085.崩れゆく北部
愚かにもこの"天視"の名を騙ったセルヴィエルとサリエルク。初めは愛らしい動物だと思っていれば知らぬ間に増える増える。
群れは膨張し動物は増長し戯れに人の生死を愚弄するようになった害獣を、魔性狩りの序でに北の地の果てまで追いやったのは何万年前か。
白の雄鹿と黒の凄惨。どちらが先に生まれたのかは誰も知らぬこの星の固有種。白は獲物を狂わせ運命を操り、白が死ねば黒は膿となってあらゆる命を貪り尽くして新たな白を生む。
選別と誕生を繰り返してきた驕った害獣は、妾の依代にその目を霧で塞がれ見逃した。
自らを殺し得る存在を魔性と見紛い魔性に手を出した結果、妾の依代に払われる。
読みを違えた害獣は妾を飲み込めると思い誤り、その権能は全て回収してやった。
唯一、この依代の男の二度目の死までの未来を変えるには手遅れであったし、わざわざそんなことをしてやるつもりもなかったが。
しかし、お陰で数万年ぶりの出会いもあった。
世は変わり、人が魔性を祓うことを忘れて魔性に魅入られたこの時代に依代が生まれ、ダンジョンが生まれた。本来ならば生まれるはずのない場所に。生まれたとて長生きなどできるはずもない場所に。
「天陽の真似などして遠くから見下ろしているから、敵を見間違うのじゃ。愚か者め」
唯一残された霧と深い森に守られた山々まで奪われた馬鹿を思うと笑いが込み上げてくる。
下へ下へと邪魔者のいないダンジョンを降り、外へ出る。
「外の空気は格別じゃの。さて、残りの時間でどこまで此奴を連れていけるじゃろうか」
ぺらとボロボロの服の裾を捲ってみれば、無数の赤や紫の痣。たった数分"天剣光輝"の低位の技を使っただけで内臓は傷み、複数の血管が破れて再び死に向かっている。
この依代はまだ若く、力も経験も何もかもが足りぬ。しかしそれは愚か者の呪いがいずれ解消させるだろう。五万三千回の命懸けの無理をしようと、死ねばまた蘇る呪いに掛かっているのだから。
「とはいえ今は軟弱者じゃからの。まあ、廃墟までの道すがら此奴の仕事は代わりに果たしてやるとして……狩りの後に死んだ此奴をどうしたものかの」
山の主の死、森の異常。近隣を支配していた人間の巨大な巣の滅び。
世界に放たれた魔性は多い。この近辺に臥し待ちしていた魔性共も活発になっている。
今もまた、何処ぞの魔性が鬼や蠍や蜘蛛となって平然と大地を歩いている。
「妾の視界を穢すな」
鞘から剣を抜き放つ。
今ここに天陽は二つとなりて、その極光はたった一振りで世界に蔓延る百鬼を切り捨てる。
「ふむ。ここらで仕舞いか。悪いな依代よ、血生臭い場所で死ぬ。後の帰りは己でどうにかするのじゃ」
この時代にはオーガや大毒蜘蛛、マンティコアと呼ばれた魔物たちをあっさりと滅した剣を鞘に収める。
ラグネルの肉体の内側は天賦の反動に蝕まれ、臓器に穴が空き血管が破れて肌を変色させてばたりとその場に倒れ込む。
ここからは、演劇は特等席で見ることにしよう。呪われた依代と、その依代に剣を突きつけられる亡霊の有様を。
ヴィシャンが目を覚ますと——そこは今は廃墟となったヒナトからやや離れた街道の、さらに逸れた荒地だった。
「うっ、なんだこの頭の痛みは……これは? 俺がやったのか?」
周囲には百を超えるモンスターの死骸。ヒナトが陥落してから数日。犠牲者の弔いどころか遺体の片付けもできていない状況。
数少ない生き残りの冒険者は、街の住民を連れて領都に向かった。
廃墟に残ったのはギルドマスターのバルザークとヴィシャンの二人のみ。
「確か手分けをして街の近くの魔物を狩ると言ってヒナトを出て……」
ダンジョンに向かった。
バルザークに聞かされた事実を確かめようとした訳ではない。心の中では仲間を探しに行きたいと願ってはいたが、バルザークを一人残してヒナトを放棄する訳にもいかない。そんなことは領都に向かわせた冒険者たちが父であるフレイズ伯爵に報せを届け、応援を待ってからにするべきだ。
そんなことはわかっているし、そもそもダンジョンに向かったところで真実が確かめられる保証もない。ヒナトがあんな目にあったからといって国がダンジョンを殺すことを許すはずもないのだから。
それは分かっているのに、沸々と湧いてくる怒りや憎悪を押し留めることもできずに、一人ダンジョンに向かった。
そして、黒の雄鹿の性質によく似た異形の竜を目にして自我を見失い、気がつけば奇妙な部屋に立っていた。
「あの女性は逃げられたのだろうか」
目覚めた後の夢のように消えていってしまいそうな記憶を必死に辿るけれど、その後のことがどうしても思い出せない。
「そもそも俺は死んで……ないよな?」
つまりは、夢?
とりあえずとヒナトの方角に向かい歩きながら自分の体を改めるが、服がボロボロなこと以外に異常はない。なんなら、顔にあったバルザークに殴られた腫れさえも引いている気がする。
モンスターの討伐をして、力尽きて気絶した。その間にダンジョンの夢を見た。
不思議ではあるが納得はいく。何せ、つい最近も黒の雄鹿を相手に戦闘中に意識を失ったばかり。ダンジョンや仲間、友人のことは常に気にしていた。悪夢を見てもおかしくはない。
何せ、自分の意思で行動していた感覚が一切ないのだから。
「……考えるのは帰ってからにしよう。バルザークにまた殴られる」
会いたい人がいる。ロニー、セレナ、ミエレ。バルザークがはっきりとその死を確かめたエメル家のルイスの遺体だって回収してやりたい。ルイスの妹もフレイズ騎士団に所属している。そう遠くなく再会することになるだろう。
それでも、ヒナトに戻らなければならない。
未だ埋葬もされない三万の民が待っている。
その現実を放棄して、ひとり前に進めるものか。
ヒナトを蹂躙した黒の雄鹿。あれがダンジョンマスターの言っていた存在だとするならば……あれはダンジョンマスターからの警告であったのかもしれない。勿論、バルザークの言うように実際には手を組んでいた可能性はあるが。
いずれにせよ、今の己がすべきことはヒナト周辺のモンスターを倒し、足止めすること。
可能ならば開拓村にも伝令を送りたいが人手がない。開拓村の人々、そしてヒナトより南にある領都。それらを守るための最前線に立ち続けることしか、今の自分にできることはないのだから。




