諦めるとき
「王太子殿下を追わないんですか?」
アレスの後ろ姿を見送るエレナに、フィーアが耳打ちして来る。
「……追わない」
短く答えるとエレナは正面に視線を戻した。アレスはきっとマリカ姫を追って行ったのだろう。どこか人目のつかないところを探して二人きりになるのかもしれない。それは当然で自然な事なのだろう。
(二人は恋人同士なのだから……)
「中庭にはマリカ姫もいらっしゃるはずですよ」
フィーアもマリカ姫の動きに注意をしていた様だった。
「分かってる。でも……もういいの」
二人の事は貴族の女性の噂になっていたし、興味本位で気にしている人達が多いだろう。
アレスがそれを知らないはずはない。それでも周りの目を恐れる事無く、マリカ姫を追って行ったのだ。
「フィーア……アレス様はね、マリカ姫と一緒に居たいのよ」
それが分かってしまったから、エレナに二人の邪魔をする事など出来なかった。
アレスが戻って来たのは、夜会も終わりに近付いた頃だった。胸が強く痛んで苦しかったけれど、王太子妃としての努めは果たせたと思う。
元の席に座ったアレスと目が合った時も、泣きそうになるのを堪える事が出来た。
「では、私はこれで失礼致します」
作法通りの挨拶をアレスにすると、エレナは王宮の広い廊下をゆっくりと歩き、自分の部屋へ戻った。
自分の部屋に戻り侍女達に着替えを手伝って貰い落ち着くと、張り詰めていた気持ちが緩んだのか、じわりと涙が湧いて来た。
エレナの様子を察したフィーアが素早く侍女達を下がらせてくれたから、泣き顔はフィーア以外には見せずにすんだ。
一人寝には広い寝台に膝を抱えて座り、泣いているとフィーアが珍しく優しい声をかけて来た。
「そんなに泣くくらいなら王太子殿下を追えば良かったんですよ」
「そんな事……出来なかった」
「どうしてですか? エレナ様は王太子妃なのですよ?」
「でもアレス様が好きなのは私じゃないわ。アレス様はマリカ姫が好きだって分かってしまったから……」
「そうだとしても遠慮する事ないじゃないですか? サリアでは側室は認められていません。王太子殿下の気持ちがどうで有れエレナ様以外の妃を娶る事は出来ないのですから」
フィーアの言う通り、アレスの妻はエレナしかいない。アレスの隣に居る権利が有るのはエレナだけだ。
「それでも私はアレス様の幸せを壊したくない。本当はアレス様の隣に居たいけど……」
アレスの気持ちに気付いてしまった今状況は変わってしまった。
疎まれていても、冷たくされていても、めげずに歩み寄ればいつかは奇跡が起きてアレスの心を変える事が出来るかもしれないと期待して、行動していた。ただ好きな気持ちだけで動いていた。
でもそれは何も知らなかったから出来た事だ。アレスに想う人が居ると知った今、自分の行動全てが無神経で一方的なものに感じてしまう。強引に気持ちを押し付けてもアレスを不幸にするだけだ。
「フィーア……私、アレス様の事を諦める」
「……本当にいいのですか?」
フィーアの頷きながら、自分自身に言い聞かせる様に言った。
「私はもうアレス様の事は追わない」
その日は朝まで眠れなかった。決心しても心は痛い。悲しみが襲って来て涙が止まらない。結局一睡も出来ないまま朝を迎えた。
「おはようございます、エレナ様」
「おはよう」
酷く浮腫んだエレナの顔を見てフィーアは一瞬顔をしかめた。けれどその事に触れる事はなく、いつも通りの口調で言った。
「今朝は遠乗りはどうするのですか?」
「……行かない」
「本当に良いのですか?」
「いいの。大丈夫」
「そうですか。では庭を散歩でもしますか? 朝の庭園はとても綺麗ですよ」
「そうするわ」
着替えをするとフィーアと一緒に庭に降りた。室内庭園とは違い、外に面している庭はエレナ専用の庭だから、嫌な噂を聞く心配もない。朝露に濡れる花を眺めながら澄んだ朝の空気を感じると、沈んでいた気分もいくらか和らいで来る様だった。
「ねえ、フィーア」
「はい」
「王太子妃になってもう三月が過ぎたわ」
「そうですね」
「あっと言う間だったけど、離縁の日までは後九月も有るわ。これまでの倍以上も有る」
「そうですよね」
「残りの九月は長そう……私、何をして過ごせばいいのかな?」
今まではアレスの事ばかりを考え行動していたのだから、目的を失った今、途方にくれてしまう。
「絵を描くのははどうですか? 勉強も良いかもしれないですね」
「ええ? どちらもあまり興味が無いのだけど」
「だからこそですよ。カーナ家のお屋敷に戻った後、またどこかに嫁ぐ事になるでしょうし、知識を身に付け成長するのは良い事です」
「そうね……考えてみる」
何時までも泣いて過ごす訳にはいかない。
諦めると決めたのだから、失ったものを嘆いてばかりはいられない。
それでも自分がアレス以外の男性と結婚するのは想像が出来なかったけれど。
朝の遠乗りを止めたからアレスと会う機会は激減した。あの夜会以来もう七日も会っていない。
エレナが突然遠乗りを止めた事について、アレスが何か言って来る事は無かった。
寂しい気持ちになったけれど、これがアレスと自分の距離なのだと納得出来た。とは言ってもむなしい気持ちを訴えたくなりフィーアにはつい愚痴を言ってしまう。
「アレス様は私が居なくなってせいせいしてるわ。それか居ない事にも気付いていないかも」
「いじけて自虐的な事ばかり言うのは止めて下さい。周りの空気が暗くなります」
フィーアは同情してくれる事はなく、淡々とした口調で答える。
「分かってるけど」
「それより今日は何をされますか?」
フィーアに聞かれ、エレナは少し考え込んだ。なんとなく絵や勉強の気分ではなかった。もやもやした気持ちを振り払う為にも外に出たい。馬で駆けたい。
「遠乗りに行くわ」
「えっ?!」
「いいでしょ? 最近馬に乗って無いし」
「……では護衛を付けてくださいね」
「分かったわ」
これからはアレスは一緒ではないから、気は進まないけれど護衛は必要だろう。
無茶をして問題を起こす訳にはいかない。離縁する事が決まっている王太子妃に仕事などないし、居なくなって困る存在ではないけれど、それでも王宮に居る内は迷惑はかけたくない。
厩舎に向かうと護衛の兵士がエレナを待っていた。その中にエレナの知らない顔が有った。
黒髪黒い瞳のサリア人そのものといった風貌の男性。年はエレナより少し上に見える。
(この人がお父様の言っていた新しい護衛?)
夜会の時の事を思い出しながらも特に言葉をかける事はなく、エレナは馬を走らせた。
広がる草原、青い空。
速度を上げて馬を駆ると自然と一体となる様な気がする。嫌な事は体から抜けて言って消えていく。それ程の爽快感。
夢中になって進み、気が付けば鏡の湖にたどり着いていた。
白銀の湖で馬を休ませる。アレスと何度も来た場所だけれど、早朝と日中では周囲の印象は違っている。
キョロキョロと辺りを見回しながらいつもの場所へ行き、腰を下ろした。ぼんやりと湖を眺めていると、蓋をしていた感情が蘇りそうで慌てて目を反らす。
その時、遠くから複数の馬の足音が聞こえて来た。
それはエレナと護衛隊の馬よりもずっと早い速度で近付いて来る。
用心した護衛兵がエレナの周りに集まるのと同時に、見事な栗毛の馬が視界に飛び込んで来た。
流れる様な動作で馬から下りた男性を見て、エレナは高い声を上げた。
「アレス様?!」
続く様にアレスの側近達が現れる。
アレスは側近を従えエレナの目の前迄来ると、周囲の護衛兵達に命じた。
「下がっていろ」
王太子の命令に護衛兵が下がって行く。ただし黒髪の護衛兵だけはエレナの下を離れない。アレスが険しい目をしてもう一度告げると、黒髪の護衛兵はようやくその場から立去った。




