無垢な助手と、傲慢な魔導師(後編)
学院の午後の講義。
教壇に立つレグナードの様子は、表面上はいつも通りで完璧だった。黒板にさらさらと流麗な術式が書き込まれ、生徒たちが必死にペンを走らせる。その間、レグナードは後ろで手を組み、所在なげに窓の外を眺めていた。
(……今頃、お茶の時間は終わったかな。退屈してないだろうか。ソフィアに甘いものを用意させたけれど……)
頭の中は、研究室で待つ銀髪の助手のことばかりだ。かつて理のみを愛した天才の思考回路は、いまや一人の少女を軸に回転していた。
終業を告げる鐘が鳴り、教室内が安堵のざわめきに包まれる。レグナードは重厚な魔導書を手に取ると、一秒でも早くその場を去るべく足早に教室を出た。
廊下の角で、同じく講義を終えたばかりのシリウスと鉢合わせる。
「お疲れ様です、レグナード」
「……シリウスか。お疲れ様」
あからさまに「急いでいる」というオーラを出すレグナードに対し、シリウスは眼鏡の奥の瞳を細めて慇懃に微笑んだ。
「貴方にお願いがあるのですが……私もこれから一緒に研究室へ伺っても? ルナリア様にご挨拶をさせていただきたいのです」
レグナードは肯定も否定もせず、ただ歩を早めた。拒絶されないことを「許可」と受け取ったシリウスは、苦笑をこぼしながらその後を追う。
やがて二人が研究室の前に辿り着いたとき、中から複数の話し声が漏れ聞こえてきた。
シリウスは隣のレグナードへ視線を向けた。いつものように何を考えているのか読めない無表情だが、扉の向こうから聞こえてくるのは、かつて自分たちがルナリアに向けていたものと同種の、無知ゆえの傲慢な言葉だ。
「……いいんですか? レグナード」
「なにが?」
「内容からして、あまり良い話ではなさそうですが……」
シリウスはレグナードが今すぐ扉を蹴り破り、中にいる不届き者を灰にするのではないかと身構えた。しかし予想に反してレグナードは落ち着き払っており、むしろ薄く口角を上げてその状況を楽しんでいるようにさえ見える。
「まあ、待ってて。度を越すようなら僕が止めるからさ」
僅かに開いたドアの隙間から、二人は室内の様子を窺う。
そこでシリウスが目にしたのは、自身の存在を否定するような言葉を投げつける生徒に対し、淡々と理論整然に指摘を返すルナリアの姿だった。
「最新の『アスタルテ修正案』を適用して、ここの変数を対数関数で補正するのが、一番合理的……だと思うのですけれど……」
シリウスは息を呑んだ。その指摘は、現役の教職員ですら見落としがちな極めて高度な理論の穴だった。魔力を持たぬがゆえに、誰よりも純粋に「魔術」そのものと対話してきた結果なのだろうか。
「……これほどまでとは。まるで、王国の叡智そのものだな」
思わずこぼれたシリウスの呟きに、レグナードが誇らしげに目を細める。
女子生徒が顔を真っ赤にし、限界に達してルナリアに詰め寄ろうとした瞬間、レグナードが動いた。
「……先生!」
「やあ。僕の助手に論破されちゃった気分はどう? ちなみに彼女の言うことは 100%正しいよ。ね、僕が言った通り、最高の助手でしょ?」
レグナードはルナリアの髪をさりげなく撫でながら、三人の生徒に意地悪い優雅な笑みを向けた。
「お久しぶりです、ルナリア様。相変わらず、星々の輝きすら霞む知性をお持ちだ」
後から入室したシリウスが、ルナリアに向けて最上級の敬意を込めた挨拶を贈る。その隣では侍女のソフィアがシリウスに対し、ゴミ屑でも見るような冷ややかな視線を向けているが、今の彼にはそれすら甘んじて受ける覚悟があった。
その間にも、レグナードによる「魔術講義」という名の冷徹な煽りが続いていた。
「この修正案を理解できないとなると、前回の試験結果も怪しいね。もう一度、最初から学び直そうか? これじゃあ、単位はあげられないな」
飄々と言い切ったその言葉は、事実上の『留年』だった。シリウスは呆れたようにため息を吐き出す。
(表向きは笑っていますが……やはり内心では、はらわたが煮えくりかえっていたわけですか)
怒りを露わにするより、相手のプライドと将来を論理的に叩き潰す道を選ぶ。ルナリアを傷つけようとした者への、これ以上ない報復だ。
女子生徒は涙目になり、男子生徒二人は顔を蒼白にして立ち尽くしている。これ以上は教育的指導の範疇を超えるだろう。シリウスはそっと助け舟を出した。
「レグナード、そのあたりに。彼らもルナリア様の……いえ、王女殿下の卓越した見識に触れ、己の未熟さを痛感したはずです。王女殿下からも、彼らに温情を頂けませんか?」
ルナリアはおろおろとレグナードを見上げた後、ふにゃりと眉を下げて微笑んだ。
「……レグナード様、彼らはとても一生懸命にレポートを書いていらっしゃいました。ただ参考書が少し古かっただけですから……もう一度、チャンスをあげてくれませんか?」
最愛の頼みを、レグナードが無下にするはずもなかった。
「……君がそう言うなら、今回は不問にしようかな。感謝してよね」
シリウスは、生きた心地のしなかった三人の生徒を連れて部屋を出る。廊下に出ても黙り込んだままの三人に、シリウスは静かに、けれど重みのある声をかけた。
「ルナリア王女殿下の温情に感謝し、勉学に励みなさい。あなたたちはまだ若い。今日、自身の価値観を塗り替えるチャンスを得たのですよ」
シリウスは閉まったばかりの扉を見つめ、満足げな笑みを浮かべた。あの中に残ったのは、傲慢な天才と彼を飼い慣らす無垢な叡智。
「彼女こそが、この国の新たな灯火となるのでしょうね……」
その呟きは、夏の風に溶けて消えた。
魔力のある世界で、魔力のない少女が誰よりも正しく理を解き明かしていく。その新しい歴史が、今、確かに始まったのだ。




