21.白牙草 3
白牙草の一件から、村の空気が少しだけ変わった。
いつもなら朝靄の向こうで羊が鳴き、井戸の周りでは女たちが世間話に花を咲かせている時間になっても、ここ数日、村の大人たちはどこか落ち着かない。
「水が原因なのかねえ」
「でも、白牙草こんなところに生えるなんて普通じゃないんだろ?」
「樹海から毒が流れてきたなんて話、昔からあるじゃないか」
そんな声が、あちらこちらから聞こえてくる。
私は薬師店の軒先で、薬草を束ねながら、耳だけをそちらへ向けていた。
死の樹海。
その名前が出るたび、村人たちの声には、目に見えない蓋がかぶせられたような重さが混じる。
まるで、その名を口にするだけで森の奥にいる何かがこちらを振り向くとでも思っているみたいだった。
「聞き耳を立てるくらいなら、手を動かしな」
背後からオルガの声が飛んできた。
「聞き耳ではありません。情報収集です」
「同じことだよ」
「薬師にとって情報は薬草と同じくらい重要です」
「なら、薬草を逆さに吊るす向きくらい覚えな。これじゃあ葉が重なりすぎて腐る」
「……はい」
私は素直に束を持ち直した。
薬草は、ただ乾かせばいいわけではない。
風の通り道、日差しの強さ、茎の太さ、含まれる水分量。どれか一つを間違えるだけで、薬効が落ちたり、逆に成分が変質したりする。
植物は生きている間だけでなく、採取されたあとも、最後まで植物なのだ。
その扱いを雑にすれば、薬師として失格である。
*
その翌日。
「村長たちが沢を見に行ったそうだよ」
オルガが薬瓶の蓋を閉めながら言った。
「どこまでですか?」
「少し上までだよ。ここから半刻ほどのところだそうだ」
「樹海の外縁までは?」
「行くわけがないだろう」
ぴしゃりと言われた。
私は束ねた薬草を置き、顔を上げる。
「でも、原因を調べるなら――」
「リゼット」
名前を呼ばれただけで、言葉が止まった。
オルガは怒鳴ってはいなかった。ただ、いつものように皺の刻まれた顔で、まっすぐこちらを見ている。
「知りたい気持ちはわかる。だがね、知りたいからといって、どこへでも首を突っ込んでいいわけじゃない」
「……はい」
「薬師は、危険を見つけたら近づく仕事じゃない。危険を見極めて、必要なら遠ざける仕事でもあるんだ」
その言葉は、胸の奥に静かに沈んだ。
私は毒草が好きだ。
珍しい植物を見つければ嬉しいし、未知の成分を知れば胸が躍る。危険な植物ほど、その仕組みを知りたくなる。
けれど、薬師として誰かの命を預かるなら、好奇心だけで動いてはいけない。
「あんた、帳面に何か書いていたんだろう?」
「……はい」
「なら、それを見せてみな」
私は急いで自分の部屋から帳面を持ってきた。
表紙には、少し曲がった文字でこう書いてある。
『死の樹海・周辺植物調査記録(仮)』
オルガはそれを見て、眉をひそめた。
「……まだ死の樹海が原因だと決まったわけじゃないだろうに」
「仮の名なので」
「……まったく、そういうところだけは、妙に用意周到だね」
半ば呆れたように言いながら、オルガは帳面を開いた。
そこには、白牙草を見つけた場所、葉の色、根の張り方、種子の状態、水の成分、羊たちに現れた症状の順番まで、細かく書き込んである。
さらに私は、村の地図を写し取り、白牙草が増えていた地点を小さな黒丸で示していた。
「……あんた、いつの間にこんなものを」
「昨日の夜です」
「寝てないだろう」
「寝ました。二時間ほど」
「それは寝たとは言わない」
オルガはため息をついたが、帳面を閉じなかった。
しばらく黙って頁をめくり、やがて指先で地図の一点を叩く。
「白牙草が最初に見つかったのは、ここだね」
「はい」
「そのあと、沢沿いに少しずつ増えている」
「はい。しかも、沢から離れた場所にはほとんどありません」
「だが、白牙草は水辺を好む植物じゃない」
「そうなんです」
私は身を乗り出した。
「白牙草は乾いた土地で育ちます。むしろ、湿った場所では根が傷みやすいはずなんです。でも今回のものは、沢の近くに集中していて、葉の裏に通常より濃い紫色の筋が出ていました」
「なるほどね」
次の頁には、牙草の種子についての記録がまとめられていた。
「これは?」
「種子の実験です」
「また勝手に……」
「白牙草の種子を三つの条件に分けて育ててみました」
私は頁を指差した。
「白牙草が本来生える乾燥した環境。井戸水を使った環境。それから、沢の水を使った環境です」
「……それで?」
「種子は、どれも最初から強い魔力反応を持っていました」
私は記録を指で追った。
「ただ、数日経つと、乾燥した環境と井戸水の種子は魔力反応が少しずつ弱くなりました」
「ふうん」
「ところが、沢の水を使った種子だけは違いました」
私は該当する記録を見せる。
「魔力反応が弱くならなかったんです。それどころか、種子の表面に亀裂が入りました」
「発芽したのかい?」
「まだです。でも、他の種子には見られない変化でした」
「白牙草は、もともと発芽までそれほど早い植物ではありません」
私は記録をめくった。
オルガは帳面を覗き込んだ。
「つまり、沢の水が種子に何か影響を与えた、と?」
「その可能性があります」
「可能性、ねえ」
「はい」
私は頷いた。
「ですが、沢の水だけが原因だとはまだ言えません」
「なら、今のところは可能性を並べておくしかないね」
私は小さく頷いた。
オルガの指が、次の頁へ移る。
「それから、この灰色の沈殿物」
「水を煮詰めたときに残ったものです。普通の鉱物成分とは少し違いました。植物の成分に近い反応が出ています」
「村の沢の水を鑑定してみたんですが、その時も微かに反応したんです」
「つまり?」
「沢の水には、何か植物由来の成分が混ざっている可能性があります。ただし、白牙草のものなのか、別の植物の成分なのかは、まだわかりません」
「その成分が白牙草に影響を与えたということも考えられます」
「結局…」
「今分かっていることは沢の水に違いが出たことだけです…」
「そこまで分かってるなら、十分だよ」
「そうでしょうか?」
「分からないものを分からないままにしておくのも、調査のうちさ」
「……なるほど」
私はその言葉を帳面の端に書き留めた。
――分からないものを、分からないまま記録する。
「それまで書くのかい」
「重要です」
「……まあ、あんたらしいか」
オルガはしばらく帳面を見つめていた。
その横顔には、いつもの小言を考えているときとは違う、薬師としての鋭い表情が浮かんでいる。
「村長にこれを見せる」
「本当ですか?」
「ああ。大人たちの調査が浅すぎる。水の流れだけ見て、植物の変化を調べていないんじゃ話にならない」
「では、私も――」
「行かせないよ」
「まだ最後まで言ってません」
「どうせ『私も調査に参加します』だろう」
「……正解です」
「却下だ」
即答だった。
「でも、記録をつけたのは私です。現場を見たほうが――」
「だからこそ、あんたは店に残るんだ」
「どうしてですか?」
「村長たちが戻るまでに、今度は薬の準備をする。何かあった時に、すぐ対応できるようにね」
私は口を閉じた。
反論しようとして、できなかった。
薬師の仕事としてはそちらのほうが正しい。
原因を探る人が必要なら、備える人も必要だ。毒が広がる可能性があるなら、薬を用意し、症状を見極め、被害を抑えることも同じくらい重要になる。
「……わかりました」
「本当にわかっているのかね」
「わかっています。調査に行けない代わりに、解毒薬と鎮静薬を準備します」
「それでいい」
オルガは帳面を閉じ、私に返した。
そのとき、店の外から慌ただしい足音が聞こえてきた。




