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記憶の深淵

王宮の喧騒を背に、レグナードは数ヶ月ぶりに実家である侯爵家の門を潜った。煤けた一冊の日記を、壊れ物を扱うような手つきで大切に懐に抱えたまま。

唐突な帰宅に、門番から使用人に至るまでが弾かれたように背筋を伸ばし驚愕の表情を浮かべる。その混乱を切り裂くように、屋敷の奥から一人の青年が飛び出してきた。次期侯爵であるレグナードの弟だ。


「兄上……!? 帰っていらしたのですか?」


「ん。ただいま」


「あ、うん、おかえり……じゃなくて! 連絡もなしに一体どうしたんですか」


あまりに無防備な兄の様子に、弟は毒気を抜かれたように瞬きを繰り返す。


「あの人は?」


「ああ、父上なら領地の視察に。明後日には戻る予定ですが……」


「そう。じゃあ、戻ったら伝えておいて」


「え? 何を……」


レグナードは足を止めず、階段に手をかけながら事も無げに言い放った。


「王婿候補を辞退して、婚約者を決めてきたからって」


一瞬、屋敷全体が凍りついたような静寂に包まれた。数秒のタイムラグを経て、弟の絶叫が吹き抜けのホールに響き渡る。


「……あ、そうなんだ。おめでとう! ──じゃなくて! はぁ!? 辞退!? 婚約者!? ちょ、兄上! ちゃんと説明してください! 兄上ーっ!」


背後で喚き散らす弟を完全に無視し、レグナードは自室の書斎へと滑り込んだ。重厚な扉を閉ざすと同時に、施錠と防音の魔術を幾重にも展開する。

誰にも、この聖域を侵させるつもりはなかった。

レグナードはデスクの椅子に深く腰を下ろし、震える指先で日記を机に置いた。広大な黒檀のデスクの上に、ぽつんと置かれた小さな日記。

彼は目を閉じ、眠り続ける少女に「ごめんね」と一度だけ謝罪した。彼女が命を懸けて灰にしようとした「心」を、暴こうとしている己の傲慢さを呪いながら、ゆっくりと表紙を捲った。


最初の頁には、幼少期の拙い筆跡が並んでいた。

一見すれば、王女の日常を綴った変哲のない内容だ。けれど行間から立ち昇るのは、気が遠くなるほどの孤独と静寂だった。

庭に咲く花、迷い込んだ小鳥、窓辺の景色。綴られるのは美しいものばかりだが、そこには常に「自分以外の人間」が欠落していた。唯一登場する人物は、姉のソレイアだけ。幼い呼び名の『ソル』は、年を追うごとに壁を作るような『お姉様』へと変容していった。

そんな彼女の灰色の世界に、ささやかな色彩が混じり始めたのは、侍女のソフィアが現れてからだった。


『ひび割れていたはずのティーセットの罅が、なくなっていた。気のせいかしら』


『ソフィアの手入れが丁寧なおかげで、お花が枯れるのが遅くなったみたい』


『街のフェスティバルが晴れてよかった。お姉様が楽しみにしていたから』


『庭の花が暑さで萎れている。雨が降りますようにって祈ったら、次の日に雨が降った。これでまた、綺麗な花を咲かせてくれるかな』


ページを捲るたび、ルナリアのささやかな「祈り」が星屑のように散りばめられていた。

超常的な記憶力を持つレグナードの頭脳が、瞬時に過去の記録を照合する。ソレイアの初公務の日、連日の豪雨を切り裂いて訪れた奇跡的な青空。高熱で意識を失ったはずの彼女が、翌朝には何事もなかったかのように微笑んでいた異様な快復。


(ああ、そうか……。それも全部、君が人知れず祈ってくれたからだったんだね……)


人々の称賛も、歴史の光も、すべては姉に。

その影で彼女はただ、誰かの幸福だけを願って無意識に(ちから)を削り続けていた。

ふと、レグナードの指が止まった。

文字をなぞっていた指先が、次第に激しく震え始める。

それは、ルナリアが十五歳を迎えた日の記述だった。


『今日、久しぶりに昔の夢を見た。五歳の時の、大切な思い出』


レグナードの瞳がその一文に釘付けになる。


『お散歩中に、魔力に苦しむ男の子を見つけた。このままじゃ死んじゃうと思って、必死に抱きしめた。神様、どうか彼を助けてください。苦しませないでください。そう、ずっとずっと祈っていた。そうしたら男の子の力がふっと抜けて、眠ってしまったみたい。彼を呼ぶ声が遠くから聞こえてきたから、怖くなって逃げちゃったけれど。あの男の子は無事に帰れたかな。今、何をしているんだろう』


心臓が耳元で鐘のように打ち鳴らされた。レグナードは信じられないという思いで、何度も何度もその文面を読み返した。

──十歳の初夏。

魔力が暴走し、内側から身体を焼き切られるような激痛の中で死を覚悟したあの日。

泥濘(ぬかるみ)に沈む意識を繋ぎ止めたのは、誰かの温もりだった。自分を壊さんばかりに強く抱きしめ、必死に「生きて」と祈り続けてくれた幼い少女の震える声。朦朧とする意識がようやく浮上したとき、近くにいたのは目に涙を浮かべて自分を見つめるソレイアだった。だから彼は今の今まで、自分を救った「奇跡」は彼女のものだと、疑いもしなかったのだ。


「……あの時の子は、ソレイア様じゃなかった……」


レグナードの口から、乾いた笑いが零れた。

ずっと、ずっと……自分がこの命を懸けて愛すべき相手を、知性ですらなくこの「魂」の根源で見初めた相手を、彼は取り違えていた。

日記に落ちた一滴の雫が、煤けた紙に滲みを作る。

レグナードは顔を覆う。

書斎の静寂の中で、かつての自分を救い、そして今深い眠りについてしまった少女の名を、絞り出すように呼び続けた。

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