1.毒草は、死ぬほど美しい
毒草というものは、どうしてこうも美しいのだろう。
たとえば、道端に咲く名もない白い花。誰もが可憐だと目を細めるその花が、実は根に強い神経毒を蓄えていると知ったとき、私は胸の奥がわずかに高鳴るのを感じる。
花弁の形。葉脈の走り方。茎の色。虫に食われた痕跡の少なさ。
そこには、その植物が生き残るために積み重ねてきた、途方もない年月の工夫が詰まっている。
「……やっぱり、綺麗だなあ」
しゃがみ込んだ私は、手袋越しに白い花を眺めていた。
場所は、都内の植物園にある薬用植物区画。立入禁止の札が立てられた、屋外の一角である。
もちろん、私が勝手に侵入したわけではない。今日は職員としての調査日で、許可も取ってある。札の向こう側にいること自体は、なんら問題ではなかった。
問題があるとすれば、同僚から見た私の姿だろう。
「またそこにいるの?」
背後から声がした。
振り返ると、同僚の女性が呆れた顔で立っていた。片手には記録用のタブレット。もう片方には、私を探すためであろう折りたたみ傘。
「そろそろ昼休憩終わるよ」
「あと五分だけ」
「その台詞、聞き飽きた」
「今度の五分は本当」
「植物オタクの言う『あと五分』ほど信用できないもの、なかなかないんだけど」
彼女はそう言いながら、私の隣まで歩いてきた。
そして、花を見下ろす。
「それ、そんなに珍しいの?」
「珍しいというか、面白いの。ほら、見て。葉の裏側」
「……うん?」
「葉脈の近くに、少しだけ赤みがあるでしょ。これ、土壌中の成分に反応して色が変わっている可能性があるんだよね。毒性の生成と関係しているかもしれない」
「へえ」
「それに、この花は虫に食べられた跡がほとんどない。つまり、見た目以上に防御成分が強いはずで――」
「うん、わかった」
「まだ何もわかってないと思うけど」
「私はね、あなたが花の話を始めると、昼休憩が夕方になることを知ってるの」
彼女は傘を私の頭上に差し出した。
空を見上げると、いつの間にか雲が厚くなっていた。雨の匂いがする。
「……もう少し観察したかった」
「その花は逃げないでしょ」
「植物だって、環境が変われば状態が変わるよ。雨の前後で香りも変わるし、根の水分量も――」
「はいはい。続きは記録室で」
私は名残惜しく立ち上がり、最後にもう一度、白い花を見た。
美しい。
毒を持つ植物は、決して誰かに好かれるために毒を作っているわけではない。
食べられないため。
傷つけられないため。
厳しい環境の中で、生き残るため。
その結果として、花は美しくなり、香りは甘くなり、果実は鮮やかな色を得る。
生きるための仕組みが、時に人間の目には美しさとして映る。
私は、そういうところが好きだった。
帰宅後、夕食もそこそこに、私は机の上へ図鑑を広げていた。
部屋の壁際には鉢植えが並び、窓辺には乾燥させた薬草が吊るされている。冷蔵庫の中には野菜よりも種子の保存容器のほうが多い。
友人には以前、
『それ、もう部屋じゃなくて研究室じゃない?』
と言われた。
否定はできなかった。
「……あ」
ページをめくっていた指が止まる。
そこに載っていたのは、数年に一度しか開花しないとされる、山間部の希少種だった。
黒紫色の花弁。夜間にのみ開き、根には強い神経毒を含む。
名前は――夜泣き草。
「これ、実物を見てみたいな……」
思わず声が漏れた。
図鑑の写真だけでも、その花が普通の植物とは違うことはわかる。花弁の縁が夜の闇に溶けるように暗く、中心部だけが、かすかな月明かりを抱えたように淡く浮かんでいる。
毒草は、育てる環境によって性質が変わる。
同じ種類でも、土壌や気温、周囲の植物によって毒性が変化することがある。だからこそ、実際に生えている場所で観察したい。
そう思った私は、翌週の休日に山へ向かうことにした。
天気予報は晴れ。
登山道から少し外れた場所に、その植物の目撃情報があるらしい。
もちろん、無理はしないつもりだった。
足場を確認し、装備を整え、採集用の袋も用意する。
ただ、ひとつだけ。
その夜、私は珍しく、採集用の袋を玄関に置き忘れた。
そして翌朝。
山の斜面で、私はついにそれを見つけた。
「……いた」
薄暗い木々の隙間。
月の残り香のような光を受けて、黒紫色の花がひっそりと咲いていた。
写真で見るより、ずっと小さい。
けれど、その分だけ、周囲の緑の中で異様な存在感を放っている。
私は息を止めた。
近づきすぎないように、ゆっくりとしゃがみ込む。
葉の形。茎の色。花弁の開き方。
図鑑の記述と一致する部分を、一つずつ確かめていく。
「すごい……本当に、あるんだ」
そのときだった。
足元の土が、かすかに崩れた。
「あ」
体が傾く。
手を伸ばした先には、花があった。
反射的に、その花を庇おうとした。
自分の体より先に。
それが、最後に覚えていることだった。
――痛く、なかった。
それが最初に思ったことだった。
次に、妙に静かだと思った。
風の音も、鳥の声も、遠くを走る車の音もない。目を閉じているのかと思ったが、そもそも瞼の裏にあるはずの暗闇すら、どこか曖昧だった。
「……あれ?」
声が出た。
いや、声が出たというより、声を出したつもりになった。
体を起こそうとして、そこで初めて気づく。
体がない。
「…………」
しばらく考えた。
落ちた。
花を庇った。
その後の記憶がない。
「……ああ」
思わず納得の声が漏れた。
なるほど。
死んだのか。
驚きは、あまりなかった。
山で足を滑らせたのだから、そういうこともあるだろう。むしろ、あの斜面の角度と地面の湿り具合を考えれば、よく今まで無事だったものだ。
ただ、一つだけ気になった。
「……花」
あの花《夜泣き草》は、無事だっただろうか。
私が倒れた拍子に踏み潰していなければいいのだけれど。
「花、ですか?」




