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湖での出来事

「何者だ」


 緊迫する空気の中、アレスが声を発した。

 けれど武装した謎の兵士達は無言のままだった。


 エレナの視界はアレスの背中で遮られているから状況が分からないけれど、身を乗り出して様子を窺おうとは思えなかった。


 恐怖で足がすくんでいるのも有ったけれど、アレスはエレナの姿を隠そうとしているんだと感じたから。


 今から何が起こるか分からないけれど、まだ動かない方がいい。息苦しい緊張感でいっぱいになっていると、空気が変わったのを肌で感じた。


 その直後金属同士がぶつかる耳触りな音が当たりに響く。悲鳴を上げそうになるのをなんとか堪えて周囲を見回すと、アレスの側近と黒いマントの兵士達が剣を交えているところだった。アレスはエレナの側から動かなかったけれど、いつの間にか鞘から抜いた剣を右の手に持っていた。


 遠乗りに付き従って来たアレスの側近は4人。アレスを入れても5人。正確に数えた訳ではないけれど印象として敵の数の方が多い気がした。


 エレナは帯剣していないし、そもそも剣技を学んだ事も無い。武器を使う実戦を見るのも初めてで、その迫力にさっきから震えが止まらない。どう考えてもエレナの存在は足手まといだ。


(どうしよう!)


 呆然と立ち尽くしてないで、早くこの場から走って逃げて馬に乗り王宮へ助けを呼びに戻るべきか。または邪魔にならない様に適当な木陰に身を隠すべきか。それとも余計な事はしないで大人しくこの場に留まるべきか。


(分からない)


 おろおろとしていると、エレナとは対照的に冷静な落ち着き払ったアレスの声が耳に届いた。


「エレナ。その場から動くな」

「え……」

「恐かったら目を瞑っていろ。直ぐに終らす」


 アレスはそう言いながら、それまで下げていた剣を持った右手を上げて身構えた。直後、一際大きな金属音が響き、それは断続的に続いて行く。


「ア、アレス様!」


 ついに敵がアレスにも襲い掛かって来た事を知り、エレナは悲鳴を上げた。


(どうしよう……このままじゃアレス様が)


 アレスは真正面から敵の剣を受け、その場から動かない。背後にエレナが居るから思う様に動けないのだろうと気付いた時、血の気が下がった。


(私のせいで!)


 こんな時何の役にも立てず、それどころか自分のせいでアレスを危険にさらしてしまっているなんて。何とかアレスの助けになりたいと考えを巡らしたけれど、エレナに出来そうな事は何も無い。


 苦しさでいっぱいになりがなら、アレスの命令通り、目を瞑った。決して動かないと決意をして。




 どれくらいの時間が経ったのだろう。気が付けば甲高い暴力音は消えていた。代わりに苦しそうなうめき声が聞こえて来て、エレナは恐る恐る目を開いた。


 目の前には変わらずアレスの広い背中が有った。


 アレスは剣を腰の鞘に戻すと、エレナを振り返り様子を窺う様な視線を向けて来た。


「大丈夫か?」

「は、はい……アレス様は? お怪我はしていませんか?」

「俺の事は心配しなくていい」


 アレスは表情を曇らせそう言うと、エレナに腕を伸ばしその身体を横抱きにした。


「アレス様?」


 抱きかかえられ腕の中に収まりエレナは焦りながらアレスを見上げた。アレスは心配そうな目でエレナを見つめている。


「顔色が悪い。もう大丈夫だから楽にして目を瞑っていろ」

「でも……」


 少し離れた所にはエレナ達を襲った黒いマントの兵士達が、地面に膝を着き苦しそうな顔で呻いている。今の戦いでどこかを負傷したのだろう。彼らはアレスの側近達の手により拘束されている。


 アレスは立ち止まる事無く、エレナを抱いたまま止めて有った馬へ真っ直ぐ向かって行く。

 その途中、敵に最も近付いた時、それまで膝を着いていた敵の兵士が勢いよく立ち上がり、怒号を上げて襲いかかって来ようとした。


 直ぐにアレスの側近に取り押さえられたけれど、その憎悪に満ちた目はエレナの心に恐怖の記憶として焼き付けられた。





 アレスはぐったりと力が抜けたエレナを馬に乗せると、その身体を支える様に自らも馬に跨った。いつの間にか後に付いて来ていたライにひそめた声で何か一言告げると、勢いよく馬を走らせた。



 景色が流れ、湖がどんどんと遠ざかって行く。鮮やかな空の青は来た時と同じなのに、気持ちは全く違っていた。


「アレス様……あの人達……誰なのでしょうか」


 男の視線はアレスに真っ直ぐ向けられていた。抑えきれない憎悪を宿した目。


 アレスがこんなにも誰かに憎まれていると言う事実は、エレナに強い恐怖を与えた。いつかアレスが消えてしまうかもしれない。そんな不安でいっぱいになる。誰がアレスを恨んでいるのか知らないけれど、早く犯人が捕まって欲しい。


「分からない」


 アレスはそう言うと不安に怯えるエレナを安心させる様に支える腕に力を込めた。



 王宮にはあっと言う間に帰り着いた。


 途中また謎の兵士達に襲われたらと恐怖を感じもしたけれど、アレスの馬はエレナを乗せていても風の様に早く駆けた。

 アレスは馬を降りると自らエレナを支え、エレナの私室へと送ろうとした。


「アレス様大丈夫なのですか? 誰かに見られたら」


 朝早いとは言え、王宮が無人の訳はない。完全に人目を避ける事なんて不可能だ。


(皆の前ではアレス様と仲良くなった事を知られてはいけないのに)


 アレスは人目を避ける気はない様に、ひたすら真っ直ぐエレナの私室への最短距離の道を行く。足早に王宮の広い廊下を進み、エレナの私室に着くと、驚く女官に扉を空けさせ自分も部屋の中に入った。



「エレナ様!」


 慌しく戻ったエレナ達に気付いたフィーアが小走りに近付いて来る。慌てている様子だったけれど、アレスがフィーアに人払いの合図を送ると、直ぐに侍女達に指示を出した。



 誰かに聞かれる心配が無くなると、フィーアがエレナに心配そうな目を向けながら言った。


「エレナ様、顔色がとても悪いです……何が有ったのですか?」


 普段なら強く追及して来るフィーアだけれど、今はアレスが居るからさすがに遠慮が有る様だ。エレナが事情を説明しようと口を開きかけたとき、アレスが言った。


「フィーア、まずはエレナに温かい飲み物を用意してくれ。血の気が引いたせいか身体が冷たくなっている」


「血の気が? は、はい。直ぐに用意致します!」


 フィーアは驚きながらもテキパキとお茶の準備にとりかかる。


 その間、アレスはエレナを柔らかな長椅子に座らせ、自らもその隣に座りエレナの顔を覗きこんだ。


「気分は?」

「だ、大丈夫です」


 大丈夫なんかじゃなかったけれど、無理をして笑顔を作る。


 本当は今でも足が震えている。恐くて怖くて仕方無い。


 けれどいつまでも震えてなんていられない。


 襲われた張本人のアレスの方が不安で仕方無いはずなんだから。


(私がしっかりしてアレス様を助けなくちゃ)



 そう決意しているとフィーアが湯気の立った良い香りのお茶をエレナとアレスの前に置いてくれた。


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