121.ミカ
ラグシュナと呼ばれた小さな国が存在した、
主な産出品は芋や甜菜、それを加工した蒸留酒やベリージャム。
北から長く続く怪物の潜む森とも接しており、更に東にも国はあれど交流は滅多になく、西側の周辺国からは田舎の弱小国と嘲笑われるような国。
比較的北にも近く、冬になれば雪が積もる。冷え込む体には強い酒と糖分が糧となる。
周辺の木々もまた寒さの中でゆっくりと時間をかけて育ったそれは密度も高く頑丈で、建材や造船材としても重宝された。
他にはリネンのような繊維や、動物の毛皮。それらを用いて作られた独特な伝統的な美しい工芸品。
それら全てがラグシュナの人々を強く逞しく育み、また貴重な国の収入源であった。
人口はたった三十万弱の国。
それでも誰もが厳しい環境の中で生まれ育った精強な民たちである。
国と国、人と人が争う時代。その中をラグシュナの王と民はラグシュナの土地の恵みを活かして他国に資源を提供することで存続していた。
争いはあった。
ラグシュナの土地が生み出す資源も、ラグシュナの民が創り出す工芸品も伝統も、力づくで奪ってしまえば良いのだと攻め込まれたことは何度もある。
それでもラグシュナが耐えられたのは、ラグシュナを手中に収めようとする敵国が隣国と何年も戦争状態にあったからである。
しかし、現実はどこまでいっても現実でしかない。小国ラグシュナは、西の隣国アルヴァリア王国には国力で大きく劣る。
ラグシュナは敗北し、その名は地図から消え、新たにアルヴァリア王国の東部地方としてアルヴァリア貴族の伯爵家に統治されることとなる。
そこから数年。
アルヴァリア王国東部、数年前までラグシュナと呼ばれていた国の旧王都。
王都まで攻め込まれ、王城さえも陥落したこの街は歴史と煤埃に塗れた荒廃した街と化していた。
大人たちはアルヴァリア貴族に奴隷のように復興のために働かされている。
戦で親を失った戦災孤児たちは、臨時に作られた孤児院に集められて暮らしていた。
「ミカ、そのおもちゃ何処から盗ってきたんだよ! 俺によこせよ!」
「……あっ」
何度洗っても汚れの落ち切らない布のワンピースの裾をきゅっと握りしめる。
自分の年齢も覚えていないこの少女の名はミカ。
何も抵抗できずに、大切に抱きしめていたぬいぐるみを男の子に奪われてしまった。
長耳の兎さんのぬいぐるみ。生きていた頃、母が紡いでくれた宝物。
とても大切なものなのに、いつも誰かに奪われてしまう。
——私のものなのに。
それでも、親も亡くし頼れる身寄りも大人もいないミカには男の子から宝物を取り戻す力なんてありはしないから、悔しくて小さな手のひらで服の裾に八つ当たりをして拳を握るのだ。
そうしなければ、涙が溢れてしまいそうだから。
取られても、言い返すことはしない。前にそれで殴られて泥棒と呼ばれて、同年代の子供でさえミカを気にかけたり遊びに誘う子供はいなかった。
突然の戦争に両親を奪われ、家も思い出も焼かれてこんな牢獄に閉じ込められて囚人のような暮らしをしている。助けてくれる人なんて、いないから……。
毎日、何百回も自分の声が早く死んでしまいたいと囁いてくる。少し長い紐を見れば、首を吊れと聞こえる。何処かの家が火事になれば、この孤児院ごと燃やしてくれればよかったのにと不貞腐れる。
生きている理由がないままでも腹は減る。配給されたドロドロの芋のスープを一杯飲む。これで昼食はおしまい。夜にまた出るかはわからない。この澱んだ液体は空っぽの心までは満たしてくれない。
そんな生活がただ続く。
孤児院の中で独り隠れてぬいぐるみを抱きしめて蹲るか、たまに大人に連れられて狭い庭に放り出されて空を見上げる。
天陽はいつだってこちらを視ている。けれど、見返そうとしても眩しくて目が合うことはない。
見つめられない光、見ることを許されない光。ミカにとってその光は、真っ暗な心の底を照らし安心させてくれるものではない。
同じことが繰り返される日々にも、変化というものはある。
「よう、ガキども。差し入れだぞ!」
「わー! シャハル! みんなー、ラグナシャハルがうまそうなの持ってきたぞ!!」
「お前は相変わらず言葉遣いが悪いな。そんなんじゃいい大人になれないぞ」
「うっせー、シャハルに似たんだよ! 俺もいつかは天陽の剣に選ばれる剣聖になるんだ!」
「……そうか。ならしっかり食えよ」
アスガル・ラグナシャハル・ミラドール。
ラグシュナ王国の元騎士。
惨敗したアルヴァリアとの戦争を生き残った王国一の剣士。今は亡き王から天陽の剣を授けられた剣聖——そして今は、戦争犯罪者。死刑にこそされては居ないが、アルヴァリア貴族の目付の下で冒険者として労働を課せられている男。
ラグナシャハルはこうして、時折り外で狩りをした獲物を孤児院に寄付しにやってくる。
男の子たちはラグナシャハルの精強さと、肉や土産の菓子に群がる。女の子の反応は年齢によって違いはあれど、憧れや好意を抱いていることには変わりがないだろう。
全部、ミカには関係ないことだ。
ラグナシャハルが持ち込んだものはミカのところへ回ってくることはない。
別に欲しいとも思わない。腹は減っているが、生きたいとは思っていない。
ただ腹が減ると苦しくて泣きそうになるから配給を食べることはやめられない。
父や母の元へ行きたいと願いながら、それを実行する勇気も行動力もない。空腹にさえ勝てないみっともない存在。それがミカという存在の全て。
「おい! 誰か! アスガルはこっちに来ていないか!」
新たに孤児院に入ってきた冒険者らしき男が慌てたように声を上げる。
「シャハルなら奥にいるぞー」
「おう、ありがとな坊主。悪いがちょっと呼んできてくれるか? ほら、これをやるよ。他の奴らには内緒にしろよ」
「わぁ! まかせろ! いま呼んできてやるよ!」
冒険者に何か小さな包みを渡された男の子がラグナシャハルが獲物を仕舞いに向かった孤児院の奥へと駆けていく。
しばらくして、奥からラグナシャハルが戻ってきて冒険者の男に気づいて手を振りながらやって来る。
「どうした? 何か急ぎの用があったか?」
「ああ。連中に動きがあった。そろそろ対策を考えなきゃならねーな。鴉のやつの話じゃ……おっと、ここでする話じゃねーな。ギルドへ向かうぞ」
「ふむ。わかった」
冒険者とラグナシャハルは何かを小声で話して、互いに頷き合ってから孤児院を立ち去った。
ミカには関係のないところで、関係のない大人が関係のないことをしていった。
たったそれだけの変化。
その変化は、小さな敷地の中の孤児院と庭に閉じ込められた少女にはこの地にとって、街や人々にとってどれだけ大きな変化の始まりだったのかは理解する術はなかった。
それから暫くして、街は騒がしくなる。
アルヴァリアの統治を拒絶した反アルヴァリア勢力——ラグシュナ人による解放運動が激化し、アルヴァリアの兵や騎士との衝突が始まった。
これまでもアルヴァリアの支配を受け入れられない民間人による抗議活動などはあった。
その度に鎮圧されていたが、それは日陰で拡大し、数百人規模へと膨らみ、一千人規模へと到達する程に勢いを増した。
旧ラグシュナの街が、新たな戦場へと変わる。
大人たちの多くはそれを察知していた。
しかし、予期されたラグシュナの民間人による決起は行われなかった。
その代わりに、冒険者ギルドに所属していた戦争犯罪者たちの一部がギルドを裏切り、アルヴァリア貴族に反旗を翻した。
アルヴァリア王国が東部に新設した砦の強奪。
反アルヴァリア、ラグシュナ解放を高らかに宣言した小規模だがラグシュナの最精鋭によって構成された最強の反乱軍。
後に裏ギルドと呼ばれる、冒険者ギルド内で反乱を企てていた組織である。
そうして、ミカという少女の暮らす街とは無関係な土地で、知らぬ間に始まった戦争。
東部動乱。
「探しましたよ。こんなところでおひとりで遊んでいるのですか? ああ、警戒しないでください。私は冒険者ギルドの者です。噂で聞いたのですが……無くしたものを見つけられる不思議な力を持った少女がいる、と。もし良かったら、少し話を聞いて貰えませんか? ああ、良ければこれを……今では貴重なラグシュナベリーのジャムを固めた飴というお菓子ですよ」
どういう訳か突然現れた知らない大人。
天陽とは違って、ミカがその視線を向ければ目が合い、眩しくて目を開けていられなくなることもない。
他の子供が貰っていた何かを、何故かくれるという大人。
天陽も剣聖も与えてくれなかった変化をミカに与えた男。
ミカはその飴の包みを剥がして口に放り込み、涙が溢れてきた。
お父さんとお母さんが生きていた頃に、特別な日に食べることを許されたベリージャムの甘味が口いっぱいに広がり、思い出が溢れ出した。泣かないように、死んだように生きていた体が、思い出に縋りついて泣いていた。
「少し、探し物を手伝って欲しいのです。飴はまだありますから、着いて来てくれますか?」
少女は汚れた服の袖で涙を拭い、男に差し出された手を取った。




