第1部 第7話「また一人」
――翌朝。
ギルド。
朝の光が大きな窓から差し込み、床に細長い光の帯を作っていた。
冒険者たちが行き交い、受付では依頼の手続きが行われている。
依頼書を確認する者。
仲間と今日の予定を相談する者。
装備の具合を確かめながら、ダンジョンへ向かう準備をする者。
いつもなら、そんな日常の光景が広がっているはずだった。
――ガチャッ。
ギルドの扉が開いた。
入ってきたのは――
とうやと、まりな。
二人とも、明らかに疲れていた。
とうやは目を細め、足取りもどこかおぼつかない。今にもその場で座り込んでしまいそうな様子だった。
「……眠……」
かすれた声で呟き、とうやは片手で目元をこすった。
昨夜からほとんど休めていない。
さすがに眠気が限界に近づいていた。
隣を歩くまりなも、珍しく少しだけ目を細めている。
普段なら疲れを表に出すことも少ない彼女だが、さすがに一晩中の張り込みは堪えたらしい。
「……同じ」
短く答えると、まりなは小さく息を吐いた。
昨夜。
二人は事件現場で張り込みを続けた。
しかし、結局、犯人らしき人物を見つけることはできなかった。
見つかったのは――
謎の足跡。
そして。
「ポンポコ」という、意味不明な音。
とうやはふらふらと歩きながら、昨夜のことを思い返すように呟いた。
「結局、足跡だけとか」
「うん」
まりなは淡々と頷いた。
「しかも途中で消えるか?」
とうやは眉間にしわを寄せた。
普通に考えれば、足跡が途中で途切れることなど、そうそうあるものではない。
少なくとも、昨夜の二人には納得できる説明が思い浮かばなかった。
「……普通じゃない」
まりなも同意するように頷いた。
「だよな」
とうやは大きな欠伸が出そうになるのを、どうにか噛み殺した。
口元を手で覆い、目尻に浮かんだ涙を指先で拭う。
「せめて犯人くらい出てきてくれや」
「……出てきたら危ない」
まりなは眠気の残る顔で、至極もっともなことを言った。
とうやは一瞬だけ彼女を見つめた。
「ほんそれw」
自分で言っておきながら、犯人に出てこられても困る。
そんなことを考えつつ、二人は受付カウンターへと向かった。
受付嬢が気配に気づき、顔を上げる。
そして――
一瞬、固まった。
「……」
受付嬢は、とうやとまりなを交互に見た。
二人の顔には、隠しようのない疲労が浮かんでいる。
特にとうやは、普段の気の抜けた雰囲気に眠気まで加わり、今にも倒れそうだった。
受付嬢は心配そうに眉を下げた。
「……お帰りなさい」
とうやは、力なく片手を上げた。
「ただいま」
「張り込み……どうでした?」
受付嬢は二人の様子を気にしながら、恐る恐る尋ねた。
とうやは少しだけ考え込んだ。
成果があったかと聞かれれば、正直なところ、あったとは言い難い。
「何も」
そう答えてから、とうやはふと思い出したように顔を上げた。
「……いや、正確には変な音と足跡」
受付嬢の表情が変わった。
「……変な音?」
「ポンポコってやつ」
「……」
受付嬢は、ぴたりと黙り込んだ。
先ほどまでの心配そうな表情とは、どこか違う。
何かを考えているような、あるいは言うべきか迷っているような顔だった。
まりなはその変化を見逃さなかった。
「どうしたの?」
受付嬢はすぐには答えなかった。
カウンターの向こうで一度視線を落とし、周囲に聞かれないようにするかのように声を潜める。
そして――
机の下から一枚の資料を取り出した。
「実は……」
とうやは資料に目を向けた。
「?」
受付嬢は、その紙をカウンターの上に置いた。
そして、二人の顔を見ながら静かに告げた。
「新しい行方不明者が出ました」
とうやの表情から、眠気が少しだけ消えた。
「……また?」
思わず声が低くなる。
まりなも資料へと視線を落とした。
「……」
受付嬢は小さく頷いた。
「今朝、家族から届け出がありました」
とうやは資料に目を落としたまま尋ねた。
「場所は?」
「昨日の事件現場から――それほど離れていません」
「……」
とうやは黙った。
胸の奥に、嫌な予感がじわりと広がっていく。
昨夜、足跡を追いかけた先で見つけたもの。
途中で途切れた、奇妙な痕跡。
そして、あの不可解な音。
それらが、頭の中で一つにつながりかけていた。
まだ、確かなことは何も分からない。
それでも――
嫌な予感だけは、はっきりと胸に残っていた。
* * *
――街中。
警察車両が何台も停まっていた。
ウゥゥゥ……。
サイレンの音が、街の空気を震わせる。
現場の周囲には規制線が張られ、その向こう側には、またしても大勢の人々が集まっていた。
誰もが不安そうな顔をしている。
警察官の動きを気にする者。
周囲の人々と小声で話し合う者。
何が起きたのか分からず、ただ立ち尽くす者。
「またか……」
誰かが、重苦しい声で呟いた。
「怖すぎるだろ……」
「この街、どうなってるんだ?」
「昨日も戻ってきた人がいたんだろ?」
「じゃあ、また誰か消えたってことか?」
不安と恐怖が、人々の間に広がっていく。
その中を――
とうやとまりなが歩いてきた。
とうやは周囲を見回し、集まった人々の多さに顔をしかめた。
「……人、多いな」
まりなは、人々の表情を見ながら静かに答えた。
「それだけ怖がってる」
「そりゃそうだよな……」
とうやも、これだけ騒ぎが大きくなれば当然だろうと思った。
行方不明者が相次いでいる。
しかも、これまでの事件には不可解な共通点があった。
誰だって不安になるはずだ。
二人は警察官の誘導に従い、規制線の内側へと入った。
すると、一人の警察官がこちらに気づき、近づいてきた。
「ギルドから来た冒険者か?」
とうやが頷く。
「はい」
まりなも警察官を見上げ、すぐに尋ねた。
「何か分かりました?」
警察官は難しい顔をしたまま、首を横に振った。
「今のところ何も」
「目撃者は?」
「いない」
「監視カメラは?」
まりなが続けて尋ねる。
警察官は少し苦い顔をした。
答えは分かっている。
それでも、口にするのは気が進まない――そんな様子だった。
「それも――」
一度言葉を切り、首を横に振る。
「何も映っていない」
とうやの顔が曇った。
「……またか」
これまでと同じ。
人が消える。
痕跡がない。
監視カメラにも何も残らない。
そして――
一週間後に戻ってくる。
戻ってきた者たちは、決まって意味不明な言葉を口にする。
「ポンポコ」と。
とうやは昨夜の足跡を思い出し、無意識に周囲へ視線を走らせた。
何か見落としていないか。
何か、手がかりになるものはないか。
しかし、今のところ目に入るのは、警察官と野次馬、そして規制線に囲まれた現場だけだった。
何かがおかしい。
明らかに。
* * *
その時だった。
遠くから叫び声が響いた。
「いたぞ!!」
「!」
とうやが勢いよく振り向いた。
まりなも同時に顔を上げる。
周囲の人々が、一斉に声のした方向へと走り出した。
「こっちだ!」
「見つかったぞ!」
「本当か!?」
ざわめきが大きくなり、人の流れが一気に変わる。
とうやとまりなも、すぐさま走り出した。
「まりな!」
「うん!」
二人は人の流れを追い、狭い道を駆け抜けていく。
そして――
路地裏。
そこには、大勢の人が集まっていた。
警察官たちが周囲を囲み、人々が少し距離を取って中央を見つめている。
誰もが、何かを確かめようとするように、その一点へ視線を向けていた。
人だかりの中央。
その中心に――
一人の人物が立っていた。
とうやの足が止まった。
「……!」
まりなも目を見開く。
「……」
行方不明者だった。
探していた人物。
確かに――
そこに立っている。
服は大きく破れていない。
身体にも、目立った外傷は見当たらない。
顔にも、ぱっと見て分かるような傷はなかった。
一見すれば――
無事に帰ってきた。
そう見える。
周囲の人々にも、安堵したような表情を浮かべる者がいた。
しかし。
「……」
とうやは、その人物の顔をじっと見つめた。
そして、あることに気づいた。
――目。
目だけが――
完全に死んでいた。
何も映していない。
目の前に人が集まっていることも、警察官に囲まれていることも、まるで理解していないかのようだった。
視線は定まっているようで、どこも見ていない。
そこに意思があるのかさえ、分からない。
まるで、そこに人間が立っているのではなく。
ただ「人の形をした何か」が置かれているような――
そんな不気味さがあった。
とうやは眉を寄せた。
一歩、近づこうとする。
「……おい」
その瞬間。
警察官が素早く腕を伸ばした。
「待て!」
とうやの足が止まる。
「?」
警察官は、行方不明者から目を離さないまま告げた。
「まだ何があるか分からない」
「……」
とうやは警察官の言葉を受け、渋々その場にとどまった。
確かに、何が起きるか分からない。
相手が無事に見えるからといって、安易に近づくべきではないだろう。
すると――
行方不明者が、ゆっくりと顔を上げた。
「…………」
その視線が、とうやのほうへと向けられる。
とうやと目が合った。
「……」
とうやは無言のまま、その目を見返した。
まりなも、隣でじっと見つめている。
行方不明者の顔には、何の感情も浮かんでいなかった。
恐怖も、安堵も、困惑もない。
ただ、空っぽだった。
そして――
その人物の口が動いた。
「……ポンポコ」
「……!」
とうやの表情が変わった。
昨夜、暗い路地裏で聞いた音。
あの、意味の分からない音。
「ポンポコ……」
周囲がざわつき始める。
「まただ……」
「同じだ……」
「何なんだよ……」
「怖い……」
人々の間に、再び不安が広がっていく。
中には、思わず後ずさる者もいた。
行方不明者は、そんな周囲の反応を気にする様子もなく、同じ言葉を繰り返す。
「ポンポコ……」
「ポンポコ……」
「ポンポコ……」
とうやは眉を寄せた。
「……」
どうして、同じ言葉を繰り返すのか。
なぜ、一週間も行方不明になっていた人間が、何事もなかったかのような姿で戻ってきて、こんな言葉を口にするのか。
分からないことだらけだった。
すると。
その人物の口元が――
わずかに歪んだ。
「……ふふ」
「……?」
とうやは目を細めた。
今、笑ったのか?
そう思った次の瞬間。
行方不明者は、突然笑い始めた。
「ふふ……」
「ポンポコ……」
「ポンポコ……」
口元だけが、不自然に歪んでいる。
それなのに、目は相変わらず何も映していなかった。
笑っているはずなのに、楽しそうには見えない。
むしろ、その笑い声が人間らしさを感じさせないぶん、余計に不気味だった。
「……」
とうやの背筋に、嫌な感覚が走った。
思わず、口から言葉が漏れる。
「……やめろ」
自分でも、なぜそんな言葉が出たのか分からなかった。
ただ、その笑い声を聞いているのが嫌だった。
まりなが、とうやの顔を見上げた。
「……怖い?」
とうやは少し黙った。
強がる気にもなれなかった。
やがて、正直に答える。
「こえぇよ」
「……」
「普通にホラーだ」
とうやは眉間にしわを寄せたまま、行方不明者を見つめ続けていた。
できることなら、今すぐこの場から離れたい。
だが――
とうやは目を逸らさなかった。
この異常な現象を、見なかったことにはできない。
そして、ここまで来た以上、何か手がかりをつかみたかった。
「でも――」
まりながとうやを見る。
とうやは視線を動かさず、低い声で続けた。
「何かがおかしい」
まりなも、行方不明者の様子をもう一度じっくりと観察した。
そして、小さく頷く。
「……うん」
二人の間に、短い沈黙が流れた。
目の前にいるのは、確かに行方不明になっていた人物のはずだ。
それなのに――
本当に、本人なのだろうか。
そんな疑問が、二人の胸に残っていた。
* * *
――ギルド。
戻ってきたとうやとまりな。
受付カウンターの周囲には、何人もの職員が集まっていた。
机の上には事件資料が並べられ、職員たちはそれぞれの資料を確認しながら情報を整理している。
普段なら冒険者たちの声で賑わう場所も、今はどこか張り詰めた空気に包まれていた。
とうやは机の上の資料に目を向けた。
「これで何人目?」
受付嬢は手元の資料を確認しながら答えた。
「確認されているだけでも――複数人です」
「……」
とうやは腕を組んだ。
まだ全容が分かっていない。
それでも、これが一度きりの事件ではないことだけは明らかだった。
まりなも資料に目を落とす。
記録された日時や行方不明になった場所を、一つずつ確認していく。
「全員、一週間」
「はい」
受付嬢が頷いた。
「誘拐されてから約一週間」
まりなは資料から顔を上げた。
「そして戻ってくる」
「必ず――」
受付嬢はそこで言葉を切った。
そして、周囲の職員にも聞こえるように、慎重に声を落とした。
「『ポンポコ』と言いながら」
「……」
とうやは黙った。
目の前で繰り返された光景が、頭の中によみがえる。
空っぽの目。
不自然な笑い声。
そして、何度も繰り返される「ポンポコ」という言葉。
とうやは今までの情報を一つずつ整理するように、指を立てていった。
「誘拐される」
一本目。
「一週間後に戻る」
二本目。
「監視カメラには何も映らない」
三本目。
そして、もう一つ。
「足跡が途中で消える」
とうやは立てていた指を下ろした。
そして、言いにくそうに続けた。
「戻ってきた人間は……」
まりなが、静かに言葉を引き継いだ。
「……別人みたい」
とうやは頷いた。
「そう」
資料を見つめたまま、しばらく考え込む。
共通点は見えてきた。
しかし、事件の核心にはまだ届いていない。
問題は――
とうやは顔を上げた。
「どこに連れていかれてるのか」
その瞬間。
――ガチャッ!
ギルドの扉が勢いよく開いた。
「受付嬢さん!!」
一人の冒険者が駆け込んできた。
息を切らし、肩を大きく上下させている。
その慌てた様子に、受付嬢が驚いて顔を上げた。
「どうしました!?」
冒険者はすぐには答えられず、何度か息を整えた。
そして、ようやく声を上げる。
「新しい情報だ!」
「新しい情報?」
とうやが顔を上げた。
まりなも、冒険者へ視線を向ける。
冒険者は大きく息を吸った。
そして――
「昨日の夜!」
その声に、周囲の職員たちも一斉に顔を上げた。
「事件現場の近くで――」
冒険者は一拍置いた。
「黒い車を見た人がいる!」
とうやの目つきが変わった。
「……!」
まりなも黙って冒険者を見つめる。
「黒い車?」
「ああ!」
冒険者は力強く頷いた。
しかし、すぐに表情を曇らせる。
「ただ――」
「ただ?」
とうやが先を促す。
冒険者は少し言葉を詰まらせた。
せっかくの情報だが、分かっていることは限られている。
「運転していた男の顔までは分からなかった」
とうやは眉を寄せた。
「顔は?」
「……」
冒険者は記憶を辿るように、少しだけ視線を上に向けた。
そして、何かを思い出したように口を開く。
「でも――」
一度言葉を切り、はっきりと告げた。
「スーツを着ていた」
「……スーツ」
とうやが呟いた。
まりなも黙って考え込む。
黒い車。
夜。
事件現場。
スーツ姿の男。
しかし――
顔は分からない。
それだけでは、犯人だと断定することはできない。
まだ、それだけだった。
とうやは腕を組み直し、資料へと視線を戻した。
新しい手がかりは得られた。
だが、それが事件の核心につながるのかは分からない。
それでも――
何も分からなかった昨夜よりは、一歩前進したのかもしれなかった。
* * *
――その頃。
街の郊外。
東の空が、ほんのわずかに白み始めていた。
夜の名残が残る道路を、一台の黒い車が走っていた。
ブロロロ……。
エンジン音を響かせながら、車は一定の速度で進んでいく。
車内。
運転席には――
一人の男。
そして、そのほかにも数人の人影があった。
男の髪は白い。
綺麗に整えられた――
オールバック。
身にまとっているのは、仕立てのよさそうな黒いスーツだった。
男は何も言わない。
ハンドルを握り、ただ静かに前を見つめている。
車内には、会話らしい会話もなかった。
やがて、前方の信号が赤に変わる。
男は滑らかにブレーキを踏み、車を停止させた。
街灯の光が、窓越しに男の顔を一瞬だけ照らす。
整った顔立ち。
穏やかな表情。
落ち着いた雰囲気。
一見すれば――
どこにでもいる、普通の男。
しかし。
次の瞬間。
男の口元が――
ほんのわずかに上がった。
ニヤ……。
その笑みは、あまりにも小さかった。
気づかない者なら、見逃してしまうほどに。
男は何も語らない。
ただ、前方の信号を見つめていた。
やがて――
信号が青になる。
男は再びアクセルを踏んだ。
黒い車は、何事もなかったかのように走り出す。
そして、その姿は――
朝を迎えようとしている街の中へと消えていった。
――続く。




