20.白牙草 2
「白牙草は、今年になって突然現れた……」
薬師店へ戻った私は、帳面を開きながらぶつぶつと考えを口にしていた。
帳面をめくり、傍らに広げた古びた地図へ視線を落とす。
「風や雪解け水で運ばれたにしては、ここから一番近い乾燥地帯からでも離れすぎているし。鳥や獣の体を通ってきた……? ううん……生き物に運ばせる生態じゃない」
地図に描かれた沢の線を指でなぞる。
「そもそも、なんで乾燥地帯の植物がこの村の沢で育つんだろう……?」
「……それに魔力……」
白牙草も種も強い魔力反応があった。
「……乾燥地帯の植物なのに、発芽率も生育速度も異常…」
本来なら、何年もかけて小さく育つはずの白牙草。それが沢の近くで一気に生い茂った理由…。
私は少し考えた。
「植物に似た反応…」
私は帳面を見つめた。
「やはり、上流を調べる必要がある…」
「それで?」
背後からオルガの声が飛んできた。
「可能性だけで沢の上流へ行くつもりかい?」
「上流を調べないと、白牙草がまた流れてくるかもしれません」
「村の男たちに頼めばいい」
「植物の毒性を知らない人が入るのは危険です」
「お前が入る方が危険だよ」
「私は毒が効きません」
「それ以外の危険があると言ってるんだ!」
オルガは腕を組んだ。
「森の浅い場所ならともかく、沢の上流は道が悪い。獣も出るかもしれないんだ。お前一人で行かせるわけにはいかない」
「では、誰か同行してくれる人を探します」
「そういう問題じゃない」
「では、どうすれば?」
オルガは短く息を吐き、こめかみを指で押さえた。
「…私だってあんたより長く生きてる分、こんな所に白牙草が異常発生するなんてただごとじゃないと思ってるさ」
「……もし原因が沢の上流にあるならまだいい。けどね――」
オルガはそこで言葉を切った。
しばらく考えたあと、彼女は店の奥から一枚の古い紙を取り出した。
それは、この周辺の森を描いた地図だった。
今の地図よりもずっと粗く、ところどころに赤い印がつけられている。
「これは?」
「昔、王都から来た調査隊が残していったものだよ」
「調査隊?」
「この森の植物を調べに来た連中さ。もう三十年近く前の話だ」
地図の北西には、大きく黒い線で囲まれた区域があった。
その外側に、古い文字でこう書かれている。
――立入禁止。
――毒霧発生区域。
――帰還者なし。
私は息を止めた。
「ここは……」
「死の樹海だ」
私は地図に描かれた黒い区域を見つめた。
「この中を調べれば、白牙草の発生源がわかるかもしれませ…」
「だからここに原因があるとしたらやっかいだって言っているんだ。 死の樹海と聞けば目の色を変えるお前も、十分やっかいだがね」
オルガの返事は早かった。
オルガは地図の黒い区域を指でなぞった。
「この場所は別なんだよ。昔から戻ってこない人間が何人もいる。 理由もわからない」
「では、調べる必要がありますね」
「……どうしてそうなるんだい」
「戻ってこない理由がわからないからです」
「だから調べに行かせろって?」
「はい」
「目的が変わってるじゃないか」
「白牙草の原因も行方不明者も探せて一石二鳥です」
「駄目だ」
一切の反論も挟ませない、絶対不可侵の「駄目だ」だった。
「……わかりました」
私はすんなり引き下がった――フリをして、すぐさま言い直した。
「……じゃあ、しっかり準備をすれば?」
「しつこい」
生薬をすり潰す薬鉢のすりこぎみたいな圧で、オルガからギロリと睨みつけられる。
「お前は植物のことになると、危険かどうかを考える前に近づこうとする癖がある」
「そんなことはありません」
「あるよ」
「……少しだけです」
「そこを直してからだ」
私は黙ってオルガを見る。
「でも、村へ毒草が流れてきています」
「それはわかってる」
「原因を調べる必要があります」
「必要があることと、お前を行かせることは別だよ」
私は地図から顔を上げた。
「では、誰か別の人に調べてもらうんですか?」
「村長に報告する。まずはそこからだ。それに沢の水を使わないように伝えないとね」
「村長に報告したら、調査できるようになりますか?」
「そう簡単な話じゃない」
「では、どうすればいいですか?」
「まずは、今わかっていることをきちんと調べるんだ。沢の水に何が混じっているのか。どこまで異変が広がっているのか」
オルガは地図を指で叩いた。
「それに死の樹海が原因と決まったわけじゃない。いったん考えるのをやめな」
オルガは地図を折り畳む。
「わかりました…」
けれど、地図の上に残された黒い区域が頭から離れなかった。
死の樹海。
そこには、未知の植物がある。
それだけではない。
この村へ流れてくる毒の源があるかもしれない。
誰かが傷つく前に。
誰かが命を落とす前に。
私は、そこに何があるのかを知らなければならない。
その夜、私は新しい帳面を開いた。
表紙に、こう書く。
――死の樹海・周辺植物調査記録。
私は表紙を眺めた。
まだ、死の樹海が原因だと決まったわけではない。
「……少し先走りすぎかな」
私は小さく呟いた。
それでも、なぜかこの名前を消す気にはなれなかった。
今のところ、ただの仮説。
だからこそ、調べてみたい。
もし違っていたのなら、そのときは違うと書けばいい。
けれど、もし本当に関係しているのなら。
その可能性を最初から記録しておくことにも意味がある。
「……まあ、仮の名前です」
小さく(仮)と書く。
「オルガさん対策に…」
私はそう言って、新しい帳面を開いた。
まだ何も分からない。
だからこそ、これから調べる。
私は最初のページに、今日までに分かっていることを書き始めた。
最初の項目は、白牙草。
発見場所。
毒性。
発生時期。
水路との関係。
魔力反応。
そして最後に、ひとつ。
――発生源、未確認。
私は筆を置き、窓の外を見た。
遠くの森は、夜の中で黒く沈んでいる。
そのさらに向こう。
誰も近づこうとしない場所で、まだ見ぬ植物たちが静かに息づいている。
私は小さく呟いた。
「待っていてください」
誰に向けた言葉なのか、自分でもわからなかった。
死の樹海へ行きたい。
その気持ちは、最初から変わっていなかった。
けれど、以前の私は、ただそこに未知の植物があるから行きたいと思っていた。
見たことのない花を見たい。
知らない毒草を調べたい。
誰も名前をつけていない植物を、自分の手で確かめたい。
それだけだった。
けれど今は、少し違う。
森から流れてきた毒草が、村の家畜を苦しめた。
知らない植物のせいで、誰かが命を落とすかもしれない。
そして、その原因がどこにあるのか、まだ誰にもわかっていない。
知らないということは、時に危険なことなのだ。
だから私は、もっと学ばなければならない。
植物の名前だけではなく、その生き方を。
毒性だけではなく、毒が生まれる理由を。
薬効だけではなく、それを必要とする人のことを。
オルガの弟子になったのは、珍しい植物を好きなだけ集めるためではない。
そこで見つけたものを、正しく扱える人間になるためだった。
――死の樹海・周辺植物調査記録(仮)。
その下に、新しい一行を加えた。
――村を守るために、知る。
書き終えてから、私は少しだけ首を傾げた。
少し堅苦しい気がする。
なので、その下にもう一行付け足した。
――できれば、珍しい植物もたくさん見つける。
こちらの方が、私らしい。
窓の外では、夜の森が静かに揺れていた。




