↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
22/24

22.沢の異変 1

「オルガ! オルガはいるか!」

 

 入ってきたのは、村長の息子のダリオだった。


 顔色が悪い。額には汗が浮かび、息も少し乱れている。


「どうしたんだい」


「上流で、妙なものが見つかった」


 オルガの表情が変わった。


「妙なもの?」


「ああ。沢の水が、途中から青く見えるんだ」


「青く……?」


「水が濁ってるわけじゃない。水際の苔が、青く光ってるんだ」


 私は思わず立ち上がった。


「苔が?」


「ああ。びっしり生えてた」


 ダリオは息を整えながら続ける。


「それだけじゃない。近くにいた馬が、急に怯えて暴れ出した」


 胸の奥で、何かがかすかに鳴った。

 


 青い苔――。


 旅人から聞いた、話が脳裏をよぎる。


「その苔は、どこに?」


「村から見て北西だ。沢の上流の方」


「北西……」


 私は地図を思い浮かべた。


「樹海へ向かう道の方ですか?」


「ああ」


 ダリオは頷いた。


「でも、まだずっと先だ。外縁にも届かない」


 私は少しだけ考えた。


「そうですか」


「どうした?」


「いえ」


 私は椅子から立ち上がった。


「リゼット」


 オルガの声が飛んできた。


 私ははっとして顔を向ける。


「……行きません」


「まだ何も言っていないよ」


「行きたい顔をしていたので、先に答えました」


「まったく、余計なところだけ察しがいいね」


 オルガは深く息を吐いた。


 しかし、今度はすぐに却下しなかった。


 帳面を手に取り、青い苔について書かれた頁を開く。


「あんたたちは、苔を採取してきたのかい?」


「いや、危険そうだったから、そのままだ」


「それでいい。触らなかったのは正解だ」


 オルガは私を見た。


「リゼット。あんたが知っている植物の中に、似たものはあるかい?」


「……発光する苔なら、いくつか候補があります。でも、普通の光苔は動物を怯えさせるような成分を持ちません」


「なら、調べる必要があるね」


「はい」


「ただし、あんたが直接触るのは許さない。採取も私がする」


 私は目を瞬いた。

 

「距離を取って、私の指示に従うんだよ」



「それは……」


「樹海の中へ入るわけじゃない。沢の上流、村の大人たちが確認した場所までだ。外縁にも近づかない」


「つまり、周辺調査ですか?」


「そうだよ。お前が帳面に書いた、最初の一歩だ」


 心臓が、どくんと大きく跳ねた。


 まだ、樹海へ足を踏み入れるわけでもない。


 けれど、これまで遠くから眺めるしかなかった未知の領域が、初めて手の届く距離まで近づいてきた。


「準備をしな」


 オルガが言った。


「手袋。濾過布。密閉瓶。解毒薬。それから、余計なものは持っていくな」


「余計なものとは?」


「必要になるかもしれない、で何でも持っていこうとするんじゃないよ」


「……必要になるかもしれません」


「だから、必要なものを決めてから持っていけと言ってるんだ」



「植物を見つけても、勝手に採るんじゃないよ」


「観察だけですね」


「観察だけだ」


「標本用に少しだけ――」


「観察だけ!」


 店内に、オルガの怒鳴り声が響いた。


 私は両手を上げて降参する。


 けれど、胸の内側では、もう準備が始まっていた。

 

 白牙草。

 

 沢を流れる、植物由来かもしれない何か。


 青く光る苔。


 そして、死の樹海。


 それが偶然なのか、ひとつの異変につながっているのか。


 まだ、答えはない。


 だからこそ、知りたい。


 私は帳面の新しい頁を開き、少し震える手で書き込んだ。


『初回調査予定地――北西の沢、樹海外縁手前』


 その下に、さらに一行を加える。


『目的:青色発光苔の確認。沢の水質異常の原因調査。危険植物の採取は、オルガの許可がある場合のみ』


 書き終えたところで、私は少し考えた。


 そして最後に、小さく付け足す。


『できれば、観察対象が美しいものでありますように』


「何を書いたんだい?」


「調査目的です」


「最後の一行は?」


「重要事項です」


「消しな」


「嫌です」


 オルガのため息と、私の笑い声が、薬草の匂いが満ちた店の中に重なった。


 こうして私は初めて、死の樹海へ続く道の入口に立つことになった。


 まだ、ほんの外側。


 まだ、森の奥に眠るものには触れていない。


 それでも――


 未知の植物が、私を待っている。


 そう思うだけで、胸の奥に芽吹いた好奇心は、もう簡単には摘み取れそうになかった。

 

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。