第1部 第6話「張り込み」
――深夜。
街は、静まり返っていた。
昼間は人で溢れていた大通りも、今はほとんど人影がない。
店の明かりは一つ、また一つと消えていき、道路を走る車もまばらになっていた。
聞こえるのは――
遠くを走る車の音。
風が建物の隙間を抜けていく音。
そして、一定の間隔で鳴る信号機の電子音。
街灯だけが、誰もいない道路をぼんやりと照らしていた。
その一角。
建物の陰に――
とうやがいた。
「…………」
座っている。
ひたすら座っている。
壁に背中を預け、片膝を立てた姿勢のまま、視線だけを道路へ向けていた。
時折、通行人がいないか確認するように目を動かすものの、特に変わった様子はない。
数分。
さらに数分。
そして、数十分が過ぎていった。
とうやはとうとう耐えきれなくなったのか、深いため息をついた。
「……暇やねん」
ぼそりと漏らした声が、夜の静けさに妙に響いた。
その隣では――
まりなが立っていた。
背筋を伸ばし、周囲を警戒しながら静かに道路を見つめている。
とうやとは対照的に、退屈そうな様子は微塵もない。
「……静か」
まりなは周囲を見回しながら、ぽつりと呟いた。
「それが不気味なんですよ」
とうやは壁にもたれたまま、気の抜けた声で返した。
「張り込みだから」
「はい」
あまりにも正論だった。
とうやは反論する気力もなく、素直に頷いた。
そのまま腕時計に目を落とす。
針の位置を確認した彼は、思わず眉をひそめた。
「……まだこんな時間かよ」
時計を見たところで、時間が早く進むわけではない。
そんなことは分かっている。
分かっているのだが――それでも確認せずにはいられなかった。
まりなは何も言わない。
ただ、前方の道路に視線を戻していた。
とうやも再び道路を見る。
誰も来ない。
何も起きない。
事件の気配すらない。
しばらくして、とうやは隣のまりなに顔を向けた。
「……なぁ」
「何?」
まりなは視線を道路に向けたまま答える。
「こういう時ってさ」
「うん」
「普通、刑事とかなら張り込み中に何か食べたりするじゃん?」
そこでようやく、まりながとうやのほうを見た。
不思議そうに小首を傾げている。
「……?」
「腹減らね?」
とうやは自分のお腹に手を当てた。
張り込みを始めてから、それなりの時間が経っている。
そろそろ何か食べてもいい頃ではないだろうか。
少なくとも、とうやはそう考えていた。
「今?」
「なんか食いたい」
とうやは真剣な顔で訴えた。
事件の捜査よりも、今は食欲のほうが重要らしい。
まりなは一瞬だけ考えるように黙り込んだ。
そして――
「……事件中」
「ですよね」
とうやは即座に引き下がった。
あまりにもあっさりした返事だった。
まりなは再び道路へ視線を戻す。
とうやは少しの間、何かを考えるように黙っていたが、やがて小さな声で呟いた。
「……コンビニ行きたい」
「ダメ」
間髪入れずに返ってきた。
「ですよね」
とうやは今度も素直に頷いた。
こうして、彼のささやかな希望はあっけなく打ち砕かれたのだった。
* * *
――さらに一時間後。
「…………」
とうやは、完全に暇を持て余していた。
壁にもたれかかり、半分ほど力の抜けた姿勢でぼんやりと道路を眺めている。
さっきから、目立った変化は何一つない。
車が一台通り過ぎる。
信号が変わる。
風が吹く。
それだけだった。
「…………」
隣では、まりなが相変わらず周囲を警戒している。
彼女は一度もスマートフォンを触っていなかった。
眠そうな様子もない。
足を組み替えたり、意味もなく歩き回ったりすることもない。
ただひたすら――
何かが来るのを待っている。
とうやはそんなまりなを横目で見てから、自分のポケットに手を入れた。
「……」
ゴソゴソ。
何かを探るようにポケットの中をまさぐる。
やがて、彼の手が一つの物をつかんだ。
取り出されたのは――
一台の携帯ゲーム機だった。
まりなが横目でそれを見た。
「……それ何?」
とうやはゲーム機を手の中で軽く持ち上げた。
「Switch」
「……ゲーム?」
「そう」
まりなはゲーム機ととうやの顔を交互に見た。
そして、わずかに眉を寄せる。
「今やるの?」
「だって暇だし」
とうやは、さも当然といった顔で答えた。
本人の中では、十分に合理的な判断らしい。
まりなの視線が、ゲーム機に突き刺さった。
とうやはその視線に気づくと、慌てて付け加えた。
「音は出さんから」
「……」
「画面も暗くする」
「……」
「ちょっとだけ」
とうやはゲーム機を握ったまま、まりなの顔色をうかがった。
ほんの少しくらいなら許してくれないだろうか。
そんな淡い期待を込めた視線だったが――
「……ダメ」
まりなの返事は変わらなかった。
とうやは数秒間、無言で彼女を見つめた。
やがて、諦めたように肩を落とす。
「ですよね」
ゲーム機をポケットにしまい、何事もなかったかのように再び道路へ視線を向けた。
「……」
「……」
二人の間に沈黙が戻る。
数分。
「……」
まりなは周囲を見る。
「……」
とうやも道路を見る。
「……」
「……」
時折、信号機の電子音が二人の沈黙を埋める。
しかし、それもすぐに途切れ、再び静寂が訪れた。
とうやはとうとう我慢できなくなったらしい。
「……なぁ」
「何?」
まりなはすぐに返事をした。
「あと何時間?」
「分からない」
「……」
即答だった。
とうやは天を仰ぐように顔を上げた。
夜空には、いくつかの星が見えている。
このまま何も起きなければ、いずれ朝になるだろう。
だが、そこまで待ち続けることを考えると、気が遠くなりそうだった。
「俺、シンプルにダンジョン行きたい」
ぽつりと漏らしたとうやの言葉に、まりなが首を傾げた。
「……どうして?」
とうやは間髪入れずに答えた。
「モンスターのが気楽だから」
「……」
まりなは黙った。
とうやは気にせず続ける。
「ここ、なんも出てこんのよ」
道路を見つめたまま、ぼやくように呟く。
「なんも無いことが辛いとか」
「……」
まりなは少しだけ考え込んだ。
とうやの言いたいことは、分からなくもない。
ただ、今は事件の手がかりを探すためにここにいるのだ。
そして、何も起きていないということは――少なくとも、今この場所で新たな事件が起きているわけではない、ということでもある。
まりなはとうやに顔を向けた。
「……とうや」
「ん?」
「事件を探しに来てるんだから、暇なのはいいことだと思う」
「……」
とうやは口を閉じた。
言い返そうとしたのか、少しだけ口を開きかける。
しかし、すぐにその口を閉じた。
正論だった。
あまりにも正論だった。
自分から事件を探しに来ておいて、何も起きないことに文句を言っているのだから、反論のしようがない。
「……あ〜……そうだな」
とうやは観念したように頷いた。
そして、再び壁にもたれかかった。
今度こそ大人しく待つつもり――なのかもしれない。
* * *
――午前二時。
街は、さらに静かになっていた。
遠くを走る車の音も、先ほどより少なくなっている。
とうやの目は、半分ほど閉じかけていた。
「…………」
まりなが隣から視線を向ける。
「寝ないで」
「寝てないよー」
とうやは目を閉じかけたまま、気の抜けた声で答えた。
「目を閉じてる」
「目を休ませてるだけー」
「それを寝るって言う」
「……」
とうやは返事をしなかった。
どうやら、言い返す気力もなくなってきたらしい。
まりなはじっと彼の顔を見つめた。
「……」
「……」
しばらくして、まりなが名前を呼んだ。
「とうや」
「はい」
とうやは反射的に返事をした。
その声だけは、妙にしっかりしていた。
まりなは少しだけ目を細めた。
「……」
「ほら」
とうやはパッと目を開き、背筋を伸ばした。
「ちゃんと起きてる」
言いながら、彼は自分の頬を軽く叩いた。
眠気を追い払うためだろう。
まりなはそんなとうやを見つめたあと、再び前を向いた。
「……」
「……」
「ならいい」
「……」
とうやは少しだけ姿勢を正した。
そのまま、何とか意識を保とうと道路を見つめ続ける。
しかし――
時間は、相変わらずゆっくりとしか進まなかった。
* * *
――午前四時。
何も起きない。
事件の気配もない。
犯人らしき人物も現れない。
とうやは、とうとう完全に壁にもたれかかっていた。
頭が少し傾き、腕もだらりと下がっている。
ここまで来ると、張り込みをしているというより、壁と一体化しているようだった。
「……」
まりなは相変わらず立っている。
周囲への警戒を怠ることなく、静かに道路を見つめていた。
「……」
とうやは腕時計を確認した。
午前四時。
針の位置を見た瞬間、とうやの表情がさらに曇った。
もうすぐ夜が明ける。
ここまで待って、何も起きなかったのだ。
さすがに、そろそろ帰りたい。
とうやは隣のまりなに視線を向けた。
「……なぁ、まりな」
「ん?」
まりなは顔だけをとうやに向けた。
「もしさ」
「うん」
「このまま朝になったらどうする?」
まりなは少しも迷わなかった。
「帰る」
「だよな」
とうやは思わず苦笑した。
「俺もそうしたい」
二人の間に、短い沈黙が流れた。
風が吹く。
ヒュウ……。
建物の隙間を抜けた風が、二人のそばを通り過ぎていった。
とうやは目を細め、首をすくめた。
さすがに、夜明け前の空気は冷たい。
まりなも、風の吹いてきた方向へ一瞬だけ視線を向けた。
そして――
何かを感じ取ったかのように、突然顔を上げた。
「……とうや」
「?」
とうやは彼女の声に反応し、顔を向けた。
まりなはじっと前方を見つめている。
「今」
「うん」
「何か聞こえなかった?」
その問いかけに、とうやの表情が変わった。
眠気の残る顔から、少しずつ気の抜けた雰囲気が消えていく。
彼は何も言わず、耳を澄ませた。
「…………」
風の音。
遠くを走る車の音。
どこかの建物から聞こえる機械音。
いつもと変わらない、夜明け前の街の音。
そして――
「……」
ポン。
「……」
とうやの眉が、ぴくりと動いた。
まりなも動かない。
二人とも、今の音を聞き逃すまいと耳を澄ませていた。
「ポン……」
「……」
ポコ……。
「…………」
とうやの顔から、眠気が完全に消えた。
先ほどまでの気の抜けた姿勢が嘘のように、目が鋭くなる。
「……今の」
まりなは小さく頷いた。
「聞こえた」
ポンポコ……。
今度は――
はっきりと聞こえた。
間違いない。
何かが、音を立てている。
とうやはゆっくりと立ち上がった。
壁から背中を離し、音の聞こえてきた方向へ視線を向ける。
「……あっちだ」
まりなも頷いた。
「うん」
先ほどまでの退屈な時間が、一瞬にして過去のものになった。
とうやとまりなは、ほぼ同時に走り出した。
* * *
――路地裏。
ポン……。
ポコ……。
音は、確かに聞こえていた。
とうやは走りながら、周囲に目を配った。
狭い路地。
建物の壁。
積み上げられた荷物。
街灯の届かない暗がり。
音の正体を探そうと視線を動かすが、それらしい姿は見当たらない。
「どこだ……!」
とうやは足を止めることなく、声を低くして呟いた。
まりなも後ろを確認しながら、音の聞こえる方向を探っていた。
「まだ聞こえる」
ポンポコ……。
音は近い。
二人は角を曲がった。
――その瞬間。
音が止まった。
「…………」
とうやが足を止めた。
靴底が地面を擦り、わずかな音を立てる。
まりなもその場で立ち止まった。
「…………」
静寂。
先ほどまで確かに聞こえていた音が、嘘のように消えていた。
とうやはゆっくりと周囲を見回した。
建物の陰。
路地の奥。
自分たちが走ってきた方向。
どこにも、それらしい姿はない。
「……消えた?」
とうやが小さく呟いた。
まりなは答えなかった。
その代わり、視線をゆっくりと足元へ落とした。
「……」
とうやも彼女の視線を追う。
そこには。
地面に残された――
奇妙な足跡があった。
「……これ」
まりなが小さく声を漏らした。
とうやもしゃがみ込み、足跡を確かめる。
「……足跡?」
「うん」
まりなは頷いた。
街灯の光が、地面を斜めに照らしている。
その明かりの中に、確かに何かが歩いた痕跡が残されていた。
だが――
何かがおかしい。
少なくとも、二人が普段見慣れている足跡とは、どこか違っているように思えた。
とうやは足跡を見つめたまま、しばらく黙っていた。
やがて、ゆっくりと立ち上がる。
先ほどまでの眠そうな様子は、もうどこにもなかった。
「……追うぞ」
まりなは短く頷いた。
「うん」
二人は足跡を追い始めた。
一つ。
また一つ。
足跡は路地を進んでいく。
とうやは周囲への警戒を続けながら、一歩ずつ慎重に進んだ。
まりなもまた、足跡と周囲の様子を交互に確認している。
「……」
「……」
二人とも無言だった。
さっきまでの張り込みとは違う。
退屈だとぼやき、ゲームをしようとし、ダンジョンに行きたいと愚痴をこぼしていた時間とは、明らかに違っていた。
今度は――
本当に何かがいる。
そう思わせる痕跡が、目の前にある。
そして。
数十メートル先。
「……」
とうやが足を止めた。
視線の先を見つめたまま、動かない。
「……」
まりなも止まった。
二人の視線が、同じ場所へと向けられる。
足跡が――
途切れていた。
「…………」
静まり返った路地裏に、風の音だけが流れていた。
その先には、何もない。
少なくとも、目に見える範囲には。
とうやは足跡が途切れた場所を見つめながら、眉をひそめた。
まりなも、黙ったまま周囲を警戒している。
一体、何がここを歩いていたのか。
そして――
どこへ消えたのか。
二人には、まだ分からなかった。
――続く。




