105.不必要の誉
幼い娘が扉の前に立っている。
小さな縫い包みを抱いて、どれだけ過酷な生活をしていたのか、白の衣服は土の色に変わり、手足や頬には黒く乾いた土埃の跡。ボロボロの爪の間まで汚して、たったひとつ、汚れのない真新しい熊の縫い包みを抱えていた。
『この先に行っちゃダメ!』
泣きながら訴える少女に思わず足が立ち止まる。こんなことをしている場合ではないとわかっているというのに。
「ここは危険だ。さあ、早く逃げるんだ」
『どこに逃げればいいの? 帰る場所はもうここしかないの。お父さんもお母さんも死んじゃった。国もなくなってお家も燃えた。私はどこに逃げればいいの? お願いだから、帰って……ここにはもう来ないで!』
小さな縫い包みをぎゅっと強く抱きしめ、嗚咽を漏らす少女の言葉が腹の奥底に重たく沈んでいく。
「それはできないんだ。わかってくれ」
『わからないよっ……だって、あなたがこの先に進んじゃったら、またたくさんの人を殺すんでしょう!』
「殺しに行くんじゃない。止めに行くんだ……それが君たちを救うことになるはずだ」
『救い……? お父さんもお母さんも、友達も……殺したのはあなたたちじゃないっ!』
「殺したかった訳じゃない。守らなければいけなかったんだ」
『……そうやって! 大事な命を奪っておいて! 守りたいのはアルヴァリア人の命だけでしょう! 私たちのことなんか、誰も守ってくれない。この扉の向こうにいるのは——みんな私と同じ。誰にも守ってもらえない人たちなの。だから、私があなたたちを止めないと、みんなが死んじゃうの!』
戦場の最前線、出会うはずのないこどもに出会い、足止めをくらう。
周りでは砦に近づいたことで魔法や矢の応酬は激しくなり、剣戟の音と吹き出た血が土の上で跳ねる音がぐるぐると回転しているかのように、あちらこちらから聞こえてくる。
これ以上、躊躇えばここも死地。一緒に突撃した仲間は皆途中の道に転がっている。辿り着いたこの壁面も、いつ上から煮湯や燃えた油が降ってくるとも限らない。
「すまない。これが最後だ……俺のこの鎚が全てを破壊する前に、そこを離れてくれ」
『やっぱり、あなたも人を殺すのね』
「これ以上、犠牲を増やさないためには必要なことなんだ」
『必要なら殺しはしないでしょう。不必要だから殺すのよ。私には抗う力はないけれど、動きはしないわ。もう、私にはこの場所しかないんだもの』
子供相手に戦場で言い負かされる。大恥だ。平和を取り戻すため、人々を救うため。必要な犠牲と割り切り奪った命は、これからの時代に必要とされていない。
少女は幼くして、戦争を理解している。理解しなければならない境遇を生きてきたのだろう。
そして、少女がこの場を離れない限り……誰かがこの子を殺すのだ。
「俺にとって、きみとの出会いは必要だった」
『私にとって、戦争なんか必要なかった』
「——破壊要塞」
東部動乱。
裏ギルドの裏切りにより扇動された東部民族の鎮圧及び、砦を奪取した裏ギルド殲滅命令。
当時、東部にて最強の名を欲しいままにした剣聖率いる裏切り者の冒険者たちとの熾烈な争いは、仲間とともに特攻し、唯一生き残り砦の壁を打ち破った英雄によって、本来の予定よりも早い決着を迎えることとなった。
圧倒的な数を揃えた騎士団の突撃により、砦の中に居た裏切り者共はみな一人残らず粛清された。男も女も、年齢も関係なしに、裁判もなく事情を鑑みられることもなくその場での処刑であった。
あれから二十年経っても、バルザーク・ベルモンドは時々こうして夜になると、夢の中で当時のことを思い出す。
東部の英雄として祭り上げられ、冒険者としての階級を上げ、貴族からの叙勲もあった。
他人からして見ればそれは途轍もなく偉大で誇りある実績なのだろう。実際に、もしも他人が同じことをしたというのなら、何も知らない自分は盛大な拍手を送り酒を贈ったことだろう。
だが、そんなもしもはない。あの日からだ……命を奪うたびに苦しむようになったのは。若者が悪人を殺して功績を上げ喜ぶ姿を見て笑えなくなったのは。
英雄になんざなるものじゃねぇ。
腹の奥底に溜まった穢れは増すばかり。
過去の栄光は厄介事を引き連れて、戦場へと振り回される。
そしてまた必要な命と不必要な命の選択を迫られる。
あの少女の言葉が忘れられない。
——必要なら殺しはしないでしょう。不必要だから殺すのよ。
本当に、本当にそうなら……いったい、あの時殺してしまった俺は……。
「失礼、バルザーク殿。起きておられますでしょうか?」
領都のギルド本部の空き部屋にて療養中のバルザークの部屋の扉が叩かれる。声の主はレイだろう。
「何の用だ? 今度はどっちのフレイズが騒いでやがる?」
「……入らせて頂きますね? どっちの、と言われましても……どちらも騒いでは居られませんよ。徴兵を進めたいレガート卿と、近隣住民の安全を優先したいヴィシャン様が協議をなされているだけで」
「どっちも騒いでんじゃあねぇかよ……ちっ、痛えなクソっ」
部屋に上がり込んできたレイの報告に嫌味を返せばまだ完治していない顎の骨の痛みで思わず呻いてしまう。
「かなりの大手術だったと聞きますが、そのマスクは固定具ですか? 少し顔が愛らしくなりましたね」
「てめえ、俺があまり喋れねえと思ってバカにすんじゃあ……うがっ」
「はは、なんのことやら。ヒナトでは随分荒い歓迎をして頂きましたからそのお礼ですよ」
「いいからさっさと要件を話やがれ」
寝台の上に腰掛けながら、入り口の前で立って笑っている女騎士をせっつく。無駄話でまた傷を刺激しては堪らない。
「報告は三つ。ヴィシャン様は既に快復しております。不思議ですね、バルザーク殿よりも重症だったはずだというのに。医者の当たり外れでもあったでしょうか?」
「知るか、次」
「二つ目、これはレガート卿からですが……ヴィシャン様や私だけでなく、ギルドマスターとしての立場から一度話を直接伺ってみたいと」
「そりゃ筆談でもいいのか?」
「三つ目、最近領都の冒険者が数名姿を消しております。はじめはモンスターの襲撃を受けて逃げ出した者が出たのかと思われていましたが……どうやらそうではない、戦争のために領都にやってきた外部の上級冒険者も含まれているそうです。こちらは領都本部のギルドマスターより、その弱った体で出歩くな、調査はこちらに任せるように。とのことです」
「弱った体ってのはお前が付け足したんじゃねぇだろうな。アイツが俺にそんな言葉を使えるタマじゃねぇのは知っている、が……」
「あらあら、大変ですね。長話はこれくらいにしておきましょう。医者に薬を頼んできます」
そうして慌てたように踵を返したレイが、ドアノブに手を触れてから立ち止まり、振り返った。
「悔しい敗戦でした。逃亡を選択することしかできなかった未熟を恥じています。本当ならば命ある限り抗い、民のために散るべきこそが騎士の誉だったのではないかと毎夜後悔に魘されるのです。次こそは……民を取り返すために必ず勝ちましょう……それでは」
静かに扉が閉まる音がして、木の床が軋む音が遠のいていく。
「魔王の言葉を鵜呑みにしてんじゃねぇよ」
あの船の中にどれだけの人間が詰められていたのかはわからないが、集めるということは何かの目的があるのだろう。
魔王は開拓という言葉を使ったが……あれはどう考えてもこちらを刺激するための言葉を選んでいた。そんな挑発をする奴が本気で約束を守るはずがない。
結局今回もまた、バルザークは殺したのだ。
唯一魔王に対抗できる可能性のあるフレイズのガキ。わざわざ魔王自ら傷を負わせて戦場から離そうとしたのは何かしらの企みもあるのだろう。
それでも、ラグネルの名を捨てアルヴァリア貴族の英雄として立ったアレには背負わせなければならない。
英雄が、どれだけの不必要な犠牲の上に立っているのか。先頭に立ったその時から、進むたびに人が死ぬ。後に退いても人が死ぬ。
フレイズ家がこれから流す血のことを考えても仕方がない。
「冒険者殺し、か」
最初に動くならばこれだ。
不必要な血を流す者、突き止めてやろうではないか。そうすればきっと、少しの間くらいはあの少女も夢に現れるのはやめてくれるかもしれない。




