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恋人の存在

 翌朝早朝に目を覚ましたエレナは、窓の外に目を向けると、がっかりと項垂れた。


 空には灰色の雲が広がり、そこから大粒の雨が地上に降り注いでいた。地面には大きな水溜りが幾つも出来ていて、どう考えても馬で駆けるには相応しくない朝だった。


「今日はアレス様と会えないのね」


 空いた時間をもてあましているところに、フィーアと乳母がやって来た。


「エレナ様。本日の夜会の衣装を選びませんと」


「そうね、今日は何の夜会だった?」


「エザリアからフリード伯爵がいらっしゃっているそうで、歓迎の夜会だそうです」


「エザリアから?」


 エザリアはサリアの南方に位置する大国で、この世界で最高の国力と広大な国土を持っている。


 アレスの話しではあまり良い関係とは言えない様だったけれど、エザリア貴族を招いたと言う事は両国の関係は段々と良くなって来ているのだろうか。


「姫様、神官長様もいらっしゃるそうです」


「お父様が……」


「はい。久しぶりの再会、楽しみですね」


 父はエレナがカーナ家に戻った事を、既に知っているのだろうか。その事でアレスに不審感を持ったとしたら……考えると憂鬱な気持ちになる。


 衣装選びは乳母とフィーアに任せ気分転換をしようと、エレナは部屋を出て王宮の廊下を東へ進んだ。


 エレナの居室の有る棟の東には天井迄ガラス張りの室内庭園が有り、出入りが許された一部の高身分の貴族の女性達の憩いの場になっていた。


 今まであまり近寄らなかったけれど、今日は外に出る代わりに立ち寄ってみた。その時、よく通る女性の話声が聞こえて来た。


「今宵の宴には、ニルソン家のマリカ姫がいらっしゃるそうですよ」


「え? マリカ姫が?」


 聞きなれない名前に反応してエレナは立ち止まった。優美な線を描いた支柱が死角になっているため、皆エレナに気付かずに話を続ける。


「ニルソン家が公の場に出て来るのは三月ぶりですね」


「いえ、もっとですわ。王太子殿下の婚儀の儀以前から姿を見かけませんから」


「ニルソン家としては王家に対して怒り心頭ですものね。王太子妃になるのはマリカ姫のはずだったのに、突然出て来たカーナ家の姫に取って変わられて」


 自分の名前が出て来た事に戸惑いながらも、話の内容が衝撃的で出て行く事が出来ない。


「国王陛下とカーナ神官長とで決めた結婚ですもの。個人的な感情で断る事なんて出来ませんから仕方有りません。でも王太子殿下とマリカ姫にとっては悲劇でしたね。二人は幼い頃から親しくしていた相思相愛の仲だそうですから」


(……え? 相思……相愛?)


 名前も知らない貴族の女性の言葉が、鋭く胸に突き刺さった。気が付けば身を翻し、来たばかりの道を駆けていた。


『二人は幼い頃から親しくしていた相思相愛の仲』


 貴族の女性が発した言葉が、何度も頭の中で蘇る。ひたすら自分の部屋を目指して走るエレナにすれ違う人々の視線が集う。けれどそんな事を気にしている余裕は全く無かった。


(アレス様に恋人が居たなんて!)


 自室の両開きの扉を自ら開く。無作法な程大きな音を立てた為、部屋の中で衣装選びをしていた乳母とフィーアが驚いた目をしてエレナを見た。


「エレナ様?」


「姫様! 何事ですか、はしたない」


 二人の咎める様な視線を感じながら、エレナは奥まった寝室に向かいそのまま閉じこもった。今はとにかく一人になりたい。


 広々して清潔な寝台に突っ伏しても動悸は収まらなくて頭はクラクラしたままだ。


(私、これからどうすればいいの?)


 カーナ家の娘だから、アレスに疎まれているのだと思っていた。歩み寄って、もっと近付く事が出来ればいつかアレスが振り向いてくれるかもしれないと夢見ていた。


 けれど、アレスがエレナを受け入れない一番の理由は既に愛する人が居るからだったら、もう希望など持つことは出来ない。アレスにとってエレナは最愛の人との幸せを引き裂いた憎い相手なのだから。


(でも私、そんな事知らなかった)


 アレスだって本当の事を言わなかった。だから諦める事が出来ずに嫌がるアレスに付き纏ってしまった。アレスはどれだけ不快だったのだろう。考えると消えてしまいたい気持ちになった。



 しばらくすると控えめなノックの音がし、扉が静かに開かれた。


「エレナ様」


 相変わらず寝台に突っ伏すエレナのもとにフィーアは近付いて来て、エレナの顔を見た途端に眉をひそめた。


「今度は何が有ったのですか?」


「……」


「そんなに泣いたら腫れた目で夜会に出る事になりますよ。アレス様に浮腫んだ顔を見られてもいいのですか?」


「私……アレス様に会いたくない」


「は?」


 エレナの言葉は相当予想外だった様だ。フィーアはポカンと口を開ける。


「だ、大丈夫ですか? どこか具合が悪いのですか?」


「そうじゃないけど……」


 室内庭園で聞いた事を話すと、フィーアは何か考える時の表情になった。


「フィーア、どうかしたの?」


「いえ、ただニルソン家の事を最近どこかで聞いた気がするんです。具体的な内容は思い出せないんですけど」


 よほど気になるのか、フィーアは遠い目をして記憶を探っている。


「フィーア、ニルソン家の事より問題はアレス様とマリカ姫が恋人だって事でしょ?」


「ああ」


 あまりにあっさりした反応が返ってきた。


「そんな簡単にああって……驚かないの?」


「これと言って衝撃的な話とは思いませんでした。王太子殿下に過去恋人が居たとしても何の不思議も有りません。容姿端麗、文武両道の王太子殿下に憧れる貴族の姫は大勢いますから。エレナ様のその一人でしたよね」


「そ、そうだけど、でも問題は私がアレス様に憧れていたって事じゃなくて、マリカ姫と恋人関係だったのに私が二人の邪魔をしたって事でしょ? 私、どんな顔をしてアレス様に会えばいいの?」


「いつも通りで問題無いと思います。王太子殿下とマリカ姫が恋人関係だった事が本当だとしても、既に別れているのですから。過去の事ですよ」


「過去って……」


 あまりに割り切った発言に驚くエレナに、フィーアは呆れた表情をした。


「今はエレナ様がアレス様の唯一の妃なのです。悲劇のヒロインになって泣いている場合では有りませんよ。王太子妃として今夜の夜会の準備をしなくては!」


「……」


「私は仕事が山ほどありますので行きますけど、もう泣かないで下さいね! お化粧でも誤魔化せなくなる位、目が腫れてしまいますから」


 忙しそうに出て行くフィーアの後姿を見送ると、エレナは小さな溜息を吐いた。


 なんだかんだ言いつつフィーアとの会話のおかげで少し気分は落ち着いた。夜会の支度を始める頃にはどん底から浮上して来ていた。乳母とフィーアが選んでくれた優美な衣装を身に着け髪を整える。


「姫様、とてもお綺麗ですよ」


 乳母は満足そうに微笑んで言う。


「本当に。金の髪に淡い水色のドレスがとても合っています。黙っていれば物語に出て来る姫君そのものです」


 フィーアも珍しく褒めてくれた。


「ありがとう」


 今夜はマリカ姫が来ると言う。絶望的な悲しさからは立ち直ったけれど、怖い気持ちは大いに有る。マリカ姫を見る事、アレスがマリカ姫と再会する事、どちらも不安だった。


 フィーアを伴い夜会の行われる大広間へ向かう。


 周囲を気にしながら一段上になっている自分の席へ進んだ。


 既にアレスは席に着いていて、エレナが椅子に腰をかけるのをじっと見つめて来た。いつもは一瞬チラリと視線を送って来るだけのアレスが、今はエレナを真っ直ぐと見つめて来る。


「アレス様?」


 今夜のアレスはどこかいつもと違う気がする。見つめ合ったまましばらくするとアレスが低い声で言った。


「何が有った?」


「え?」


「目が腫れている。泣いたのだろう?」


 まさかアレスに気付かれるとは思わなかった。フィーアが器用に施してくれた化粧のおかげで、傍から見れば殆どいつもと変わらないはずなのだから。


「あの、悲しい事が有ったのです」


 アレスにマリカ姫との事を問い質す気は無いけれど、上手く誤魔化す事も出来ない。


「悲しい事?」


「今朝は雨で馬に乗れませんでした。それで……」


 気まぐれで室内庭園になんて行ってしまったものだから、知らない方が幸せだった事実を聞くはめになった。


「まさか馬に乗れなくて悲しくて泣いたのか?」


「え……はい」


 呆れられると分かってはいたけれどマリカ姫の事は言い出せない。今は頷くしかなかった。


 アレスの呆れを含んだ冷たい視線に耐えていると、大広間にざわめきが広がった。


 何事かと視線を遣ると、二人の男性が広間の中心を通り、アレスとエレナの居る王族の席に近付いて来ているところだった。


 一人はエレナの父のカーナ神官長。そしてもう一人は、絹糸の様な銀の髪の若い青年。


 人々の注目を浴びる二人は、アレスの前に来ると控えめに頭を下げた。


「お久しぶりです。アレス殿下」


 神官長が感情の無い声で言う。夜会で父に会うのは二回目だった。


 前回も感じたけれど、アレスと神官長の関係は良いとは言えない。アレスがカーナ家を嫌っているだけでなく、神官長もアレスを良く思っていない様に感じる。


 神官長は次に隣に立つ青年をアレスに紹介した。


「こちらはエザリア国の新フリード家当主です。先日お父上より伯爵の地位を継がれました」


(フリード伯爵? この人が……)


 内心驚くエレナと違って、アレスは動揺する気配も無く頷き、王太子として歓迎の言葉を発する。


 堂々としたその姿にエレナはいつも目を奪われてしまう。その場でアレスだけが光を放っている様に見える。けれど今日はエザリアから来た貴族の青年も、アレスに劣らず強い存在感を放っていた。


 心惹かれる訳ではないけれど、なぜか目が離せない。心乱れたまま、アレスに続いてエレナも挨拶を交わす。


 フリード伯爵が来賓席に移動しても、心がざわめくのを止められなかった。



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