第2話/祈りが土を呼ぶ夜
夜の底には、色がなかった。
砲煙の薄膜が塹壕の上に垂れこめ、月も星も濁らせている。焚火はとっくに消えて、湿った土の匂いと、火薬の焦げた匂いと、人の汗が冷えて鉄みたいに変わった匂いだけが残っていた。
エリアーナは泥の中に膝をついたまま、動けなかった。
耳のすぐ横で聞こえた男の声が、まだ皮膚の内側に残っている。
「お嬢さん、その地形は、少し手直しが要る」
低く、ざらついた声だった。老兵のようでもあり、職人のようでもあり、どこか投げやりなのに、不思議なくらいよく通る。息を呑んで振り向いても、そこには誰もいない。崩れた土壁と、泥にまみれた銃剣と、疲れ切った兵士たちの背中があるだけだ。
「だ、誰ですか……?」
かすれた声は、自分でも頼りなかった。
返事はすぐに来た。
「騒ぐな。頭の中で聞け。そういう距離に、どうも俺はいるらしい」
頭の中。
その言葉に、背筋がぞわりと粟立つ。冷気とは別の震えが肩から腕へ落ちていった。エリアーナは胸元の聖印を握りしめる。銀が熱を持っている。昨夜までの氷みたいな冷たさは消え、脈打つような微熱が、掌の中心をじっと焦がしていた。
「……夢では、ないんですか」
「夢なら、もっと気の利いた場所に出るさ。こんな泥穴じゃなくてな」
その声には、乾いた苦笑が混じっていた。
エリアーナは喉を鳴らした。怖い。けれど、怖いだけではなかった。あの崩れた土壁に触れた時の異様な手応えが、まだ指先に残っている。湿った泥がきしりと締まり、石のようなものに変わった感触。あれが夢でないのなら、この声もまた現実なのだ。
「お前さん、さっき壁を固めただろ」
「……私には、何が起きたのか」
「祈りが土を拾った。いや、正確には違うな。お前さんの中にあるものが、土を形にした」
男は一瞬だけ黙り、それから少し低い声で言った。
「俺はクラウス。工兵だった」
工兵。
聞き慣れないわけではない。陣地を築き、橋を架け、塹壕を掘り、壁を作る兵たち。けれど聖女である自分の頭の中に、その工兵がいる理由はまるでわからなかった。
「なぜ、私の中に……?」
「知らん。気がついたら居た。もっとも、俺にも思い当たる節がまるでないわけじゃないが……今は後だ」
その最後だけ、妙に苦かった。
エリアーナが問い返そうとした時、塹壕の向こうから怒号が飛んだ。
「伝令! 敵の斥候だ! 夜明け前に来るぞ!」
空気が一変する。
疲れ切っていた兵士たちの背筋が立ち、泥に沈んでいた足が持ち上がる。銃の機関部を引く金属音。弾薬箱の蓋が乱暴に開かれる音。誰かが短く悪態を吐き、別の誰かが笑う。笑い声は乾いて、すぐに消えた。
ヴェルナー少佐が曲がり角から現れた。外套の裾に泥を跳ね上げ、鋼色の目で塹壕をひと目で舐める。
「半壊した壁は?」
「応急で押さえてますが、次弾で終わりです」
「機銃座は?」
「左翼が死んでます。射線が通りません」
短く飛び交う報告の合間、少佐の視線がエリアーナに止まる。あからさまに期待していない目だった。
「聖女殿。祈りで夜襲を退けられるか」
皮肉にも聞こえる問いだったが、その奥には、わずかな焦りがあった。
エリアーナは息を詰める。できるかどうか、わからない。そもそも自分の力なのかどうかもわからない。怖くて、掌が汗ばむ。
すると頭の奥で、クラウスが吐き捨てるように言った。
「壁が足りない。土嚢の高さも角度も悪い。左は死角、右は射界が狭い。このままじゃ棺桶だ」
次々と飛び込む言葉に、エリアーナの視界が勝手に変わる。
濡れた土壁の線。崩れた角。窪地。敵が走り込むだろう暗がり。月明かりの代わりに、頭の中へ白い線が引かれていくようだった。ここに小さな銃座。ここに厚い壁。二つを交差させれば、正面から来る敵はこの細い帯に入った途端、横からも撃たれる。
ありえない。けれど、見える。
「……一夜」
気づけば声が出ていた。
ヴェルナー少佐の眉が動く。
「何だ」
「一夜……いえ、夜明けまで。時間をください」
「何をする?」
泥の匂いが濃い。湿った風が頬を撫でる。遠くで砲声が転がった。エリアーナは唇の内側を噛み、血の味を確かめる。逃げたい気持ちはあった。失敗すれば笑われるだけで済まない。ここにいる人たちが死ぬ。
それでも、あの感触を知らないふりはできなかった。
「壁を、作ります」
沈黙が落ちた。
次の瞬間、近くの兵が低く笑う。だがヴェルナー少佐は笑わなかった。暗闇の中で、彼の目だけが鋭く細くなる。
「……包帯ではなく壁、か。言ったそばからそれを持ってくるとは」
少佐は一歩寄る。濡れた革手袋の匂いがした。
「できるのか」
「わかりません」
正直に答えると、自分でも情けなくなる。だが、嘘はつけない。
「ですが、やります」
ヴェルナーはしばらく黙っていた。やがて短く息を吐く。
「ここが墓場だと覚悟は決めていた」
その声には、諦めの硬さがあった。
「妹が後方都市にいる。あそこまで敵を通せば終わる。なら、試す価値はある」
妹。
その一言で、少佐がただの鋼の軍人ではなくなった。守りたい誰かの顔が、彼の背後に一瞬だけ見えた気がする。
「必要なものを言え」
クラウスが即座に言う。
「人手。つるはし。木材。壊れた石材。土嚢の中身は全部こっちだ。左翼の折れた梁も使える」
エリアーナは、頭の中の声をなぞるように口にした。兵たちが怪訝な顔をする。だがヴェルナーはもう止めなかった。
「聞いたな。動け」
命令が走る。
そこからの数時間は、祈りというより工事だった。
兵士たちが泥を掻き、折れた板を引きずり、砕けた石を積み上げる。湿った木のささくれが手袋を通しても指に刺さりそうで、掘り返された土からは冷えた水と腐草の匂いが噴き上がった。エリアーナはその中心で、膝まで泥に浸かりながら壁に触れる。
「ここだ。角を殺すな。厚みを持たせろ」
「はい……!」
「違う、祈りは上じゃない。下から持ち上げるんだ。土に形を思い出させろ」
クラウスの声は、荒っぽいのに不思議と明瞭だった。
エリアーナは目を閉じる。掌の下で泥が脈打つ。ぬるく、冷たく、ざらつき、粘る感触。その全部の中に、まだ固まりきっていない何かがある。祈りの言葉を紡ぐと、それがゆっくりと締まり始めた。湿り気を吐き、重さを変え、均一な硬さへ移っていく。
灰白色の塊が、夜の中でじわりとせり上がる。
兵たちが息を呑む気配がした。
ひとつ目は、腰の高さほどの厚い壁。
ふたつ目は、その先に張り出した小さな銃座。
さらに逆側へ、もうひとつ。
トーチカ。
エリアーナにはその呼び名すら知らなかったが、クラウスの言葉が形に変わる。低く、丸く、厚く、銃口だけを覗かせる小陣地。二基を少しずらして配置すると、正面の泥濘地帯に見えない刃が交差した。
「交叉射撃だ。真正面から来る奴は、どっちかじゃなく両方から食らう」
クラウスが満足げに言う。
エリアーナは息を切らしたまま、自分の掌を見る。泥にまみれた指先が小刻みに震えていた。怖い。けれど同時に、掌の奥から熱がせり上がってくる。これは治癒の奇跡ではない。誰かの傷を塞ぐ力ではなく、誰かを守る壁を立ち上げる力だ。
夜は深く、冷たかった。
それでも作業が進むほど、塹壕の空気が変わっていく。半信半疑だった兵士たちの眼差しに、次第に色が戻る。崩れた壁の代わりに新しい灰白の面が立ち上がり、そこへ銃を置く場所ができ、背を預けられる厚みが生まれるたび、沈んでいた気配が少しずつ持ち上がる。
「本当に……壁だ」
「冗談じゃねえ、石みたいに固い」
「いや、石より均一だ」
囁きが走る。
フランツが新しい銃座を叩き、低く唸った。
「お嬢さん、こいつは大したもんだ」
その声音には、昨夜までの気遣いとは違う熱があった。
やがて東の空が、墨の底にごく薄い灰を混ぜたようにわずかに明るみ始めた。
夜明けだ。
同時に、前方の闇が揺れた。泥濘地の向こう、低い地平の上に人影が現れる。ひとつ、ふたつ、十、二十。銃剣の先が、朝の最初の光を鈍く弾いた。
「来るぞ!」
叫びとともに、世界が張り詰める。
敵の先鋒が突っ込んできた。泥を蹴り、喉を裂く声を上げ、崩れたままの塹壕を期待して走り込んでくる。だがそこにはもう、昨夜までの弱い壁はない。
「撃て!」
ヴェルナーの号令。
次の瞬間、二基のトーチカが火を噴いた。
轟音。閃光。硝煙が鼻を刺す。左から右へ、右から左へ、見えない線が正面の泥濘地を切り裂く。敵兵たちは走りながらその帯に踏み込み、次々と弾かれたように倒れた。前へ出ようとする者の脇腹を横から撃ち抜き、伏せた者の背を反対側から叩く。
交叉する火線。
泥が跳ねる。叫びがちぎれる。金属と火薬の匂いが一気に熱を帯びた。
エリアーナは壁に手をついたまま、それを見ていた。自分が作ったものが、人を守り、人を止めている。恐ろしいのに、目が逸らせない。
ヴェルナー少佐は新しい銃座から身を乗り出し、正確に指示を飛ばしていた。フランツは笑っていた。獣じみた、前へ向く者の笑いだった。
「通るかよ、この野郎ども!」
夜襲は、完璧に止まった。
敵の先鋒が崩れ、後続がたじろぎ、やがて角笛が短く鳴って退いていく。泥濘地の上に朝靄が流れ、その中に倒れた影だけが残された。
静寂が戻る。
銃声の残響で耳がじんじんした。焦げた火薬の匂いが喉に刺さり、冷えた朝の空気が肺を洗う。エリアーナの膝は泥で重く、掌は擦れて赤くなっていた。それでも、立っていられた。
東から差した細い光が、胸元の聖印に触れる。
銀ははっきりと熱を持ち、小さく、しかし確かに発光していた。
フランツが振り向く。泥まみれの顔の皺に、朝日が引っかかった。
「あんた、本物の聖女だよ」
その一言が、胸の奥へまっすぐ落ちた。
治癒の出力値でも、聖堂の順位でもない。王都で何度も否定された自分の名が、今はじめて別の形で呼ばれた気がした。
エリアーナは自分の掌を見つめる。
泥と血と、灰白の粉がついている。美しい手ではない。聖堂にいた頃の白く整った指ではない。
けれど、その震えはもう怯えだけではなかった。
この手は、壁を作れる。
守るための形を、ここに呼べる。
その確信が、小さく、けれど確かに胸の内で芽を出していた。
朝日が塹壕の縁を越え、灰色の要塞じみた二基のトーチカを照らす。昨夜までただの泥穴だった場所が、今は別の顔をしていた。
その時、伝令兵が息を切らして飛び込んでくる。
「ヴェルナー少佐! 司令部より急使! 本件戦果、戦線司令へ直通報告済み!」
ヴェルナーが封書を受け取り、ざっと目を走らせた。その鋼色の目が、わずかに細くなる。
「……早いな」
「な、何と?」
兵士の問いに、少佐は紙を畳む。
そして、ゆっくりとエリアーナを見た。
「戦線全体を統べるアイゼンハルト将軍閣下が」
朝の冷気の中、その名だけが妙に重く響いた。
「——面白い。呼べ、とのことだ」




