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夜の中庭

「ア、アレス様……」


 エレナの声など聞こえない様に、アレスは中庭にエレナを連れていく。夜会の途中に中庭に出るのは初めてだった。


 日は落ちているけれど、天上の月明かりと、ところどころに置いてある蜀台の灯のおかげで辺りの様子は良く分る。色鮮やかな花々は闇に紛れてしまっているけど暗闇の中に浮かぶオレンジの灯りはまた違った美しさが有った。


「アレス様、どこへ行くのですか?」


 アレスはエレナの腕を掴んだまま、どんどん奥へ進んで行く。


 やがて小さな円形の東屋が見えて来た。

 アレスは迷う事無く東屋に入ると円に合わせて設えられた椅子にエレナを座らせ、自分はその前に立った。


「アレス様……」


 エレナが座りアレスが立っていることから、その身長差は常、以上だった。更に見下ろされている体勢のせいでアレスに責められている様な気になってしまう。


 アレスは細めた目でエレナを見下ろし口を開いた。


「この一月、お前と会わないで気がついた」


「え?……」


 デイルの話かと思っていたのにアレスの口から出たのは、全く違う話だった。どうしてかと戸惑うエレナに、アレスは続けて言った。


「お前が近付いて来なければ、俺達は口を利く機会すら無いのだな」


 アレスはなぜこんな事を言うのだろう。なぜエレナをここまで連れ出したのだろう。


 疑問に思いながら、アレスに答える。


「私がアレス様に会えるのは、本当なら公式の夜会の時くらいですから」


 アレスは一年で離縁するエレナに王太子妃としての仕事を与えなかった。他国の王族や高位の貴族を迎える夜会には出る様に命じられているけれど、その機会はとても少ない。


 エレナがアレスに会う努力をしなければ、夫婦とは思えない程関わりの無い二人だった。その様にアレスが仕向けた。


「そうだな」


 エレナの言葉をアレスは否定する事なく頷く。


 広間ではアレスの機嫌は悪いのかと思っていたけれど、こうして二人で居る今、アレスは穏やかに見える。


(さっき怒っている様に見えたのは私の気のせいだったの?)


 そう言えば夜会が始まったばかりの時のアレスは、エレナに対しても今までに無く優しく、機嫌が良さそうに見えた。その様子を見て、エレナから解放され、マリカ姫との関係が上手くいっている為だろうと思ったんだった。


アレスの顔を見ると、声を聞くとやっぱりまだ胸が痛い。美しいマリカ姫の姿が思い浮かんで、まだ悲しみがこみ上げる。


 諦めると決心したけれど、心が受け入れられるのはきっとまだ先の事なのだろう。それでもアレスの前では泣いたりしたくない。そんな事をしても迷惑になるだけなのだから。


「アレス様。申し訳ありませんでした。ずっと付きまとったりして……迷惑でしたよね?」


 鋭いアレスに、沈んだ気持ちを悟られない為に努めて明るく言った。


「確かに初めは迷惑としか思えなかったが……今はもうそう感じていない」


「……え?」


 予想外の返事に驚きアレスの方を向く。


 隣に座った為、先ほどまでより二人の間の距離は近くなり、直ぐ近くにアレスの青みがかった瞳が見えた。


「アレス様……」


 こんな風に優しい瞳で見つめられた事は今までにない。


「遠乗りに出ても湖に行ってないそうだな。俺と会わない様に気をつかっているのだろう?」


「あ……」


 なぜアレスがその事を知っているのかは分らないけれど、事実だった。日中の湖でアレスに会って以来、あえて近寄らない様にしていたのだから。


「誤魔化さなくていいし、俺に気を遣う必要はない。あの湖はお前が気に入っていた場所だろう? 好きに行くといい」


「でも……」


「湖だけでなく他の事でも、これからは俺に気を遣って生活するな。さっきも言ったがお前が近付いても迷惑だとは思わない」


穏やかで優しい声音のアレスの言葉。


『迷惑だとは思わない』


 きっとアレスはどこかからこの一月のエレナの暮らしぶりを知りそう言ってくれているのだろう。



 美しく輝く鏡の湖に行きたかった。時々は朝の清涼な空気の中で馬を駆りたいと思っていた。



 アレスの優しさはとても嬉しかった。

 けれど言い様の無い寂しさと悲しさも同時に感じた。


 アレスに優しくして欲しいとあれ程願っていたのに、今、アレスの気遣いが胸に痛い。


(アレス様が優しいのは私が諦めたから)


 強引に付きまとう事をやめ、離縁を受け入れたからこその優しさなのだ。心のまま行動したら、アレスはまたエレナと距離を置き冷たい目をするのだろう。


「……お気遣いありがとうございます……でも、私は今のままで大丈夫です。この暮らしは何時までも続かないのですから」


 優しいアレスの側に居るのは、湖に行けない事よりもっと辛い。気遣って貰えば貰う程アレスへの気持ちをは募り、想いを断ち切れなくなってしまいそうだった。


 この穏やかで優しい空気の中に居ると、気持ちがぶれてまたアレスに縋ってしまいそうだった。


「エレナ……」


 アレスは納得していない様な表情で、何かを言おうと口を開きかけた。それより早く、この空気を変えたくて、エレナは広間で感じた気がかりを口にした。



「アレス様、新しい側近のデイルの事ですけれど」


 言葉を遮られた事でアレスは眉をひそめたけれど、エレナの問いを無視する事は無かった。


「デイルがどうかしたのか?」


「彼はカーナ家の関係者なのに、なぜ側近にされたのですか?」


 アレスはカーナ家を嫌っていた。武術大会で優勝したからと言って側近にするものなのだろうか。


「デイルの実家はカーナ家と縁続きだが、本人は神官長との関係は無く影響を受けていない。問題ないと判断した。勘違いしている様だが俺はカーナ家に関わる全てを憎んでいる訳じゃない。代々の神官長のやり方とそれに追従する人間が気に入らないだけだ」


「そうですか……でも、デイルは本当に問題無いのでしょうか? アレス様の近くに置いて大丈夫なんですか?」


 不安を訴えるエレナに、アレスの表情は段々険しいものになっていく。


「広間でもデイルに強い関心を持っていたな。なぜだ?」


「あの、関心とかじゃなくて……」


「無駄な隠し立てをするな。前にも言ったがお前は考えが顔に出やすい。デイルの事を意識しているのがありありと分る」


 アレスはそう言いながらその腕を伸ばし、エレナの細い左腕を強い力で掴んだ。


 まるでエレナを逃がさないとでも言う様に。


「ア、アレス様!」


 驚き慌て声を上げるエレナにアレスは迫る。


「言え、俺に隠し事はするな」


 至近距離で見つめられ、こんな緊迫した場面なのに鼓動が速くなる。息苦しさすら感じながらエレナは必死に声を出した。


「い、言います! ちゃんと話します! だからアレス様……」


「何だ?」


「あの……腕を放してください」


 月明かりの下、アレスの瞳が僅かに揺れる。エレナを見つめるその瞳は今までとどこか違っている様に感じる。


(アレス様? やっぱり前と何かが違う……) 


 その正体が分らないまま息苦しい時が過ぎて行く。

アレスが腕を放した時、安堵とそれから喪失感が込み上げた。




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