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来訪

 遠くで声が聞こえる。


「エレナ様……エレナ様!」


 良く聞きなれた声は段々と大きくなって行く。


「エレナ様起きてください、朝ですよ!」


 一際大きな声が耳に届き、一気に意識が覚醒した。ぱちりと目を開け、キョロキョロと目で辺りを窺う。


「ああ、やっと目を開けてくださいましたね」

「……おはよう」


 エレナを覗き込んでいるのは女官の衣装をキチンと着込んだフィーアだった。朝だと言うのに少し不機嫌そうな表情をしている。


「どうしたの?」


 直ぐに起き上がる気になれなくて、横になったままフィーアを見上げて言う。幼い頃からずっと側にいるフィーアにはだらしない所を何度も見られているから気が緩んでしまっている。フィーアはそんなエレナに非難を込めた視線を送りながら言う。


「エレナ様を起こすのに多大な時間と労力を使った為疲れているんです」

「……それはちょっと大げさじゃない?」

「大げさでは有りません。今、何時だとお思いですか? もうお昼なんですよ!」

「え……」


 ぐっすりと眠った感覚は有るけれど、まさかそこまで寝過ごしているとは思わなかった。


「エレナ様がここまで寝過ごすなんて珍しいです。昨夜の王太子殿下とのお話がかなり長引いたんですか?」


 フィーアの言葉で夜の出来事が蘇る。


 アレスの低くて甘い囁き声。抱き締められた時の力強い腕の感覚。それから触れ合った唇の熱さ。頬が熱くなるのを感じてフィーアから目を逸らした。その様子にフィーアが呆れの篭った溜息を吐き言った。


「エレナ様。あからさま過ぎます」



 すっかり寝坊してしまったけれど気を取り直して朝食件昼食を摂る為、寝室から居間へ移る。


 テーブルの上には、温かな湯気の立ったスープと濃厚なバターの香りのパン。それから鮮やかな黄色の卵料理に葉野菜の盛り合わせ。しっとりとした食感ながら味付けはあっさりとして食べやすいハムはエレナの好物だ。それに加え色とりどりの果物が綺麗に置いて有った。


 起きたばかりだけれど沢山寝たせいで体調は良く、お腹も空いている。


「良いにおい」


 思わずつぶやくとフィーアがせっかちに言う。


「本日は朝食と昼食が一緒になったのでいつもより多めに準備いたしました。お召し上がり下さい」

「ええ」


 フィーアの引いてくれた椅子に座り、食事を始める。一口二口食べて見かけ通りの美味しさに満足していると、ふと部屋の様子がいつもと違う事に気が付いた。エレナの居間に居るのは給仕をしてくれているフィーア一人だけで、女官も侍女も姿が見えない。


 エレナつきの女官と侍女は王太子妃としては少ない方だ。カーナ家から付き従って来た乳母とその部下の女官が一人。後はフィーアと王宮に入った時に付けられた女官が一人いて、その指示を受けて動く侍女が5人程。けれど、いくら少数と言っても人払いをした訳でも無いのに居間にフィーア一人だけという状況はかなり珍しかった。


「今日はみんな忙しそうね。何か有ったの?」


 お気に入りのハムをフォークで取り寄せながら言う。


「母は自分の部下を連れて慌てた様子でどこかへ行きました。用が済めば戻ると思います」


 乳母が忙しないのは常だった。乳母はせっかちなところが有って大した用でなくても、たばたとする事が多い人だ。だからフィーアが言う通り直ぐに戻るんだろうと思った。



 エレナが大して気にしていない事を分かっているのか、フィーアは詳しい事は告げずに報告を続ける。


「衣装係りの侍女はいつも通り衣装室で仕事をしています。残りの侍女には王宮へ行って貰っています」


 この場合の残った侍女は、婚礼の儀の後にアレスがエレナ付きにと指名した女性で、カーナ家の侍女に比べれば短い付き合いだけれど、フィーアは彼女達を信頼をしてかなり重要な仕事を任せているようだった。今日は王宮への連絡役を勤めているようだ。


「王宮で何か有るの?」


 何の気なしに聞くと、フィーアは少し難しい顔をした。


「分かりません。ただ王宮の方が朝からやけに騒がしい気がしたのでそれを調査しに行って貰ってるのです」


「騒がしい? 何か有ったのかしら」


 アレスは何も言ってなかった思うけれど。


「まあ、戻って来たら分かるものね」

「相変わらず楽観的ですね。それがエレナ様の長所でも有るんですけどね」


 話ながらも着々と食事を進め、テーブルの上は大分寂しくなって来た。お腹も膨れて来て、少し苦しい。食後のお茶を飲みながらゆっくりと寛いでいると、席を外していたフィーアが戻って来た。


「エレナ様、大変です!」

「どうしたの?」


 早歩きをして来たのか息苦しそうなフィーアの様子に驚き、口に運ぼうとしていたお茶のカップをソーサーに戻す。いつも冷静なフィーアの余裕の無い態度は何か大きな問題が有ったとしか思えなかった。


「王太子殿下と神官長様の間で口論が起きたそうです!」

「えっ ……何が有ったの?」

「詳しい事は分かりませんが神官長様が王太子殿下に面会を申し出たそうです。そう時間を置かずに口論に発展したそうで、神官長様は酷くお怒りになり王太子殿下の執務室を退室したそうです」

「そんな……信じられない」


 アレスと父の関係は冷え切っていたけれど、二人共表立って争う事は避けていた。状況証拠からカーナ家の仕業と思われる湖での襲撃も決定的な証拠は残さない様に徹底されていたし、昨夜の夜会でも、何かが起きそうな気配は無かった。それがなぜ急に王宮の公的な場所で口論になどなるのだろう。


「詳細を調させてはいますが、執務室内での会話迄は分かりません、王太子殿下に直接伺えたらいいのですが」


 フィーアもただ事では無いと考えているのだろう。眉間にシワを寄せ何か考えこんでいる。


「でも直ぐにアレス様に会うのは無理よ」


 アレスの執務室が有る棟へはしばらく近付かない様に言われているから自分から尋ねる事は難しい。かと言って使いの者を出して会いたいと頼んでも忙しいアレスの時間が直ぐに空くとは思えない。


 もし空いたとしても父とのトラブルの後にエレナの部屋を訪れるなんて人目を引く事をアレスはしないだろう。結局直ぐに状況を知る手段は無く不安だけが膨らんでいく。


「アレス様大丈夫かしら」

「王太子殿下でしたら大抵の問題は卒なく処理しそうですけど、今回は神官長様が相手ですからね、エレナ様が心配になる気持ち、良く分かります」


 フィーアが深刻そうに言うと部屋がシンと静まり返える。それから間を置かずに、先ほどのフィーアより更に慌てた様子で乳母が部屋に駆け込んで来た。



「姫様!」

「母上、落ち着いて下さい」


 駆け寄る乳母を、フィーアが嗜める。乳母はフィーアに煩わしそうな目を向け早口で言った。


「あなたは黙ってなさい。今はそれどころじゃないのですから」


 フィーアが苛立った様に目を細めたのを見たエレナが二人を仲介するべく割り根だ。


「何が有ったの?」


 乳母はその言葉で本来の用件を思い出したのか、その場からエレナに一歩近付いてから口を開いた。


「メンデル様が面会を希望しておられます」

「え、お兄様が?」


 妹に全く感心が無く、王太子妃になってから個人的に会いに来た事など無い兄が、このタイミングで面会を申し入れて来るなんて不自然だ。


(お兄様はお父様の命令で来たのかもしれない)


 理由までは考え付かないけれど、良くない予感がする。


「姫様どうなさったのですか? 早くお支度ください」


 動こうとしないエレナを乳母が急かす。

長年カーナ家に仕えて来た乳母としては、次期当主のメンデルを待たせる事に強い抵抗があるようだ。


「メンデル様はご多忙の様で出来るだけ早く会いたいとおっしゃってました。時間がありません」


 乳母は痺れを切らしたのか控えていた侍女にそう命令し、勝手に面会の準備を始めた。


「エレナ様、どうするつもりですか?」


 フィーアが乳母に聞こえない様に耳打ちして来た。

数秒悩んでからエレナも小声で答えた。


「あの様子じゃ会わないなんて言ったら大騒ぎになりそうだわ。お兄様の用が何かは予想もつかないけどとにかく会ってくるわ。フィーアも付いて来てね」

「勿論です。では私はエレナ様が支度をされている間に王太子殿下へこの事を知らせる手配をします。もしメンデル様との面会に問題が有れば王太子殿下がなんらかの手段で止めるでしょうから」


 エレナはフィーアに頷くと、支度を整える為に衣装部屋へ向かった。

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