第1部 第5話「ポンポコポンポコ」
――翌日。
朝。
街には、いつも通りの光景が広がっていた。
人々が通勤や通学のために歩き、店のシャッターが次々と開いていく。車が道路を走り、交差点の信号が赤から青へと変わる。
コンビニの前では、学生たちが楽しそうに談笑していた。
どこにでもある、何の変哲もない朝。
いつも通りの日常。
――しかし。
街の一角だけは、その日常から切り離されたかのような異様な空気に包まれていた。
ウゥゥゥ……。
道路脇には、何台もの警察車両が停まっている。
赤色灯が回転し、周囲には規制線が張られていた。その向こう側には、何事かと集まってきた野次馬たちが、不安そうな顔で現場を見つめている。
「……またなのか?」
野次馬の一人が、眉をひそめながら呟いた。
「昨日も何かあっただろ?」
隣にいた男が、警察車両の数を数えるように視線を動かす。
「一体、何人目だよ……」
「怖いな……。犯人、まだ捕まってないんだろ?」
小さな声で交わされる会話。
誰もが不安を感じていた。
だが、その不安を解消できるだけの情報は、どこにもなかった。
犯人を見た者はいない。
原因を知る者もいない。
ただ――人が消えている。
それだけが、確かな事実だった。
そして。
その不可解な事件について調査を進めている場所の一つ――冒険者ギルド。
* * *
「……で?」
受付カウンターの前。
とうやは腕を組み、心底面倒くさそうな顔で、カウンターに並べられた資料を眺めていた。
机の上には、何枚もの書類が広げられている。
行方不明者の情報。
発生日時。
最後に目撃された場所。
関係者の証言。
どれも事件を解決するためには重要な資料なのだろう。
しかし、とうやの顔には、どう見てもやる気というものが感じられなかった。
受付嬢さんはそんなとうやの様子を見ながらも、手元の資料を一枚ずつ整理し、淡々と説明を続けていた。
「はい。現在、確認されているだけでも、複数の誘拐事件が発生しています」
「昨日言ってたやつな〜」
とうやは片手で頬杖をつきながら、気の抜けた返事をした。
話は聞いている。
聞いてはいるのだが、できることなら今すぐ別の話題に切り替えたい。
そんな本音が、顔に思い切り出ていた。
「そうです」
受付嬢さんは苦笑しつつ、資料の一枚をとうやの前に差し出した。
とうやは仕方なく姿勢を正し、その書類を手に取る。
そこには、行方不明になった人物の情報が記載されていた。
年齢も違う。
性別も違う。
職業も違う。
住んでいる場所も違う。
とうやは一通り目を通すと、眉間にしわを寄せた。
「……共通点ないじゃん」
「はい」
受付嬢さんも困ったように頷く。
「犯人の目撃情報は?」
「ありません」
「監視カメラは?」
「不審な人物は映っていません」
「……おいおい……完全犯罪やん」
とうやは資料を持ったまま、天井を仰いだ。
「いや、マジで何なんだよ。人が消えてんのに、犯人の姿も分からないって……」
「だから困っているんです」
受付嬢さんは苦笑を浮かべながらも、困惑を隠せない様子だった。
いくら調査を進めても、決定的な手掛かりが見つからない。
通常の事件とは、明らかに何かが違う。
それが分かっているからこそ、ギルド側も頭を悩ませているのだ。
一方、とうやは資料を机に戻すと、わざとらしく両手を合わせた。
「ダンジョンに潜らせてください……」
「はい?」
「だって、そっちのほうが単純で気楽だからぁ……」
とうやは遠い目をしながら、心の底から訴えた。
モンスターなら姿がある。
足跡も残る。
攻撃方法も分かる。
倒せば終わる。
少なくとも、相手が何なのか分からないまま追いかけ続けるよりは、よほど分かりやすい。
「それはできない相談ですw」
受付嬢さんは、にっこりと笑った。
「……」
とうやの顔から、わずかに残っていた希望が消えた。
「そんなぁ……」
「今回の件は、冒険者ギルドとしても放置できませんからね」
「いや、それは分かるけどさぁ……」
とうやは頭をかきながら、深いため息をついた。
「……嫌な事件だわ」
ぽつりと漏らしたその言葉には、先ほどまでのふざけた調子はなかった。
何が起きているのか分からない。
誰が狙われているのかも分からない。
そして、消えた人々がどうなっているのかも分からない。
とうやは改めて資料に視線を落とした。
――そのときだった。
ガチャ。
ギルドの扉が開く音がした。
とうやは何気なく顔を上げる。
「あ」
入口に立っていた人物を見て、短く声を漏らした。
入ってきたのは――まりなだった。
いつも通りの静かな表情。
黒い短い髪が、歩くたびにわずかに揺れている。
まりなはギルド内を軽く見回すと、とうやの姿を見つけ、そちらへと歩いてきた。
そして、とうやの前で足を止める。
「……とうや」
「おっす」
とうやは片手を軽く上げて挨拶した。
まりなは小さく頷き、それから机の上に広げられた資料へと目を向けた。
いつもと違う雰囲気に気づいたのだろう。
わずかに首を傾げ、受付嬢さんを見る。
「何かあった?」
とうやは受付嬢さんが答えるより先に、資料を指でトントンと叩いた。
「誘拐事件な」
「……誘拐?」
まりなの表情が、ほんの少し変化した。
普段はあまり感情を表に出さない彼女だが、その言葉には反応せずにはいられなかったらしい。
「はい」
受付嬢さんは頷き、先ほどまでの説明を続けようとした。
しかし、すぐに何かを思い出したように手元の資料へ視線を落とす。
「実は……今までとは違う情報が入っています」
とうやは嫌な予感を覚えたのか、眉をひそめた。
「まだあんの?」
「はい……」
受付嬢さんの声が、わずかに沈む。
「被害者の一人が――」
――その瞬間。
ギルドの外から、誰かの大きな声が響いた。
「戻ってきたぞ!!」
「え?」
とうやは反射的に入口を振り返った。
まりなも同時に扉へ視線を向ける。
受付嬢さんは目を見開き、思わず椅子から立ち上がった。
「……戻ってきた?」
三人は顔を見合わせる。
そして、ほとんど同時にギルドの外へと駆け出した。
* * *
――街中。
人だかりができていた。
警察官。
野次馬。
ギルド関係者。
さまざまな人々が、一か所に集まっている。
その中心に――一人の女性が立っていた。
行方不明になっていた人物。
数日前から姿を消し、捜索が続けられていた女性だった。
「大丈夫ですか!?」
警察官の一人が、慎重に女性へと近づいた。
「どこにいたんですか!?」
「犯人は!?」
「何があったんですか!?」
周囲から次々と声が飛ぶ。
しかし――女性は答えなかった。
ただ、そこに立っている。
服装に大きな乱れはない。
目立った外傷も見当たらない。
一見すると、何事もなかったかのようにさえ見えた。
それなのに。
何かがおかしい。
とうやは人だかりの後方から女性を見つめ、わずかに目を細めた。
「……」
隣に立つまりなも、何も言わずに女性の様子を観察している。
受付嬢さんは三人の後ろから様子を窺い、息を呑んだ。
そして――女性の目を見た瞬間、顔が強張った。
虚ろだった。
焦点が合っていない。
目の前に大勢の人間がいるというのに、その存在を認識しているのかさえ分からない。
まるで、心だけがどこか遠くへ行ってしまったかのような目だった。
警察官も異変を感じたのか、声の調子を落とした。
「……あの。聞こえていますか?」
女性はゆっくりと顔を上げた。
その動きは妙にぎこちなく、まるで誰かに操られているかのようだった。
そして――口を開く。
「……ポンポコ」
「……え?」
警察官の表情が固まった。
周囲の人々も、何を言われたのか分からず、互いの顔を見合わせる。
女性はそんな反応を気にする様子もなく、もう一度呟いた。
「ポンポコ……」
「…………」
誰も答えられない。
女性は、さらに繰り返す。
「ポンポコ……」
「ポンポコ……」
「ポンポコ……」
同じ言葉。
同じ調子。
まるで、それ以外の言葉を忘れてしまったかのように。
先ほどまで騒がしかった周囲から、少しずつ音が消えていった。
誰かが口を閉じる。
別の誰かが息を呑む。
やがて、その場には女性の呟きだけが残った。
「ポンポコ……」
とうやは眉間にしわを寄せたまま、女性を見つめていた。
「……何だよ、これ」
声には、隠しきれない困惑が滲んでいる。
冗談を言えるような空気ではなかった。
ただの誘拐事件ではない。
少なくとも、普通の事件として片づけられるものではなさそうだった。
その隣で、まりなが小さく呟いた。
「……怖い」
とうやは、思わずまりなへ顔を向けた。
「……え?」
聞き間違いかと思った。
普段のまりななら、多少のことでは表情を変えない。
モンスターを前にしても冷静。
危険な状況でも、落ち着いて行動できる。
罠だらけの隠しダンジョンで宝箱を切り刻むほど怒ったことはあっても、恐怖を口にすることはほとんどなかった。
そんな彼女が――今は、明らかに不安そうな顔をしていた。
まりなは女性から目を離さないまま、小さく唇を結んでいる。
とうやは少しだけ声を落とした。
「……大丈夫か?」
まりなは一瞬だけとうやを見た。
それから、こくりと小さく頷く。
「ん」
短い返事。
しかし、すぐに女性へと視線を戻した。
「でも……嫌な感じがする」
とうやはしばらく黙っていた。
そして、もう一度女性を見る。
虚ろな目。
繰り返される言葉。
周囲を包む、異様な静けさ。
「……俺も」
とうやは小さく呟いた。
* * *
――冒険者ギルド。
しばらくして。
受付カウンターの奥では、受付嬢さんが資料を並べ直しながら、何度も内容を確認していた。
その表情は真剣そのものだった。
向かいの席には、とうやとまりなが座っている。
とうやは椅子の背もたれに体を預け、腕を組んでいた。
先ほどの光景が、まだ頭から離れない。
まりなも普段より口数が少なく、膝の上で両手をそっと握っていた。
受付嬢さんは資料を一枚取り出し、二人の前に置いた。
「……やはり」
「ん?」
とうやが顔を上げる。
受付嬢さんは書類の該当箇所を指で示した。
「過去の被害者にも、同じ症状があります」
「……は?」
とうやの眉がぴくりと動いた。
「全員?」
「はい」
受付嬢さんは、重々しく頷いた。
「これまでに戻ってきた方々も、皆さん同じ言葉を繰り返しているそうです」
とうやは口を半開きにしたまま、数秒ほど固まった。
「全員……ポンポコ?」
「そうです」
「…………」
とうやはゆっくりと顔を上げた。
「いや、何なの、それ……」
思わず本音が漏れる。
一人だけなら、何らかの事情があるのかもしれない。
しかし、複数の被害者が同じ状態で戻ってきている。
しかも、口にする言葉まで同じ。
偶然で片づけるには、あまりにも不自然だった。
まりなは机の上の資料へ視線を落としたまま、ぽつりと呟いた。
「……怖い」
その声は小さかった。
けれど、とうやにははっきりと聞こえた。
とうやは彼女の横顔を見たものの、かける言葉が見つからなかった。
怖いと思うのも無理はない。
むしろ、何も感じないほうがおかしいのかもしれない。
受付嬢さんは二人の様子を見てから、さらに一枚の資料を取り出した。
「それだけではありません」
とうやは、嫌な予感を隠すように眉をひそめた。
「……まだあるの?」
「はい」
受付嬢さんは資料を机に置き、指先で日付を示した。
「被害者が戻ってくるのは――」
一拍。
彼女は二人の顔を見渡し、はっきりと告げた。
「必ず、誘拐されてから約一週間後なんです」
「……一週間」
とうやの目が細くなった。
今までの話を頭の中で整理する。
誘拐される。
しばらく行方不明になる。
そして、約一週間後に戻ってくる。
だが、戻ってきた人々は、皆同じ言葉しか話せなくなっている。
「…………」
とうやは腕を組み直した。
まりなも資料を覗き込み、静かに考え込んでいる。
やがて、彼女が顔を上げた。
「つまり……」
「はい」
受付嬢さんが頷く。
「次の被害者が戻ってくる時期も、ある程度予測できます」
とうやは、はっとしたように顔を上げた。
「じゃあ、その場所を張れば――」
「犯人を見つけられる可能性があります」
受付嬢さんは、わずかに希望を感じさせる表情を浮かべた。
ここまで手掛かりが少なかった事件だ。
確実とは言えなくても、犯人に近づける可能性があるのなら、試す価値はある。
とうやは黙り込んだ。
数秒。
さらに数秒。
そして――。
「……俺がやるの?」
心底嫌そうな声だった。
受付嬢さんは、申し訳なさそうに微笑んだ。
「お願いできますか?」
「嫌だと言ってバク転しながら帰ったら?」
とうやは真顔で言った。
受付嬢さんは、にっこりと笑顔を深めた。
「ギルドから正式な依頼になりますw」
「…………」
とうやの顔が、ぴたりと止まった。
「……」(´・ω・`)
その表情には、言葉にできない絶望が浮かんでいた。
正式依頼。
つまり、断りづらい。
とうやはゆっくりと天井を見上げた。
「……うわぁ〜、蛾と蝶々が激しいバトルしてるよ〜」
現実逃避だった。
それも、かなり分かりやすい現実逃避だった。
受付嬢さんは苦笑し、まりなは隣からとうやの顔をじっと見つめていた。
しばらくして、まりなが小さく声をかける。
「とうや」
「ん?」
とうやは天井を見上げたまま返事をした。
「行こう」
その言葉に、とうやはゆっくりと顔を下ろした。
「……来るんかお前も?」
まりなは迷うことなく頷いた。
「うん」
「…………」
とうやは少しだけ驚いた。
危険があるかもしれない。
相手が何者なのかも分からない。
それでも、まりなは行くと言った。
彼女はまだ、先ほどの女性の様子を気にしているのだろう。
怖い。
けれど、放っておくこともできない。
そんな気持ちが、静かな表情の奥に見え隠れしていた。
とうやは小さく息を吐くと、困ったように笑った。
「……分かったよ」
「ん」
まりなは小さく頷いた。
受付嬢さんは、ほっとしたように肩の力を抜いた。
「ありがとうございます!」
「まあ……何か分かるかもしれないしな」
とうやはそう言いながら、机の上の資料を一枚手に取った。
先ほどまでの面倒くさそうな態度は、まだ完全には消えていない。
それでも、目つきは少しだけ真剣になっていた。
こうして。
とうやとまりなは、誘拐事件の現場で張り込みをすることになった。
* * *
――夜。
事件現場。
昼間の喧騒が嘘のように、街は静まり返っていた。
街灯が道路を照らし、建物の壁にぼんやりとした影を落としている。
昼間なら人通りの多い道も、今はまばらだった。
遠くから車の走る音が聞こえる。
風が吹き、街路樹の葉がかすかに揺れた。
とうやは物陰に腰を下ろし、壁に背中を預けていた。
「…………」
腕時計を見る。
カチ。
カチ。
カチ。
針はゆっくりと進んでいる。
しかし、事件が起きる気配はない。
とうやは小さく息を吐いた。
「……暇だ」
ぼそりと呟く。
当然、返事はない。
数分が過ぎた。
何も起きない。
さらに数分。
やはり、何も起きない。
とうやは道路の向こう側を眺めた。
人影はない。
不審な物音もない。
少なくとも、今のところは平和そのものだった。
「…………」
とうやはポケットからスマートフォンを取り出した。
画面を点灯させ、通知を確認する。
通知なし。
連絡なし。
事件なし。
「…………」
とうやは無言で画面を見つめた。
そして、少しだけ考えた。
「……ちょっとだけ」
誰に言い訳するでもなく呟くと、ゲームを起動した。
画面に表示されたゲームの世界は、いつも通りだった。
とうやは慣れた手つきで操作を始める。
タップ。
タップ。
タップ。
「…………」
指先が軽快に動く。
先ほどまでの退屈そうな表情が、ほんの少しだけ和らいでいた。
「お、いい感じ……」
小声で呟き、画面を操作する。
事件現場で張り込みをしている最中だというのに、すっかりゲームに集中しかけていた。
――さらに時間が過ぎる。
とうやは画面から目を離し、ふと周囲を見回した。
何も変わっていない。
人影もない。
異変もない。
とうやは再びスマートフォンに視線を戻した。
「……やっぱ暇だな」
張り込みとは、こうも退屈なものなのか。
いや、そもそも自分は張り込みに向いていないのではないか。
そんなことを考えながら、とうやは再びゲームを操作し始めた。
一方。
少し離れた場所では、まりなが一人で周囲を警戒していた。
「…………」
彼女はスマートフォンを見ていない。
ゲームもしていない。
ただ、静かに周囲を見続けていた。
街灯。
建物。
路地。
道路の向こう側。
風の動き。
人の気配。
一つ一つを確かめるように、視線をゆっくりと巡らせていく。
とうやとは対照的に、まりなの表情には緩みがなかった。
その手は、いつでも刀に触れられる位置に置かれている。
いつ何が起きても対応できるように。
「…………」
まりなは、ふと路地の奥へ視線を向けた。
暗がりの向こうには、何も見えない。
風が吹いているだけだ。
それでも――。
何かがいる。
そんな気がした。
けれど、何も見えない。
気配の正体も分からない。
まりなは小さく目を細め、しばらくその場所を見つめていた。
やがて、ゆっくりと視線を戻す。
「…………」
静かな夜。
何も起きない時間。
それなのに、胸の奥には嫌な予感が残り続けていた。
* * *
――深夜。
とうやは、何度目か分からないほど大きなあくびをした。
「ふぁぁ……」
口元を手で覆い、眠そうに目をこする。
さすがに、長時間の張り込みは堪えるらしい。
「……眠い」
とうやは壁に背中を預け直した。
少しだけ休もう。
ほんの少しだけ目を閉じれば、眠気も収まるだろう。
そんな甘い考えが、頭の中をよぎった。
とうやのまぶたが、ゆっくりと下がっていく。
「…………」
そして――。
とうやは、今にも眠りに落ちそうになっていた。
――続く。




