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23.沢の異変 2

調査の日は、思っていたよりも早く訪れた。


 朝靄がまだ村の屋根を白く覆っているうちに、私は薬師店の前で荷物の最終確認をしていた。


濾過布、密閉瓶、薬液を入れた小瓶、簡易の解毒薬、丈夫な手袋。それから、オルガに念を押されて持たされた厚手の外套。


 植物を扱うための長い鋏と小さい鋏は、オルガが管理している。今回は私が勝手に持つことは禁止されてしまった。


もちろん、記録用の帳面もある。


「……薬液は?」


 オルガが荷物を覗き込みながら尋ねた。


「あります」


「解毒薬は?」


「あります」


「濾過布は?」


「あります」


「帳面は?」


「あります」


 私は一つずつ答えていく。


 ただ、万が一、苔や樹液、胞子などを採取することも考えて、自分専用の密閉瓶だけはいくつかこっそり持った。


 必要になるかもしれないからだ。


 オルガは最後に私の顔を見た。


「……余計なものはもってないね?」


「はい」


「その言い方は、裏に何か隠しているね」


「隠していません」


「目が泳いでいるよ」


 私は無言で視線を逸らした。


「採集のことばかり考えて、調査を忘れるんじゃないよ」


「調査が目的です」


「ならいいけどね」


 オルガはそう言って、もう一度私の荷物を確認した。


「……その密閉瓶は水の採取のためだね?」


「はい」


「苔は?」


「オルガさんが採取し、私は観察します」


「採らないんだね?」


「採りません」


「本当に?」


「……できる限り」


「リゼット」


「はい、採りません!」


 オルガは満足したように鼻を鳴らした。


 今回同行するのは、オルガと私、それから村長の息子であるダリオの三人だった。


 ダリオは普段、村の荷運びや狩りを手伝っている青年で、森の周辺にも何度か入ったことがあるらしい。

 

 

 「……この三人だけで、本当に大丈夫なのか?」


 ダリオが不安そうに尋ねた。


「人数が多けりゃいいってもんでもないだろ」


「それはわかってる。でも、何がいるかわからない場所なんだ」

 

「まあそれはそうだが」

 

 ダリオは少し考えた。


「だったら、もう一人くらい男を連れてきたほうが…それに――」


「ふふ……たしかに子どもと老婆と……」


「リゼット」


「はい」


「余計なことを言うんじゃないよ」


「でも事実です」


「事実でも言わなくていいことはあるんだよ!」


 オルガが杖の先で地面を軽く叩いた。


「行くのはあんたたちが確認した場所までだよ」


「……まあ、そこまで言うなら」


 ダリオはまだ少し不安そうな顔をしていたが、それ以上は言わなかった。


「それに、何かあればすぐに戻ればいいんですよね?」


「あんたがそんなことを言えるなんてねぇ」

「そうさ。無理をする必要はない」


 オルガはそう答えて、沢へ続く道に目を向けた。


 私はその横で、これから向かう森を見つめた。


 怖くないわけではない。

 



 死の樹海は、村人たちが何十年も避けてきた場所だ。そこから流れてくる水に異常があるのなら、危険が潜んでいる可能性は高い。


 それでも、足がすくむほどではなかった。


 未知の植物を前にしたときの好奇心が、恐怖の輪郭を少しだけ曖昧にしている。


 ……オルガが隣にいるから、というのも大きいけれど。


 村を出てしばらく歩くと、道は次第に細くなった。


 畑が途切れ、牧草地が減り、代わりに低い灌木が増えていく。


 風はまだ冷たく、枯れ草の間から顔を出した新芽が、朝露をまとっていた。


「このあたりから、植物の種類が変わってきますね」


 私は道端に目を向けながら言った。


「そうか?あまり変わらないと思うが」


 ダリオが尋ねる。


「同じ種類の草でも、葉の色や茎の太さにばらつきがあります。土壌の成分が違うか、魔力の流れに偏りがあるのかもしれません」


「見ただけでわかるのか?」


「植物は、土と水と空気の影響を全部受けますから」


 私はしゃがみ込み、道端の苔に指を近づけた。


 鑑定。


 視界の端に、淡い文字が浮かぶ。


《薄暮苔》


 分類:苔類

 状態:正常

 性質:微弱な魔力吸収

 毒性: なし

 薬効:乾燥させると軽い止血作用

 備考:日陰を好む。魔力に反応し、葉先が銀色に変化する。


「……銀色?」


 私は草むらの奥を見た。


 確かに、日陰に生えている薄暮苔の一部だけ、葉先がわずかに銀色になっている。


 まだ異常と呼べるほどではないが…。



「どうした?」


 オルガが振り返った。


「この苔、魔力を吸っています。村の近くでは見たことがありません」

 

 

「毒は?」


「ありません」


「……一応採っときな」

 

「……!ありがとうございます」


「採ったら、先へ進むよ」


「はい」

 

 私はしゃがみ込み、銀暮苔へ手を伸ばした。

 

 採集者の加護が働き、苔は根元を傷つけることなく、きれいに地面  から離れた。

 

 銀色の葉先。


 朝露を弾く、薄い光。


 これはきっと、環境の変化を記録している。


 植物は、言葉を話さない。


 けれど、葉の色や根の伸び方、花の咲く時期、毒の強さで、周囲に  何が起きているのかを教えてくれる。


 だから私は、植物を見るのが好きなのだ。


 彼らはいつだって、何かを伝えようとしている。


 

 淡い銀色の光が、指先に染みついている。

 

 私はそのまま収納空間へ収めた。

 

「採れました」

 

「じゃあ、行くよ」

 

 オルガに続いて、私は沢沿いを歩き始めた。


 やがて、沢の音が聞こえてきた。


 さらさらと流れる水音に混じって、時折、石を転がすような低い音が響いている。


 しかし、近づくにつれて、その音に違和感が混じり始めた。


 水の流れが、妙に重い。


 透明な水が石を撫でる音ではなく、粘り気のあるものがゆっくりと這っているような音だった。


「……変だな」


 ダリオが足を止めた。


 沢は、少し先で二手に分かれていた。


 手前側の水は普通に見える。けれど、上流へ続く細い流れには、薄い青い光が漂っていた。


 光は水面に浮いているのではない。


 水の中に溶け込んでいるように見えた。


「近づくな」


 オルガが低く言った。


 私たちは足を止めた。


 水際の石には、例の苔が生えていた。


 青い。


 ただ青いだけではない。


 夜空の底を閉じ込めたような、深く澄んだ青色だった。


 苔の一枚一枚が、呼吸するように明滅している。


 光るたび、水面に細い波紋が広がった。


「……綺麗」


 思わず、声が漏れた。


「綺麗じゃない!」


 オルガとダリオの声が重なった。


 私は慌てて口を閉じる。


 しかし、視線だけは苔から離せなかった。


 鑑定。


 ――。


 文字が浮かばない。


「……あれ?」


 もう一度、鑑定を使う。


 ――対象の情報を取得できません。


 胸の奥が、ひやりと冷えた。


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