鏡合わせの双子
秋の訪れを告げる風が、学院の片隅にひっそりと佇む旧庭園を吹き抜けていく。黄金色に色づき始めた木々の隙間から、柔らかな陽光がチェスの盤面のような影を地面に落としていた。
ルナリアは使い古された石造りのベンチに腰を下ろし、膝の上の魔導書に視線を落としていた。レグナードの講義が終わるまでの、穏やかで贅沢な待ち時間。
カサリ、と乾いた落ち葉を踏む音が静寂を破った。
「……ルナ」
懐かしくもどこか震えるその声に、ルナリアがゆっくりと顔を上げる。
「ごきげんよう、お姉様……いいえ、ソレイア王太子殿下」
微笑むルナリアに対し、ソレイアは一瞬だけ痛みに耐えるように目を伏せた。彼女の傍らには、守護騎士であり配偶者のカイゼルが影のように寄り添っている。ソレイアが視線で合図を送るとカイゼルは無言で一礼し、二人の会話を邪魔せぬよう少し離れた場所へと退いた。
「少し、二人だけで話がしたいの」
ルナリアは丁寧な仕草で対面の席を指し示した。控えていたソフィアが、まるで見計らっていたかのような絶妙な手際で、琥珀色の紅茶が入ったカップをソレイアの前に置く。
「……学院での生活はどう? レグナード様は、あなたを困らせたりしていないかしら」
「ええ。毎日がとても刺激的で、温室とはまた違う楽しさに溢れています。レグナード様は……少し過保護すぎるところもありますけれど」
ルナリアははにかむように微笑む。その穏やかな表情は、以前の「生気を奪われた人形」のようだった姿とはあまりにかけ離れていた。ソレイアは手元のお菓子に視線を落とし、かつて離宮で交わした寒々しい茶会の光景を反芻する。
(あの時、私は何を話したかしら。きっと、自分が救ったのだと信じて疑わなかった『善意』を、彼女に押し付けていただけだった……)
喉の奥に苦い後悔がせり上がる。ソレイアは意を決したように顔を上げ、本題を切り出した。
「ねえ、ルナ。一つ提案があるの。このまま王族として籍を残して、私を助けてくれないかしら? あなたは、この国に……私にとって必要なの。今度は、私があなたを正しく支えるから」
それはソレイアなりの、精一杯の償いであり、愛の形だった。けれどルナリアは静かに、けれど明確に首を横に振った。
「ソル……貴女は、鳥になりたいと思ったことはない?」
「……え?」
「私はね、いつも思っていたの。鳥のように自由に、この空を飛び回れたらって……」
ルナリアは遠い空を見上げるように、穏やかな声で続けた。
「本当はね、羨ましくて仕方がなかった。お父様やお母様の愛を一身に受けて、魔法の光に包まれてキラキラ輝くソルが……。私の好きになった人は、いつもお姉様を愛おしそうに見つめていたわ。私にも魔力が少しでもあれば、あの方の隣に並ぶことができたのかなって、何度も考えたの」
「ルナ……私は、そんな……!」
ソレイアは言葉を失った。自分がいかに「無自覚な傲慢」の中にいたかを、妹の口から直接突きつけられた衝撃。自分が良かれと思って振り撒いていた光が、隣にいた妹をどれほど深く影の中に突き落としていたか。
「でもね、ソル。私、少しだけ分かったの」
ルナリアの瞳は、まるで静かな湖面のように澄んでいた。
「この世界は、鏡合わせのように善と悪を併せ持っているわ。誰かを救うための『善』が、別の誰かを静かに殺してしまうこともある。逆に忌み嫌われる『悪』が、結果として誰かを救うことだってあるの。欠けたものを補い合って初めて、世界は完璧な形になる……。だから、私は誰も恨まない」
ルナリアの語る言葉は、もはや一人の王女のそれを超え、真理を悟った賢者のように響いた。ソレイアは、目の前の妹こそがこの国の頂点に立つべき知性と器を持っていたのだと、今さらながらに悟らされる。
自分は、ただ運良く光の当たる場所にいただけの、不完全な「善」に過ぎなかったのだと。
「それにね、レグナード様が教えてくださったの。海のずっと先には、私たちが知らない広い世界があって、魔力を持たない人々が自分たちの足で立って暮らす国があるかもしれないって。私はレグナード様と一緒に、そんな世界を見てみたいの」
ルナリアは、ふふっと楽しげに微笑む。その顔は義務に縛られた王女ではなく、恋を知った一人の少女のそれだった。
「だから、ソレイア。私は貴女の傍にはいられない。私はただの『ルナリア』として、残りの人生を、私のことを『私』として見てくれる人の傍で生きたいの」
ソレイアの胸の中で何かが音を立てて崩れ、そして再構築されていく。妹を自分の傍に置き、守ることで罪を贖おうとしていた自分。それは結局、また自分自身の満足のための「独りよがりな善」でしかなかったのだ。
(……ルナリア。貴女をこの国……私なんかに縛り付けておくなんて、到底できない)
ソレイアは王太子としての自覚を、初めて本当の意味で身に纏った。それは、大切なものを手放す痛みを伴う決断。
「……分かったわ」
ソレイアは一度、ゆっくりと瞬きをした。
「カイゼル。あれを」
ソレイアが手を伸ばすと、カイゼルがしずしずと数枚の紙を彼女に手渡した。
「──ソレイア・エルフェルトの名のもとに、ルナリア・エルフェルトの臣下離籍を認める。併せて、レグナード・クローヴィスとの婚姻を、王家の名において承認する」
凛とした、王太子としての力強い声が庭園に響き渡る。
「これは国王の決定を代理として、王太子ソレイア・エルフェルトが宣言するものである」
差し出された紙には、国王の重厚な印章が鮮明に押されていた。震える手でそれを恭しく受け取るルナリアの目から、堰を切ったように涙が溢れ出した。
「ルナリア。私は……あなたのおかげで、本当の意味で王太子になれた気がするよ。ルナ、私の妹に生まれてくれて……本当にありがとう」
ソレイアは椅子を立ち、綺麗な涙を流すルナリアを力いっぱい抱きしめた。
「ルナリア、幸せになって。私よりも、誰よりも……世界一幸せになって。これは姉としての……最初で最後の、我儘な命令だよ」
(私たちの心は、どこにいたって繋がっている。だって、私たちは世界でたった二人の、双子なんだから)
二人の頬を伝う涙が重なり、地面に落ちて消える。
秋風が吹き抜け、庭園の木々がざわめいた。それは、長く続いた「太陽と月」の物語が終わり、それぞれの新しい朝が始まるための、祝福の音だった。




