2.加護
突然、声がした。
鈴を転がすような、柔らかな声だった。
私は反射的に振り返った。
いつの間にか、目の前に女性が立っていた。
白い衣をまとい、長い髪を背中に流している。背後には淡い光が広がり、足元には水面のようなものが揺らめいていた。
いかにも、という姿だった。
「……女神様?」
「はい。そう呼ばれることが多いですね」
女神は微笑んだ。
そして、少し申し訳なさそうに眉を下げる。
「あなたには、本来もう少し長く生きていただく予定だったのですが……」
「そうなんですか」
「はい。こちらの手違いといいますか、少々予定外の事故がありまして」
「山で滑ったのは、手違いだったんですか?」
「正確には、あなたが足を滑らせる確率を、ほんの少しだけ上げてしまいまして」
「ほんの少し」
「……はい」
「それは、かなり困りますね」
「返す言葉もありません」
女神は深々と頭を下げた。
私は腕があれば、たぶん頬を掻いていたと思う。
「まあ、もう死んでしまったものは仕方ないですし」
「本当に申し訳ありません」
「それより、あの花は大丈夫でしたか?」
「……花?」
「さっきの。黒紫色の、夜泣き草です。私が倒れたとき、下敷きになっていなければいいんですが」
女神は、しばらく黙っていた。
やがて、何かを確認するように宙へ視線を向ける。
「ええと……周辺の植物情報を確認しますね」
「植物情報?」
「少々お待ちください」
女神の目の前に、淡い光の板が浮かび上がった。
そこに何かが表示されているらしい。
「……はい。花は無事です」
「よかった」
心から安堵した。
女神は、そんな私を見て、少しだけ困ったように笑った。
「普通は、まずご自分の死を悲しまれるものなのですが」
「悲しくないわけではないですよ。ただ、あの花は数年に一度しか咲かないので」
「なるほど……」
「それに、まだ写真を撮っていませんでしたし」
「そこですか」
女神は小さく息を吐いた。
呆れているのか、感心しているのか、いまひとつわからない。
「では、せめてものお詫びとして、異世界へ転生していただくことにしましょう」
「異世界」
「はい。魔法の存在する世界です。魔物も生息しています」
「植物は?」
「……もちろん、あります」
「どのくらい?」
「それは、世界によって異なりますが」
「毒草も?」
「あります」
「珍しい植物も?」
「ええ、まあ」
「薬草も?」
「当然です」
私は少し考えた。
女神は、私が何か壮大な願いを口にするのを待っているようだった。
たとえば、無限の魔力とか。
不老不死とか。
世界最強の剣術とか。
しかし、私が欲しいものは決まっていた。
「……植物を、たくさん見られる場所がいいです」
「はい?」
「できれば、まだ誰も詳しく調べていない植物がたくさんあるところ」
「ええと……」
「毒草も、普通の人が触れないようなものも、観察できると嬉しいです」
「…………」
女神は、何とも言えない顔をした。
「あなたは、危険な植物がお好きなのですね」
「好きというか、植物が生き残るためにどんな仕組みを持っているのか知るのが好きなんです」
「なるほど」
「毒を持つ植物って、すごく合理的なんですよ。自分を食べようとする生き物に対して、毒という形で対抗するでしょう。でも、その毒を持つことで、逆に特定の昆虫と共生していたり――」
「あの」
「はい?」
「転生特典について、お話ししてもよろしいでしょうか?」
「あ、はい。すみません」
女神は微笑みを浮かべたまま、どこか遠い目をした。
「あなたには、異世界で生きていくための加護を一つ、お選びいただけます」
「一つですか?」
「基本的には一つです。ただし、あなたの場合は……」
女神は何かを確認するように、再び光の板へ目を向けた。
「植物に関する加護であれば、複数の効果をまとめることができそうですね」
「本当ですか?」
「ええ。あなたの希望が、かなり一貫していますので」
「では、植物の鑑定能力を」
「はい」
「毒性や薬効もわかるように」
「はい」
「それから、植物を傷つけずに採取できる能力」
「……はい」
「あと、採集した植物を保存できる収納魔法」
「はい」
「それと、できれば植物を育てるのに適した土地を――」
「お待ちください」
女神が、初めて少しだけ強い声を出した。
「まだ続きますか?」
「え?」
「いえ、なんでもありません」
女神は咳払いをした。
「植物に関する加護は、ある程度お付けできます。ただし、毒草を扱うのであれば、身体の耐性も必要になるでしょう」
「耐性?」
「毒や病気に対する耐性です。異世界には、こちらの世界には存在しない毒もありますから」
「それは助かります」
「では、毒耐性を最大まで」
「最大?」
「はい。最大で」
女神の指が止まった。
「……本当に、最大でよろしいのですか?」
「はい。植物を観察するのに、毒で死んでしまったら困りますから」
「そうですね……」
女神は、少しだけ遠い目をした。
「では、毒耐性、病耐性、植物鑑定、採集者の加護、収納能力。それから、植物の生育に適した土地への導き」
「ありがとうございます」
「……これでよろしいですか?」
「はい。十分です」
「ちなみに、剣聖や賢者、竜殺しの加護などもございますが」
「必要ありません」
「即答ですね」
「植物があれば」
女神は黙った。
そして、なぜか小さく笑った。
「……わかりました。あなたらしい転生になることでしょう」
足元の水面が、ゆっくりと光を増していく。
「最後に、何かご希望の環境はありますか?」
「そうですね……」
私は少し考えた。
植物が多い。
人が少ない。
採集の邪魔をされない。
できれば、珍しい種類が豊富。
「……人のあまり来ない、自然の多い場所がいいです」
「人のあまり来ない場所、ですか?」
「はい。静かで、植物がたくさんあって、好きなだけ観察できるところ」
女神は、にっこりと微笑んだ。
「承知しました」
その笑顔を見て、私はなぜか少しだけ不安になった。
けれど、次の瞬間には、足元から白い光が立ち上っていた。
「それでは、よい植物採集を」
「はい。ありがとうございます」
意識が遠のく。
最後に見えたのは、女神の微笑みだった。
そして、最後に聞こえた言葉は――
「……死の樹海の近く、でよろしいですね?」
だった。




