にはセーラが立つ予定だった」

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