第1話/追放聖女、泥の前線へ
鐘の音が、石の高天井に幾重にも跳ね返っていた。
王都大聖堂の朝は、いつも清らかな香の匂いで満ちている。磨き抜かれた白大理石の床は、色硝子から落ちる光を薄く映し、祭壇の金細工は目が痛くなるほど眩しかった。
けれど今日のエリアーナには、そのどれもが冷たかった。
香は甘いのに息が詰まり、光は美しいのに目を細めるしかない。足もとの石は冬の井戸水のように冷え切っていて、薄い靴底越しにじわじわと熱を奪ってくる。
聖堂の中央に、彼女はたった一人で立たされていた。
白い法衣の裾が、緊張で小さく震えている。両手を腹の前で重ねていても、その震えは隠せなかった。胸元の聖印は銀の円環に小さな十字を組み合わせた意匠で、幼い頃から肌身離さず与えられてきたものだ。
けれど、その聖印は今、氷の欠片みたいに冷たい。
祭壇の上から見下ろしてくる大司教ユリウスは、いつもと同じ慈愛深げな顔をしていた。白い髭はよく整えられ、金糸の法衣は一片の皺もない。だが、その声に含まれる温度は、朝の石床と同じだった。
「エリアーナ・ルーミス。治癒祈祷の実測値、規定下限に届かず。過去三期にわたり改善も認められない」
左右に並ぶ司祭たちが、書板をめくる乾いた音を立てる。
「聖女第七等級相当。後方医療院への再配置案も検討されたが」
そこで、わずかな間が空いた。
エリアーナは視線を上げられなかった。睫毛の先に、床の白がにじむ。
「昨今の戦況を鑑み、前線慰問および補助任務への転属が妥当であると判断された」
前線。
その一言で、聖堂の空気がさらに薄くなった気がした。
背後の席から、誰かが小さく息を呑む。別の誰かが、ああ、という同情とも安堵ともつかない音を漏らした。自分ではない誰かが選ばれたことにほっとした声だと、エリアーナにはわかった。
「……異議、ありません」
喉が張りついて、声は自分のものではないように掠れた。
大司教は静かに頷いた。
「これは罰ではない。神は、すべての子に役割を与えられる」
「はい」
「聖女の価値は、奇跡の大きさによって測られる。癒やせぬ者に癒やしの座はない。だが、祈りを捧げること自体はできる」
やさしい口調だった。
だからこそ、言葉の形をした刃は深く沈む。
癒やせぬ者に癒やしの座はない。
それは、聖女見習いの頃から何度も聞かされてきた教えだった。熱病の子どもを一晩で起き上がらせる上級聖女。切断寸前の腕を繋ぐ高位聖女。血を吐く兵を撫でるだけで歩かせる奇跡。
エリアーナには、そのどれもできなかった。
祈れば、少し熱が下がることはある。痛みがわずかに和らぐこともある。けれどそれだけだ。誰もが目を見張るような光は起こせず、神殿の記録官たちは彼女の名の横に、つねに小さな数値しか書かなかった。
「……私の祈りは、無意味なのでしょうか」
気づけば、口が勝手に動いていた。
司祭たちの何人かが眉をひそめる。だが大司教は怒らなかった。ただ少しだけ、遠いものを見る目をした。
「無意味ではない。だが、戦場では結果がすべてだ」
その言葉が、最後だった。
石の大聖堂は、誰の肩も抱かない。
判決が下ると、式はあっけないほど迅速に終わった。書類に印が押され、法衣の一部が回収され、前線派遣用の灰色の外套が渡される。白から灰へ。たったそれだけで、自分が聖堂の外へ押し出されていくのがわかった。
控え廊下で、大司教が一人だけ追ってきた。
高窓から差す光が、長い影を床に落としている。香の匂いは薄れ、代わりに古い石と蝋の匂いがした。
「エリアーナ」
呼び止められ、彼女は立ち止まる。
「……はい、大司教様」
「恨んでいるか」
まっすぐな問いだった。
エリアーナは少しだけ考え、それから首を振った。
「恨む資格も、ないと思っています」
「そうか」
大司教は目を伏せた。その表情から何かを読み取ろうとして、けれどエリアーナは失敗する。いつものように穏やかで、いつものように遠い。
「聖女には階がある。高みに立つ者は多くを救い、低き者は限られた務めを果たす。それが秩序だ」
「はい」
「前線でも祈りを絶やすな。たとえ、小さな奇跡しか起こせずとも」
小さな奇跡。
慰めのつもりか、線引きの確認か、彼女にはもうわからない。
ただ、胸の聖印だけがひやりと震えた。
一瞬だった。
冷たい銀が、肌の上で生き物のように触れた気がして、エリアーナは思わず手で押さえた。だが次の瞬間には、ただの金属に戻っている。
「どうした?」
「い、いえ……少し、冷たくて」
大司教はそれ以上追及しなかった。
「道中、気をつけなさい」
それだけ言って去っていく背中は、いつも通り立派だった。
なのにエリアーナは、なぜだか見送ることができなかった。
◇ ◇ ◇
王都を出た軍馬車は、半日も進むうちに道の色を変えていった。
白い石畳は土に変わり、整った畑は踏み荒らされた荒れ地に変わる。遠くの空は、いつの間にか灰色の雲に占められていた。窓の外に黒い木の骨みたいな森が流れ、時折、地の底から唸るような低音が聞こえる。
砲声だった。
腹の奥に響く鈍い音に、エリアーナは思わず肩をすくめる。
同乗の兵士たちは慣れたものだった。誰も顔色を変えず、煙草を噛み、油の染みた銃を膝に立てている。汗と鉄と湿った毛布の匂いが車内にこもり、胃が少しだけ縮んだ。
夕方、馬車が止まった。
扉が開いた瞬間、冷えた風と一緒に泥の匂いが雪崩れ込んでくる。腐った草と湿った土、煤、汗、血の名残り。王都で嗅いだことのない、重く生々しい匂いだった。
「降りろ、聖女殿」
兵士に促されて地面へ足を下ろした途端、靴がぬかるみに沈んだ。
ずぶり、と嫌な音がした。
思わず裾を持ち上げたエリアーナの前に、塹壕が口を開けていた。大地を爪で引き裂いたような溝。壁は崩れ、土嚢は破れ、黒い水が底に溜まっている。空気は冷たいのに、どこもかしこも湿っていた。
ここが前線。
そう理解した瞬間、胸の奥が静かに冷えた。
塹壕の曲がり角から、一人の男が現れる。濡れた軍靴で泥を踏みしめ、肩に外套を引っかけたまま歩いてくるその姿は、祈りとは無縁の世界そのものだった。
頬には浅い古傷。鋼色の目。疲れているはずなのに、獣みたいな鋭さだけが失われていない。
「ヴェルナー少佐だ」
案内の兵が小声で告げた。
少佐はエリアーナの灰色の外套と、胸の聖印を一目見た。それだけで事情を悟ったのだろう。口の端が、かすかに歪む。
「なるほど」
低い声だった。乾いていて、砂を噛むみたいだ。
「神は後方に戻られたかと思っていたが。まだ前線を見捨てちゃいなかったらしい」
周囲の兵が二、三人、気まずそうに目を逸らす。
嘲りだとわかった。それでもエリアーナは反射的に頭を下げた。
「本日付で配属されました、聖女エリアーナです。治癒と慰問補助を」
「治癒?」
ヴェルナー少佐はそこで、はっきり鼻で笑った。
「うちに必要なのは包帯より壁だ。祈りで弾が止まるなら歓迎するがな」
返す言葉が出てこない。
湿った風が頬を打つ。遠くでまた砲声が鳴り、空気がかすかに震えた。
その瞬間、なぜかエリアーナの視線は正面の地面へ吸い寄せられた。崩れた塹壕の角度。水の溜まり方。砲弾が抉った跡の向き。土嚢が低すぎる場所と、高すぎて視界を塞いでいる場所。
見ようと思ったわけではない。
なのに、ひどく気になった。
ここが浅い。あそこは角が死んでいる。あの位置では横から撃たれる。
頭の奥で誰かが囁いたような気がして、エリアーナは慌てて瞬きをした。
「……聖女殿?」
案内兵の声に、はっとする。
「す、すみません」
ヴェルナー少佐は怪訝そうに彼女を見たが、興味を失ったように肩をすくめた。
「寝床を与えろ。明日まで生きていれば、何か役に立つこともあるだろう」
そう言い残し、泥を蹴って去っていく。
残されたエリアーナは、浅い呼吸を繰り返した。前線の空は低く、雲は重く、夕暮れはひどく早い。王都で聞いていた戦場の悲惨さは、話で聞くのと立つのとではまるで違った。
泥は、こんなにも重い。
夜になると冷え込みが増した。
塹壕の底では焚火さえ大きくできず、兵たちは缶の薄いスープをすすって黙り込んでいる。焦げた豆と塩の匂い。湿った外套。火の赤い明かりの向こうで、誰かが咳き込むたび、空気がさらに寒くなった気がした。
エリアーナは配られた毛布を膝にかけ、小さく身を縮める。
王都では、眠る前に祈りの時間があった。清潔な寝台と、静かな燭台と、遠くで鳴る鐘の音。ここにあるのは泥と鉄と、時折空を裂く砲声だけだ。
「お嬢さん」
不意に、隣から声がした。
振り向くと、髭まじりの古参兵が木杯を差し出していた。日に焼けた顔に深い皺を刻み、片耳の上が少し欠けている。
「熱いのは今だけだ。飲んどけ」
「……ありがとうございます」
受け取った木杯は、掌がびりっとするほど熱かった。中身は薄い酒に何か薬草を混ぜたものらしく、苦くて、でも喉に通ると少しだけ体の芯がほどけた。
古参兵は口の端を上げる。
「フランツだ。三十年ここらの泥と付き合ってる」
「エリアーナです」
「知ってる。今日は新入りが来るって話だったからな」
フランツは火の向こうを見ながら言った。
「明日の朝まで生きてろよ、お嬢さん」
軽口めかしているのに、その目だけは本気だった。
エリアーナは返事に詰まる。縁起でもない、と笑うべきなのかもしれない。けれどこの場所では、それが冗談にならない。
「……はい」
「それで十分だ」
フランツはそう言って、自分の杯をあおった。
その夜半、砲撃が来た。
最初の一発は、遠くで地面を叩いた。次の一発は近く。三発目で、塹壕の土壁が目に見えて震えた。
誰かが叫ぶ。
「砲撃! 頭を下げろ!」
空気を裂く音。次の瞬間、世界がひっくり返った。
轟音と一緒に土が降る。湿った泥が顔に張りつき、鼻と口に土の味が流れ込んだ。耳がきんと鳴り、何がどこにあるのかわからなくなる。火は消え、夜は一瞬で真っ黒になった。
エリアーナは咄嗟に頭を庇ってしゃがみ込む。
頭上で何かが崩れる鈍い音がした。塹壕の壁だ。湿り切った土が裂け、支えを失ってどさどさと落ちてくる。近くの兵が短く悲鳴を上げた。
「こっちだ、早く!」
「埋まるぞ!」
怒号。泥。鉄の匂い。焦げた火薬の刺すような臭気。
闇のなかでエリアーナは必死に手を伸ばし、崩れた土壁に触れた。
冷たい。ぬるい。粘りつく。
誰かを助けなければ、と思った。けれど自分の治癒では間に合わない。ならせめて、これ以上崩れないように。ほんの少しでも、壁がもってくれるように。
祈りの文句が唇からこぼれる。
「主よ、どうか——」
その瞬間だった。
指先の泥が、ぴたりと震えた。
ぬめる感触が急に重さを持つ。水気を含んだ柔らかな土が、内側から締まっていく。指の腹にざらりとした粒の硬さが生まれ、冷たさの質が変わった。
まるで、泥の奥で石が育つみたいに。
「え……」
エリアーナは息を呑んだ。
手のひらの先、崩れた壁の一部に、灰白色の塊が覗いていた。石でも、土でもない。滑らかで、角ばっていて、砲弾で抉れた穴を埋めるようにわずかにせり出している。
小さな、小さな欠片。
握り拳ほどしかないそれは、けれど明らかにこの場にあるはずのないものだった。
また砲声が鳴る。
我に返ったエリアーナは、弾かれたように手を引いた。灰白色の塊はそのまま壁に残り、降る泥をかろうじて受け止めている。
息が速い。胸が痛い。何をしたのかわからない。
わからないのに、指先だけがその感触を覚えていた。
泥ではない。石に近い。いや、もっと人工的な、均一な硬さ。祈りのあとに残る治癒の光とは、まるで違う。
「今の……何……?」
呟いても、砲声が掻き消した。
応急の作業が続き、夜が少しだけ静まったころには、エリアーナの外套も髪も泥だらけになっていた。頬に張りついた土は乾いてひび割れ、唇は鉄の味がした。
誰にも言えなかった。
言ったところで、自分でも説明できない。
塹壕の片隅で膝を抱え、彼女はさっき触れた指先を見つめた。細い指だ。祈りのためにしか使ってこなかった手。傷一つなかったはずの掌に、泥が爪の間まで入り込んでいる。
その汚れた手が、ほんのわずかに震えていた。
恐怖のせいか。
寒さのせいか。
それとも、あの異様な手応えを思い出しているからか。
胸元で、聖印が微かに光った。
見間違いかと思うほど弱い、月の欠片みたいな光だった。
エリアーナは息を止める。
次の瞬間には、もう消えていた。
砲煙の薄く漂う夜の底で、彼女はそっと泥を握った。冷たくて、重くて、どうしようもなく汚れているはずのそれが、なぜか少しだけ違って感じられる。
すると。
耳のすぐそばで、聞こえるはずのない男の声がした。
「お嬢さん、その地形は、少し手直しが要る」




