130.The Prey
オリヴィエ・ニールセン。年齢は二十六。北部の農村で生まれ、二十歳で同じ村で育った二つ年上の夫と結婚。子宝には恵まれなかったものの、幸せな日々を送っていた。
あの日、大量のモンスターに村が襲われるまでは。
村が襲われ、家より大きな腐肉と骨でできた竜の背に括り付けられた船に乗せられた。オリヴィエの他にも数百人が乗せられたその船は、外見こそ船らしい形をしているだけの、枡のようなものだった。船室はなく、ただ荷物のように人が敷き詰められる。不幸中の幸いは、オリヴィエの村が襲われたのは順番が後ろだったことだろう。積み込まれた枡の中で人が人の重みに軋み、呼吸もできずに潰れて死んでいく呻き声を聞くだけで済んだ。
竜が移動し始めてからは激しい揺れに何度も他人と重なる上下が入れ替わり、苦しい思いをしたが、それでも生きて船からは解放された。
その後に待っていたのは、悍ましいモンスターの巣穴だった。何種類ものモンスターが混在し共生する魔性の住処。目が眩むような光と、鼻先さえ見えぬ暗闇に脳がパニックを起こす。それでも、周囲を囲むモンスターの恐ろしい鼻息や眼光を思えば歩みを止めることはできない。
いつ殺されるかもわからないまま、長い時間を歩く。道は上へと伸びており、途中で何人もの子供や老人が膝を付いた。その度にモンスターが吠え、暴力を振るう。対象者は膝を付いた人物だけでなく、その家族や同じ村の出身者まで含まれる。誰かが足を止めれば、反抗すれば殺される。自分たちはモンスターの示す通りに歩む以外に生き残ることのできない奴隷なのだと、踏み出す一歩、一歩が心を壊していく。
疲弊し、恐怖に震えて冷え切った指先にはもう感覚がない。歩きながら、夫は無事かと探すが見つからない。縋りたい。せめて死ぬなら隣で……そんな願いも叶わない。
夫と再会したのは、何もない広い空間。そこに現れたのはモンスターを引き連れた自分達とそう変わらない——少しだけ見慣れない黒髪の男。
その男は拐われてきた北部の村人たちを二つに分けた。大きくは性別で、その他にも年齢や何かの基準もあったようだが考えている余裕はない。
結果としてそれが何かと理解したのは、若い女たちが、頭髪のない皺だらけの醜い顔をした小人に下腹部を触られ調べられるようになってから。
とても悍ましい想像が頭を過ぎる。助けを求めようと夫の名を叫ぶ。
別のグループに分けられた夫もまた、オリヴィエを探していたのか、すぐに互いを見つけることができた。
喧騒の中、互いの名を呼び合う。
「オリヴィエ! オリヴィエ! 大丈夫だ! 必ず助ける! 今はじっと……」
「はーい! ちょっと動かないでねー! 炎陣」
夫の声は、黒髪の人間の詠唱と炎によって遮られてしまう。その後、黒髪の男は拐われた男衆に鍛治師や職人はいないかと問う。
夫はただの農民だ。けれどこの質問には何か大きな意味があるはず。生き残るために必要な、何かが。
お願い、嘘でも良いから手を挙げて。涙を流しながら夫を見つめるが、馬鹿正直な夫は手を挙げない。
そして、それは夫にとっては天に褒められるべき最後の行為だったのかもしれない。
奇妙な光る珠が、黒髪の男に必要が無いと告げると、黒髪の男の側にいた魚のような尻尾を生やした怪物が、炎に囲われた人々の首を次々と跳ねていく。噴水のように飛び散る血飛沫。頭と別れた肉体が陸に釣り上げられた魚のようにピクンと跳ねるように震えて崩れ落ちる。
何百人という命が、あっさりと失われた。
オリヴィエが愛する人も、誰かが愛していた人も。たかが数秒で愛は終わりを迎えたのだ。
吐き気を催す程の悲しみと憎しみ。今日この地獄の日を迎えるまでに紡いできた、汗と苦労の中にあった優しくて暖かな日々。どんな辛いことも、大変な日も全てが幸せだったと思えるような目の前に広がる地獄。
そうして、生き残った苗床たちは魔性共に連れられて、気味の悪い音楽の鳴り響く広場で、服を剥かれ人の物ではない汚物に尊厳を貫かれて生臭い汚濁に塗れた。
絶望の籠った悲鳴も、殺してくれと懇願する泣き声も音楽と醜い魔性たちの笑い声にかき消され、この世界から自分という存在のあらゆる権利が剥奪されたことを知る。
助けなど来ない。
この魔性の巣穴で、もう二度と天を見上げることなく犯され孕み朽ち果てる。
ああ……あなた、最期まで正直者として美しく死ねたあなたが……なんて恨めしい。
オリヴィエは——否、全ての女たちは壊れていく。終わらない暴力を受け止め、支配者たちの子を産む悍ましさに耐えるため。
……どれだけ時間が経ったのだろう。
同じ時期に捕まった女たちの殆どは、ゴブリンと呼ばれるあの醜い小人やスライム、触手の化け物、豚のように丸く大きな体の魔性の子を身籠り、産み落とした。
それを考えれば、随分と長い時間をこの地獄で生きてきたのだろう。
変わる変わる異なる種族の生殖の器にされて、ときには全身を強く縛り付けられ、息もできないほど首を絞められたこともあった。
なかなか孕まない私を孕ませようと、死に際まで追い詰めようとしたのかもしれない。
外道、鬼畜。モンスターにそんな感情を抱いたところで意味はないと分かっていても、怒りの感情は消えることはなかった。
時間が経つと、新しい女が補充されてくる。
そしてその女たちも魔性の子を産む。
すると、魔性共は女たちの扱いを変えるのだ。
魔性共はまるで子を産んだ女は私よりも価値があるというかのように、私よりも良い服を着せて、良いものを食べさせる。
特に、栄養価の高いミルクは魔性の赤子に与えられ、その残りは母親たちには野菜の入ったシチューとして与えられる。
私には、冷たい水と傷みかけのパン屑しか回ってこないのに。
あいつらは、子を産めるというだけで良い思いをしているのだ。それなのに私は、夫の子供どころか魔性の子供さえ産めぬ体なのだと理解してしまった。私の体を何年も前から苦しめ続けてきた月の生理現象にも意味がなかった。
なら何のために苦しみ、痛みを堪えながら働き生きて来たのだろう。
私と結婚しなければ、夫は自分の子供を抱いて笑っていたのだろうか。
モンスター共の子供を産みたいなどとは欠片も思わない。
思わなくとも、モンスターにすら使い捨ての扱いを受ける辱めに苦しむなというのも無理な話だ。
憎い。
モンスター共も、子を産める女も、先に死んだ夫も皆憎い。
檻の中で暮らし、正常な腹を持った女がいないときにのみ使われるだけの日々。
余り物、いつでも好きに死ねとばかりの扱い。
散々人の体を嬲っておいて、傷だらけにしておいて、憎い、憎い、憎い。
その憎しみが天に届いたのだろうか、その日はやけに静かだった。普段なら入れ替わり立ち替わりやってくるモンスター共が現れない。
檻の中の女の世話をしているのはまだ出産適齢期ではない女の子供や、雑用係の男の子供だけ。
大人の女共は、休みなく犯される生活の反動から誰もが深く眠っている。
なんとなく、檻の扉を押してみた。
キィ——と音を立てて開く扉。慌てて周囲を確認するが、誰も気づいた様子はない。
少し迷って、檻から抜け出してみる。
自分以外の女はやはり皆気づいていない。
一瞬の葛藤。
女たちも逃がすべきか——ふざけるな。
オリヴィエはひとり、自由の身になり、檻の中で眠る女たちの姿を見て、必死に声を上げぬように笑った。
檻の中で服を剥かれて気絶するように寝ている女の服を奪う。
上等なものではないが、全裸でいるよりはマシだ。
鍋の中にシチューの残りがあった。貪った。
果物やミルクもある。
塩気も甘味も酸味も久しぶりに味わった。
青臭い汚濁と味のしない水とパン屑しか入ってこなかった胃が震えて軽く吐く。
構うものか、どうせ普段ならば与えられないものだ。
それに、ここから逃げ出せばいくらでもきちんとしたものを食べられる。
「そうだ……逃げればいいのよ」
オリヴィエは、急いで探索を始めた。
ここに連れて来られてからは何度か階層を移動させられている。今がどの階層なのかは分からないが、この巣穴は縦にできていることは覚えている。出口は下だ。忘れもしない地獄の始まり、あの日連れ込まれたのは丘の麓の洞穴だった。
壁に手をつきながら身を屈めて静かに広間を後にする。ゆっくりと暗がりを進むにつれて記憶が蘇ってくる。こんな場所を前にも見たような気がする。まったく知らない階層という可能性もあるが、もしも来た時に見た場所のどこかなら、出口はそう遠くないはずだ。
鼻先も見えない暗闇を腰を落としてできるだけ体を丸めて進む。
カタカタと、時折なにか乾いたものがぶつかるような音に混ざって足音がする。
人骨のモンスター。確かあの日も居たはずだ。人骨はさすがに人間との性交はできないのだろう、あの日以来出会うことはなかった。それでも、捕えられているはずの人間が檻の外に出ているのが見つかれば命の保障はない。
ゆっくりと、息を殺し物音を立てないように慎重に進む。
何処をどう曲がれば良いのかもわからない。とにかく、骨の足音のしない方に向かう。
暗闇といつ襲われるかわからない恐怖のせいで、既に壊れていたと思っていた頭が余計におかしくなりそうだ。
骨の音がするたびに心臓が跳ねて、胸や首元、手首がドクンドクンと脈打つ音が大きくなる。
幸いなのは、何故か階層全体にしんみりとした音楽が流れていること。理由はわからないが、それが心臓の音を掻き消してくれていることだろう。
ゆっくりと、逃げるように何度も見えない背後を振り返りながら何処へともなく進み続ける。
やがて、遠く視線の向こうからぼんやりと橙色の光が見える。光の見え方からして、曲がり角があるのだろうか。急な明かりに思わず瞼を閉じる。
確かめたいが、暗闇に慣れすぎた視神経が微かな光で眩暈を起こす。
逃げられもせず、床に伏せて気付かず通り過ぎてくれと願う。こちらに曲がって来ないで。
「お願い、お願い、お願い」
声に漏れぬように、唇だけで何度も唱える。
それに反するように、光は角を曲がったのであろう、輝きを増した光が閉じた瞼の裏の肌に流れる血の色を映す。
「おい、誰か倒れているぞ!」
「注意しろ、モンスターの擬態の可能性もある。外の森でも散々仲間が罠にやられただろう」
「だが、放置するのか?」
「ここから声を掛けてみるだけにしよう。死んでいる可能性だってある」
聞こえてきたのは、人間の声。
しかも複数の大人の男のもの。
まさか、助けが来た?
オリヴィエは慌てて目を開けて、伏せていた体を起こす。
「……あ、あの……私、オリヴィエといいます。北の村の生まれで、攫われて、それでここに……」
久しぶりに悲鳴と喘ぎ以外の音を喉から出した。言葉は辿々しく要領を得ない。
「北部の村の生き残りか? お前一人か? そこで何をしている」
「ひ、ひとりです! 助けてください! モンスターに、捕まって、私、逃げて来て……」
「……両手を上げてゆっくりこっちに来い。本当に人間なら助けてやる。我らはフレイズ伯爵様麾下の北部奪還部隊だ」
オリヴィエの視界に飛び込んできたのは勇ましい鎧と武器を身につけた逞しい男たち。
助かる。
これだけの大人数がいるなら——私一人くらいならきっと助かる。
これ以上足手纏いを増やす必要はない。早くここから抜け出さなければ、またあの檻の中に戻るのは絶対に嫌だ。
裸足のまま、髪も乱れ頬も痩せこけ、美しさなど失ったその姿を男たちに見られる恥など考える余裕なんかない。
喜びから、オリヴィエは両手を上げて駆け出した。
「ちっ、またこのパターンかよ」
男たちの一人が弓を引き、矢が放たれる。
「え?」
オリヴィエは左胸に突き刺さった衝撃が何かも気づくことなく呆気なく床に倒れ、口から血を溢した。
「はっ……はっ……くふっ……」
その背中に次々と矢を射掛けられ、オリヴィエの命は呆気なく終わりを告げた。
死体を改めた男が舌打ちをする。
「人間だ……モンスターの擬態じゃなかった。ばかやろう、ゆっくり歩けって言ったじゃねぇか」
「ちくしょうっ! このクソダンジョン! 本物の人間までダンジョンに放ってやがる!!」
この階層に至るまでに、何度も人に擬態したモンスターや罠に遭遇していた戦士たちの猜疑心。
仲間を危険に晒さぬための防衛本能。ダンジョンによって刷り込まれた積み重ね。
人が人を疑い人を殺す。
ダンジョンの魔物から北部を奪還するために戦いに赴いた男たちの心にその罪は重く圧し掛かる。誰もが自分の正義を疑ったとき、心の弱さを露呈したその瞬間。
暗闇に同化し身を潜めていた灰色のグールは歓喜に踊った。
爪痕のダンジョンの第三層、暇を持て余したグールの食事会場は盛況だ。




