第1部 第8話「秘密基地」
――数十時間後、夜。
仕事を終えた会社員たちが、次々と街を歩いていた。
駅へ向かう者。飲みに行く者。家へ帰る者。コンビニへ寄る者。
昼間とは違う、少し疲れた空気が街を包んでいる。
そんな人々の中に――一人の女性がいた。
名前は、麗子。
34歳。茶髪のセミロング。落ち着いた雰囲気をまとった、大人のお姉さんといった印象の女性だった。
麗子は仕事用のバッグを肩に掛け、ゆっくりと歩いていた。
「んん〜……今日も疲れたぁ」
小さく伸びをする。
「はぁ……」
今日も一日が終わった。
仕事をして、家へ帰る。
そんな、ごく普通の日常。
麗子はスマートフォンを取り出し、時刻を確認した。
「……もうこんな時間か」
少しだけ考える。
「コンビニ寄って、何か買って帰ろ」
今日の夕飯は簡単なものでいい。明日の朝食も、ついでに何か買っておこう。
そんなことを考えながら、麗子はコンビニへ向かって歩き始めた。
彼氏はいない。
仕事と家の往復。
特別、刺激的な生活をしているわけでもない。
どこにでもいる、ごく普通の社会人。
だからこそ――。
麗子は知らなかった。
今日。
自分の日常が、大きく壊されることを。
* * *
――その時。
キキッ!
道路脇に、一台の黒い車が停まった。
麗子は足を止める。
「……?」
視線を向けると、そこには黒い車があった。
妙に綺麗な車だった。
「……なんだろ?」
少し警戒しながら眺めていると――。
ガチャッ。
運転席のドアが開いた。
そこから、一人の男が降りてくる。
白髪。オールバック。きっちりとした服装。そして――妙に堂々とした立ち姿。
男は道路を渡り、麗子の前まで歩いてきた。
麗子は思わず、少しだけ後ずさる。
男は非常に落ち着いた様子だった。
そして、丁寧に頭を下げる。
「すまないが」
「はい?」
男は穏やかな声で尋ねた。
「少し道を尋ねたいのだが……」
「道、ですか?」
「ああ」
麗子は周囲を見回した。
普通に考えれば、道を聞かれただけ。
そう思い、ひとまず質問に答えようとする。
「どちらですか?」
男は少し首を傾げた。
そして――。
「……ポンポコ?」
麗子の頭の中に、大きな「?」が浮かんだ。
「……ん?」
男は黙っている。
麗子も黙っている。
数秒間、奇妙な沈黙が流れた。
「……ポンポコって……何ですか?」
男は何事もなかったかのように答えた。
「いや、気にしないでくれたまえ」
「は、はぁ……」
麗子は引きつった笑顔を浮かべた。
(……何、この人)
道を聞きたいのか。
ポンポコについて聞きたいのか。
そもそも、ポンポコとは何なのか。
麗子の頭の中には、疑問しか浮かばなかった。
しかし――その瞬間。
「――っ!?」
ガッ!!
背後から、突然腕を掴まれた。
「えっ!?」
麗子が慌てて振り返る。
「ちょっ――!」
いつの間にか、そこには別の男が立っていた。
さらに、左右からも二人。
気づけば、三人の男たちが麗子を取り囲んでいた。
「な、何!?」
「ちょっと!! 何するのよ!」
麗子は必死に抵抗した。
「離して!!」
しかし、三人がかりでは簡単に振りほどけない。
「誰か――!」
声を上げる。
「誰か助け――!」
だが、その声は街の喧騒にかき消されていく。
そして――。
「えっ!?」
身体がふっと浮いた。
「えええええ!?」
驚きの声を上げる麗子。
そのまま三人の男たちによって、黒い車へと運ばれていく。
「ちょっ!!」
「何なの!?」
「おろしてよ!!」
必死の訴えも届かない。
そして――黒い車。
「ちょっ――!」
バタン!!
ドアが閉まった。
「待って!!」
車内から麗子の声が響く。
「誰かー!!」
しかし――。
ブロロロロ……。
黒い車は走り出した。
「誰かー!!」
麗子の声が、夜の街へと消えていく。
車はそのまま、あっという間に遠ざかっていった。
* * *
その場には、白髪の男が一人残っていた。
オールバックの髪に、黒いスーツ。
男は走り去っていく車を、静かに眺めていた。
そして――。
ニッコリ。
口元に、楽しげな笑みを浮かべる。
やがて、男は小さく笑い始めた。
「はっはっは」
まるで何かのゲームでも始めるかのような、軽い笑い方だった。
男はポケットに手を入れながら、何事もなかったかのように歩き始める。
「私の秘密基地は楽しいよ」
夜道を歩きながら、男は楽しそうに続けた。
「せっかくだ」
「楽しんで行きたまえ」
そして――。
「はっはっは!」
その笑い声だけが、夜の街に響いていた。
* * *
――黒い車。
麗子を乗せた車は、街を離れていく。
「ちょっと……!」
麗子は車内で、必死に状況を理解しようとしていた。
だが、何が起きているのか――まったく分からない。
なぜ自分が連れ去られたのか。
どこへ連れていかれるのか。
あの男は何者なのか。
そして――。
「……ポンポコって何なのよ……」
麗子の呟きは、誰にも届かなかった。
黒い車は、そのまま夜の闇の中へと消えていく。
* * *
――その頃。
街のどこか。
白髪の男は足を止め、ふと上空を見上げた。
そして、再び口元を緩める。
「……ふふっ」
その表情には、これから始まる何かを心待ちにしているかのような、不気味な余裕があった。
「さあ……楽しませてもらおうか」
男の笑い声が、夜の静寂に溶けていった。
――続く。




