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第3話/一夜で生まれる要塞


 聖ミカエル峠へ向かう軍用車の荷台は、鉄の箱みたいに冷えていた。


 薄い鉄板の壁が、車輪に跳ねる石の振動をそのまま返してくる。ぎし、ぎし、と軋むたびに尻の下の木板が震え、エリアーナの背骨まで細かく揺れた。外套の裾にはもう乾ききらない泥が染みついていて、乾いた部分は板みたいに硬く、湿った部分は冷たく膝に貼りついている。


 小窓の外では、曇天の下に荒野が広がっていた。


 木は少ない。背の低い黒ずんだ灌木がまばらに生え、風に薙がれた草が地面に寝ている。ところどころに砲撃で抉れた穴があり、その縁には浅い水が溜まり、鉛色の空を濁して映していた。遠く、峠の方角では煙が細く何本も昇っている。戦線がそこにあるのだと、言葉より先に目でわかった。


 向かいに座るヴェルナー少佐は、無駄口を叩かなかった。


 外套の襟を立て、膝の上に地図を広げている。荒い紙に引かれた線は、ところどころ泥で滲み、鉛筆の跡が指の腹で擦れて灰色にぼやけていた。彼の指は節くれ立っていて、爪の間に黒い汚れが残っている。昨日の夜襲が終わっても、前線の兵士の手はきれいになどならないのだと思った。


「緊張しているか」


 不意に言われて、エリアーナは顔を上げた。


「……はい」


 正直に答えると、少佐は鼻で息を吐いた。


「結構だ。緊張しない人間は死ぬ」


 慰めでも激励でもない、ただの事実の言い方だった。


 車の天井を叩く風の音が強くなる。隙間から入り込む冷気は、鉄と湿布と油の匂いを運んでくる。その中に、かすかに血の乾いた匂いも混じっていた。


「聖ミカエル峠は、この戦線の喉だ」


 ヴェルナー少佐は地図を指で叩いた。


「ここを抜かれれば後背の平地へ敵が雪崩れ込む。砲兵も補給も都市も、芋づる式に食われる」


 峠を示す一点には、何本もの線が集まり、そこから先が大きく開けていた。紙の上の記号なのに、そこが破れた時の広がりだけは嫌というほど想像できた。


「連隊規模で抑えていたが、三日持たなかった。崖側の陣地が崩れ、尾根の塹壕は砲撃で半分消えた。今朝の時点で司令部は後退線の準備に入っている」


「……そこへ、私が」


「呼ばれた」


 少佐はそこでようやくエリアーナを見た。


「将軍閣下は実利の人だ。使えるなら拾う。使えないなら捨てる。お前を聖女として見るか、見世物として見るかは、今夜次第だ」


 その言葉は冷たいのに、妙にすっきりと胸に落ちた。


 聖堂の言葉はやさしい形で人を切った。けれど軍の言葉は、刃を隠さない。その分だけ、どこか呼吸がしやすかった。


 頭の奥で、クラウスが小さく笑う。


「嫌いじゃない手合いだな。城を建てる時、感傷で現場を止める奴が一番困る」


「……本当に、一夜で何とかなるのでしょうか」


「何とかするんだよ、お嬢さん」


 ぶっきらぼうなのに、その声には妙な確信があった。


「峠は狭い。狭い場所は守りやすい。地形に噛みつくように壁を置け。人間が足りないなら、なおさら形で戦わせる」


 言われた瞬間、エリアーナの頭の中に、まだ見ぬ峠の輪郭がぼんやりと浮かぶ。狭い道。逆斜面。岩肌。敵が登ってくる細い首。そこへ厚みを持った壁をはめ込む。射線は重ねる。前面だけではなく、下り側、横、退路まで。


 息を吸うと、空気が冷たく肺を刺した。


 車が止まった。


 荷台の扉が開いた瞬間、風が吠えた。


 峠の空気は前線の泥地よりさらに冷たい。高所特有の乾いた刃みたいな風が頬を切り、鼻の奥へ石の粉と火薬の匂いを押し込んでくる。耳のすぐ近くで、どこかの砲が鳴った。遅れて、山肌が低く唸る。


 聖ミカエル峠は、傷だらけの大地だった。


 山と呼ぶには低いが、尾根と呼ぶには鋭い稜線が連なり、その間の狭い鞍部に道が一本だけ通っている。その道を守るはずの陣地は、無惨に破れていた。土嚢は裂け、木柵は折れ、砲撃で抉れた穴が連なって、もはや線ではなく穴だらけの布切れみたいになっている。


 崖側には白っぽい岩が剥き出しになり、そこへ砲弾の煤が黒くこびりついていた。吹きさらしの風の中に、焦げた土と湿った血の匂いがまだ残っている。兵たちの顔は土埃で灰色にくすみ、唇は乾いてひび割れていた。


 その中央に、ひときわ動かない男が立っていた。


 長身。黒に近い軍服。肩章に刻まれた金属の星は泥に汚れているのに、目だけが異様に澄んでいる。年齢は四十前後だろうか。整った顔立ちなのに、そこにあるのは優雅さではなく、刃物みたいな硬さだった。


 アイゼンハルト将軍。


 名を告げられる前に、エリアーナはそうだとわかった。


 彼の周囲だけ、風の流れが違うように感じる。兵士も副官も伝令も、その視線の届く範囲では余計な身じろぎをしない。人の上に立つ者の静けさではない。勝つためのものだけを選び取り、要らないものを切り落とし続けてきた者の静けさだった。


「貴官が件の聖女か」


 声は低く、よく通った。


 エリアーナは喉を締めつけられながら一礼する。


「エリアーナ・ルーミスです」


「治癒の出力不足で前線送りになったと聞く」


 真正面からそう言われ、胸の奥が一瞬だけ縮む。だが将軍はそこで止まらなかった。


「そして昨夜、半壊した塹壕に二基の銃座を一夜で築き、夜襲を潰した」


 鋭い灰色の目が、エリアーナの泥の染みた外套に落ちる。


「確認する。あれは偶然か」


「……違います」


 言い切るまでに、ほんの半拍だけかかった。怖かった。だが怖さより先に、昨夜、自分の掌の下で土が応えた感触が蘇る。


「意図して、作れます」


 将軍の口元が、わずかに動いた。笑ったのではない。ただ、値踏みの秤がひとつ傾いた気配がした。


「ならば証明してもらおう」


 彼は片手で崩れた峠の陣地を示す。


「敵の再攻勢は夜明けだ。こちらに残された工兵資材は乏しく、後退準備は進行中。私は退く案を取ってもよい」


 その静かな声の下で、周囲の参謀たちが息を詰める気配がした。


「だが貴官が『一夜』でこの喉を塞げると言うなら、見る価値はある」


 風が強く吹き、外套の裾が翻る。唇が乾いていた。エリアーナは舌先で湿らせる。鉄と埃の味がした。


「一夜、ください」


 絞り出した言葉に、将軍は即答した。


「許可する」


 あまりにも早い許可だった。


「ただし失敗した場合、この峠は捨てる。その時は貴官もここに置いていく」


 脅しではない。これもまた、ただの事実だった。


「……承知しました」


「必要なものは?」


 クラウスの声が頭の奥で立て続けに走る。石材。壊れた梁。砲架の残骸。鉄線。崖の下の礫。土を掻く人手。水。灰。割れた煉瓦。使えるものは何でも。


 エリアーナはひとつひとつを口にした。将軍は一度も遮らず、副官へ短く命じていく。命令が走る速度が速い。質問も、躊躇もない。


 やがて彼は最後に一言だけ付け足した。


「私は奇跡を信じない。だが結果は信じる」


 それが、この場で彼から与えられる最大の信頼だった。


 日が落ちると、峠は別の顔をした。


 空は濃い群青から墨へ沈み、尾根の線だけがかろうじて残る。風はさらに冷え、岩肌にぶつかるたびに笛みたいな音を立てた。灯火は覆いをかけたものだけが許され、足もとには頼りない橙の輪がいくつも揺れる。その揺らぎの中で、兵たちが黙々と資材を運んでいた。


 割れた石を抱えた兵の肩から白い息が上る。鉄線を引きずる音が、乾いた岩肌を擦って耳に残る。水桶が傾くたびに、冷たい飛沫が地面へ散って黒い斑点を作った。


「まず首を作れ」


 クラウスが言う。


「敵が登ってくる道を、細く見せてさらに細くする。真正面の壁だけじゃ駄目だ。登った先に次の口を作れ」


 エリアーナは崖側へ立ち、掌を岩混じりの土へ当てた。


 冷たい。硬い。泥地とは違う。けれどその奥に、繋がるものがある。土と石と砂と水。ばらばらのものが混じり合って、まだ形を待っている。


 祈りを紡ぐ。


 指先から熱が落ちる。掌の下でざらつきが増し、細かな粒が寄り集まり、きし、と音を立てて締まっていく。夜の暗さの中で、灰白色の面がゆっくりと立ち上がった。厚い壁。人の胸ほどの高さでは足りない。さらに高く、しかし背後の射界は塞がない角度で。壁の正面は少し傾け、砲撃を受け流すように。


「そうだ。配合を意識しろ」


「……はい」


「水が多すぎると痩せる。石を噛ませろ。砕いた煉瓦も入れろ。強度が出る」


 エリアーナには本来わからないはずのことが、声に導かれるたび自分の知識みたいに腑へ落ちる。兵たちが運んできた砕石を混ぜる。灰を混ぜる。壊れた壁から剥がした硬い破片も混ぜ込む。掌の下で、素材が性質を変える。


 新しい壁が夜の中に伸びた。


 それはただの塀ではなかった。峠の道を絞り、登ってきた敵が自然と右へ流されるように角度がつけられている。その先には、やや低い二本目の壁。さらに斜面の陰に、見えにくい予備陣地。


「逆斜面だ」


 クラウスの声が低くなる。


「真正面から見えない所に人を隠せ。砲撃は見えるものを叩く。見えない所に牙を残せ」


 エリアーナは言われるまま、尾根の裏側へ回り込んだ。風がさらに強い。耳元で唸り、外套の裾を奪おうとする。そこに小さな凹地があった。人が伏せれば隠れられるが、今のままではただの窪みだ。そこへ掌を当て、低い壁と銃座を起こしていく。


 灰白色の構造物が夜の中で次々に生まれる。


 前面陣地。連絡壕。退路。横へ抜ける細い通路。予備陣地。射線は一本ではなく重ねる。敵が一枚目の壁を越えた時、二枚目と側面が噛む。崖沿いを回れば逆斜面が噛む。退こうとすれば上から見下ろす位置が噛む。


 気づけばエリアーナの髪は汗で額に貼りつき、指先は痺れていた。冷たいはずの夜気の中で、背中だけがじっとりと熱い。喉は渇き、飲んだ水は石の味がした。


「……こんなものを、本当に」


「城ってのは、思いつきで積むもんじゃない」


 クラウスが小さく笑う。


「誰かを生かすための理屈を、形にするんだ」


 その声は一瞬だけ遠くなった。


「俺も昔、誰かのためにこうして城を築いた」


 エリアーナは息を止める。


「誰の、ために……?」


 しばし沈黙が落ちた。風の音と、遠くで鉄を打つ音だけが耳に入る。


「……聖女だ」


 それだけだった。


 だがその一行の重さは、夜気より深く胸に沈んだ。問い返そうとした時には、クラウスはもう仕事の声に戻っていた。


「おしゃべりは後だ。左の角が甘い。そこじゃ斜面下を取れない」


 夜は削られていった。


 兵たちは最初こそ半信半疑だったが、灰白色の壁が一本、また一本と尾根を噛んでいくほどに顔つきが変わった。疲労で沈んでいた目の底に、火が戻る。誰も大声を出さない。だが石を運ぶ足は速くなり、土を掻く鍬の音は揃っていく。


 ヴェルナー少佐は新しい陣地を見て、短く命令を加えるだけだった。兵をどこへ置くか、どの銃をどこへ回すか。彼の声は夜の中でよく切れた。


 そしてアイゼンハルト将軍は、一度も手を出さず、ただ見ていた。


 灯火を背に立つその影は黒く、しかし目だけは薄明かりを拾って鋼みたいに光っている。疑いも、期待も、その顔からは読めない。ただ、結果を測る秤だけがそこにある。


 やがて東の果てが、ほんのわずかに薄んだ。


 夜明け前の、世界が息を止める時間。


 最後の壁が立ち上がる。


 エリアーナは掌を離し、その場でよろめいた。足が震える。膝から力が抜けそうになる。だが目の前の光景を見た瞬間、痛みも疲労も一瞬だけ遠のいた。


 昨夜まで破れた布切れみたいだった峠の陣地が、まるで別物になっていた。


 灰白色の壁が折れ線を描き、道を絞り、尾根へ噛みついている。前面の主壁は厚く、砲撃を受け流す斜面を持ち、その背後には二段目の銃座。側面へ回れば狭い連絡路があり、その先に逆斜面の予備陣地が隠れている。崖際の死角だった場所には低い防壁が追加され、尾根の肩には見張り台めいた張り出しまで生まれていた。


 要塞。


 そう呼ぶしかなかった。


 夜明けの最初の光が、その輪郭を冷たく照らし出す。白でも銀でもない、石と鉄の間みたいな色が、峠そのものの骨になって屹立していた。


 その姿を見て、しばらく誰も言葉を発しなかった。


 風だけが吹いている。


 その時、視点がふっと遠のくように、エリアーナの意識は峠の向こう側へ滑った。


 敵陣。


 荒野の端に立つ敵将が、朝靄の向こうにそれを見ていた。馬上の外套が風にはためく。副官が何か報告しているが、彼は聞いていない。ただ峠に生まれた灰白の塊を見上げ、顎をわずかに引く。


「……これは」


 低い独白。


「人の所業ではない」


 その一言が、峠を渡る風に乗って届いたような気がした。


 エリアーナは自分でも知らぬうちに、胸元の聖印を握っていた。


 熱い。


 銀ははっきりと熱を持ち、鼓動に合わせて脈打つ。その奥で、自分でも設計した覚えのない奇妙な感覚がひとつだけ残っていた。


 要塞の一角。

 連絡路の先。

 逆斜面と主壁を繋ぐ細い回廊。


 そこだけ、形が違う。


 敵を止めるための構造であるはずなのに、どこか澄んだ空気が通るような、祈りを流すための管みたいな感触がある。


「……これ、何ですか」


 エリアーナが心の中で問うと、クラウスは珍しくすぐには答えなかった。


「……さあな」


 低い声が返る。


「だが、覚えておけ。たぶんそいつは、必要になる」


 風がまた強く吹いた。


 アイゼンハルト将軍が、ついに要塞の前へ歩み出る。軍靴が砕石を踏む音が、静寂の中ではっきり響いた。彼は新たに生まれた主壁に手袋越しの手を当て、その硬さを確かめるように一度だけ叩く。


 それから、エリアーナを振り返った。


 灰色の目が、昨夜とは違う温度でこちらを見ている。


 見世物を見る目ではない。

 道具の耐久を測る目でもない。

 戦場で使えるものを、明確に戦力として認識した目だった。


 その時、頭の奥でクラウスが、ほとんど独り言みたいに呟いた。


「あの女が、まだ生きているなら……気をつけろ」


 エリアーナははっとする。


「あの女?」


 問い返した瞬間、将軍の背後で伝令が駆け込んできた。新しい報告書を差し出す手が、寒さではなく急ぎで震えている。アイゼンハルトが封を切る間、クラウスはそれ以上何も言わなかった。




 夜明けの光は、もう峠全体に届いていた。


 灰白の要塞は、荒野のただ中に異物みたいにそびえている。


 そして戦線のさらに遥か向こうでは、まだ誰も知らない場所で、黒衣の少女が一枚の報告書を白い指先で撫でていた。


 その唇が、ゆっくりと弧を描く。


「——クラウス。ようやく見つけた」


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