22.沢の異変 1
「オルガ! オルガはいるか!」
入ってきたのは、村長の息子のダリオだった。
顔色が悪い。額には汗が浮かび、息も少し乱れている。
「どうしたんだい」
「上流で、妙なものが見つかった」
オルガの表情が変わった。
「妙なもの?」
「ああ。沢の水が、途中から青く見えるんだ」
「青く……?」
「水が濁ってるわけじゃない。水際の苔が、青く光ってるんだ」
私は思わず立ち上がった。
「苔が?」
「ああ。びっしり生えてた」
ダリオは息を整えながら続ける。
「それだけじゃない。近くにいた馬が、急に怯えて暴れ出した」
胸の奥で、何かがかすかに鳴った。
青い苔――。
旅人から聞いた、話が脳裏をよぎる。
「その苔は、どこに?」
「村から見て北西だ。沢の上流の方」
「北西……」
私は地図を思い浮かべた。
「樹海へ向かう道の方ですか?」
「ああ」
ダリオは頷いた。
「でも、まだずっと先だ。外縁にも届かない」
私は少しだけ考えた。
「そうですか」
「どうした?」
「いえ」
私は椅子から立ち上がった。
「リゼット」
オルガの声が飛んできた。
私ははっとして顔を向ける。
「……行きません」
「まだ何も言っていないよ」
「行きたい顔をしていたので、先に答えました」
「まったく、余計なところだけ察しがいいね」
オルガは深く息を吐いた。
しかし、今度はすぐに却下しなかった。
帳面を手に取り、青い苔について書かれた頁を開く。
「あんたたちは、苔を採取してきたのかい?」
「いや、危険そうだったから、そのままだ」
「それでいい。触らなかったのは正解だ」
オルガは私を見た。
「リゼット。あんたが知っている植物の中に、似たものはあるかい?」
「……発光する苔なら、いくつか候補があります。でも、普通の光苔は動物を怯えさせるような成分を持ちません」
「なら、調べる必要があるね」
「はい」
「ただし、あんたが直接触るのは許さない。採取も私がする」
私は目を瞬いた。
「距離を取って、私の指示に従うんだよ」
「それは……」
「樹海の中へ入るわけじゃない。沢の上流、村の大人たちが確認した場所までだ。外縁にも近づかない」
「つまり、周辺調査ですか?」
「そうだよ。お前が帳面に書いた、最初の一歩だ」
心臓が、どくんと大きく跳ねた。
まだ、樹海へ足を踏み入れるわけでもない。
けれど、これまで遠くから眺めるしかなかった未知の領域が、初めて手の届く距離まで近づいてきた。
「準備をしな」
オルガが言った。
「手袋。濾過布。密閉瓶。解毒薬。それから、余計なものは持っていくな」
「余計なものとは?」
「必要になるかもしれない、で何でも持っていこうとするんじゃないよ」
「……必要になるかもしれません」
「だから、必要なものを決めてから持っていけと言ってるんだ」
「植物を見つけても、勝手に採るんじゃないよ」
「観察だけですね」
「観察だけだ」
「標本用に少しだけ――」
「観察だけ!」
店内に、オルガの怒鳴り声が響いた。
私は両手を上げて降参する。
けれど、胸の内側では、もう準備が始まっていた。
白牙草。
沢を流れる、植物由来かもしれない何か。
青く光る苔。
そして、死の樹海。
それが偶然なのか、ひとつの異変につながっているのか。
まだ、答えはない。
だからこそ、知りたい。
私は帳面の新しい頁を開き、少し震える手で書き込んだ。
『初回調査予定地――北西の沢、樹海外縁手前』
その下に、さらに一行を加える。
『目的:青色発光苔の確認。沢の水質異常の原因調査。危険植物の採取は、オルガの許可がある場合のみ』
書き終えたところで、私は少し考えた。
そして最後に、小さく付け足す。
『できれば、観察対象が美しいものでありますように』
「何を書いたんだい?」
「調査目的です」
「最後の一行は?」
「重要事項です」
「消しな」
「嫌です」
オルガのため息と、私の笑い声が、薬草の匂いが満ちた店の中に重なった。
こうして私は初めて、死の樹海へ続く道の入口に立つことになった。
まだ、ほんの外側。
まだ、森の奥に眠るものには触れていない。
それでも――
未知の植物が、私を待っている。
そう思うだけで、胸の奥に芽吹いた好奇心は、もう簡単には摘み取れそうになかった。




