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第4話/築城聖女と呪う聖女


 夜の峠は、出来たばかりの要塞ごと冷えていた。


 昼のあいだに兵たちが踏み固めた通路は、夕刻を過ぎるとまた薄く湿り、靴裏の下でざり、と鈍い音を立てる。風は昼より強く、尾根に築かれた灰白色の壁を撫でるたび、細い笛みたいな音を鳴らした。新しく生まれた主壁はまだほのかに夜気を吸っておらず、触れると石と鉄の中間みたいな冷たさが掌へ返ってくる。


 エリアーナはその壁に手を当て、そっと息を吐いた。


 昨日まで何もなかった場所に、自分の祈りが残っている。


 そう思うだけで胸の奥が少しだけ熱くなるのに、今夜はその熱が落ち着かなかった。落ち着こうとするたび、聖印が胸元でかすかに震える。熱を持った銀が、衣越しに小さく脈打っている。


「落ち着かねえな」


 頭の奥で、クラウスが低く言った。


 彼の声にも、昨夜までにはなかった硬さが混じっていた。普段なら職人めいたぶっきらぼうさで済ませるはずなのに、今は妙に言葉が短い。


「……あの女、って?」


 エリアーナが心の中で問いかけると、少し間があった。


「来るかもしれん」


「誰が?」


「俺が、会いたくなかった奴だ」


 それだけ言って黙る。


 風がまた強く吹き、要塞の角を回ってきた冷気が頬を切った。鼻の奥には火薬の残り香と、乾いた岩肌の粉っぽい匂いが入り混じっている。夕食代わりの薄いスープの塩気がまだ舌に残っていたが、落ち着かないせいで味はほとんど覚えていなかった。


 要塞の上では兵たちが交代で警戒に立ち、低い声でやり取りしている。新しい壁は昼の砲撃にも耐え、敵は日没まで本格攻勢を仕掛けてこなかった。だからこそ、不気味だった。


 静かすぎる。


 戦場の静けさは、安堵ではなく次の何かの前触れだと、ここ数日で嫌というほど知ってしまった。


 主壁の向こうから軍靴の音がした。振り向くと、アイゼンハルト将軍が二人の副官を従えて歩いてくる。風を受けても姿勢が崩れず、黒い軍服の裾だけが規則正しく揺れていた。


「異常は?」


「……今のところ、ありません」


 エリアーナが答えると、将軍は短く頷く。


「敵は日中に砲撃を重ねたが、損耗は軽微。貴官の要塞は想定以上に機能している」


 褒めているのに、声音はあくまで平坦だった。だがその平坦さが、かえって重みになる。結果だけを見る人間が結果を認めた。その事実が、胸のどこかに静かに沈んだ。


「しかし」


 将軍はそこで視線を夜の荒野へ向ける。


「敵がここまで手こずった以上、次は別の手を打つ」


 その言葉の直後だった。


 主壁の下、連絡壕に近い一角で、ぱき、と乾いた音がした。


 小枝でも折れたような小さな音だった。だが次の瞬間、その場所の表面がざらりと崩れる。灰白色だった外壁の一部が、急に色を失い、乾いた砂みたいにさらさらと零れ落ちた。


「……え」


 エリアーナは息を呑む。


 崩れた範囲は最初こそ掌ほどだった。だが砂化は止まらない。内側へ、下へ、じわじわと染みていく。硬いはずの壁が音もなく痩せ、輪郭が削れ、表面に赤茶けた筋が浮かび上がる。埋め込んだ鉄材は一気に酸化したみたいに黒く錆び、触れた兵士が慌てて手を離した。


「何だこれは!」

「劣化してる……いや、こんな速さで!?」


 兵たちの声に焦りが混じる。


 エリアーナは駆け寄り、壁へ手を当てた。冷たい。けれど、昨夜までの硬さではない。内側から何かに食われているみたいに、構造が空洞になっていく感触がある。祈りの下でひとつに結び直したはずの粒が、逆にばらばらへ解かれていく。


 聖印が熱い。


 熱いのに、同時に胸の奥がぞっと冷える。何か悪いものが近くにいる。そう皮膚が先に知った。


「下がれ」


 アイゼンハルト将軍の声が鋭く飛ぶ。同時に副官たちが兵を後退させる。ヴェルナー少佐も駆けつけ、崩れた箇所をひと目見て舌打ちした。


「砲撃じゃない」


「呪いだ」


 クラウスが、吐き捨てるみたいに言った。


 その声は今まででいちばん低く、硬かった。


「……クラウス?」


「来やがった」


 次の瞬間、風の流れが変わる。


 荒野の闇の向こうから、ひと筋だけ黒い線が歩いてきた。敵兵の隊列ではない。馬でもない。たった一人。夜の底を切り取ったみたいな黒衣が、月もない暗さの中で逆にくっきり見える。


 兵たちの間に、ひりつくような沈黙が広がった。


 その少女は、敵味方の中間にあたる荒地で立ち止まる。


 年の頃は、エリアーナとそう変わらないように見えた。長い黒髪は風にほどけず、墨を流したように背へ落ちている。顔立ちは整っている。白い。異様なくらい白い。だがその白さは聖堂の大理石のような清浄ではなく、月も差さない井戸の底で長く眠っていた骨の色に近かった。


 黒い法衣の裾に、灰が乗っている。


 胸元には聖印。


 エリアーナのものとどこか似ていて、けれど決定的に違う意匠。こちらが円と十字なら、あちらは円の内側に棘のような線が幾つも絡みついている。見ているだけで胸がざわついた。


 少女はまっすぐエリアーナを見上げた。


 距離はあるはずなのに、その視線だけが指先で頬をなぞるみたいに生々しい。


「こんばんは、築く聖女」


 声は柔らかかった。


 鈴のように澄んでいるのに、どこか湿った土の匂いを含んでいる。耳へ入った瞬間、背筋の奥に冷たい水が落ちた。


「はじめまして、と言うべきかしら」


 少女は薄く笑う。


「それとも、久しぶりと言うべき?」


 エリアーナの唇が乾く。何を返せばいいのかわからない。ただ、頭の奥ではクラウスがひどく荒い息をしていた。


「……リーゼ」


 初めてだった。


 クラウスの声が、目に見えるみたいに震えたのは。


 少女――リーゼは、その震えを聞いたように目を細める。愉快そうでもあり、懐かしそうでもあり、ひどく残酷な微笑だった。


「やっぱり居るのね、クラウス」


 その名を呼ばれた瞬間、エリアーナの胸元の聖印がびり、と震える。自分の鼓動とは別の脈がそこに走った。


「あなた、彼の新しい器ね」


 リーゼの目が、エリアーナの全身をゆっくりとなぞる。


「何人目かしら?」


 意味がわからないのに、その言葉だけで胃の奥が冷えた。器。何人目。自分が自分ではなく、何かの入れ物として見られた感覚に、反射的な嫌悪が走る。


「……あなたは、誰ですか」


 絞り出した声は、自分で思っていたよりずっと硬かった。


 リーゼは首を傾げる。黒髪がさらりと揺れ、その下の頬だけが妙に白い。


「呪術聖女、リーゼ」


 その名乗りと同時に、崩れた壁がさらにざらりと音を立てる。赤茶けた錆が縦に走り、硬かったはずの灰白色が、握ればこぼれそうな砂へ変わっていく。


「築く者がいるのなら、壊す者だって必要でしょう?」


 楽しそうな声音だった。


「それが私」


 兵たちの間に緊張が走る。銃口がいくつもリーゼへ向いた。だがアイゼンハルト将軍は撃てと命じない。ただ鋭い目で少女と崩れる要塞を同時に見ている。


 値踏みしている。


 敵として。脅威として。対策可能かどうかを。


 エリアーナは崩れる壁からリーゼへ視線を戻した。怖い。見ているだけで、自分の中の何かまで剥がされそうだ。けれど同時に、ここで目を逸らしてはいけないとわかっていた。


「どうして、こんなことを?」


「あなたにはまだ関係ないわ」


 リーゼは笑みを崩さないまま答える。


「でも彼には関係がある」


 その視線が、エリアーナの胸の奥――クラウスのいる場所へ真っ直ぐ突き刺さる。


「ねえ、クラウス。今度は誰を守るつもり?」


 頭の内側で、クラウスが息を呑む気配がした。


 その一瞬の揺れが、エリアーナにも伝わる。いつもなら乱暴でも確かな声が、今はどこかひび割れている。


「……すまない」


 掠れた声だった。


「お前さんを巻き込んだ」


 エリアーナは一瞬だけ目を見開く。


 巻き込んだ。


 その言葉は重かった。けれど不思議と怒りは湧かなかった。ここまで来る間に見たもの、築いた壁、守った人たち、その全部がすでに自分の中へ入ってしまっている。今さら「私は関係ありません」とは言えない。


 むしろ胸の奥には、別の熱があった。


 崩されるのが悔しい。

 守りたいものを壊されるのが、悔しい。


 その感情は聖堂にいた頃の自己否定より、ずっとはっきりしていた。


「……一緒に戦います」


 自分でも驚くほど静かな声が出た。


 クラウスが黙る。


「だから、教えてください。あれを止める方法を」


 リーゼが、わずかに眉を上げる。予想外の返答だったのかもしれない。だがすぐにまた、あの静かな笑みへ戻った。


「へえ」


 風が吹く。崩れた砂が散る。錆の匂いが夜気へ混じる。


 クラウスはしばらく何も言わなかった。やがて、ひどく低い声で言う。


「前に作った回廊、覚えてるな?」


「……浄化の、回廊」


 自分でも意味を知らずに作った、あの奇妙な感触のある一角。


「たぶんあれだ。あいつの呪いは結び目を腐らせる。なら逆に、結び目を洗え」


「洗う……?」


「壁そのものじゃない。中を通る流れを作るんだ。清めて巡らせろ。要塞全体を一個の祈りに変えろ」


 言葉の意味は難しいのに、感覚はわかった。


 要塞はただの物体ではなく、自分の祈りで繋いだ構造物だ。ならその繋ぎ目へ、今度は浄化の流れを通せばいい。主壁から連絡壕、逆斜面、予備陣地、回廊。血管みたいに巡らせる。


「できますか」


 自分で自分に問うように呟く。


 するとクラウスが、ほんの少しだけいつもの調子を取り戻した。


「やるんだよ、お嬢さん」


 エリアーナは深く息を吸った。


 冷たい夜気。火薬。錆。崩れた砂。兵たちの汗の匂い。その全部が肺へ入り、胸の内でひとつになる。主壁の上へ駆け上がり、崩れた箇所の近くに膝をつく。灰白色だったはずの面は半分以上が砂化し、指を置くだけでさらさらと崩れた。


 聖印が熱い。


 両手を壁へ当て、目を閉じる。


 最初に感じたのは、腐食だった。黒い糸みたいなものが、要塞の内側を這っている。硬く結んだ粒と粒のあいだに入り込み、縛り目を一本ずつ解いていく。冷たいのに、嫌に粘る。これが呪い。


 なら。


 その逆を流す。


 エリアーナは祈る。治癒の祈りではない。傷を塞ぐのではなく、濁りを押し流し、崩れた形をもう一度結び直すための祈り。昨夜感じたあの奇妙な回廊を起点に、主壁へ、側壁へ、連絡路へ、逆斜面へ。要塞全体の中を細い光の筋が走るイメージを、必死に離さない。


 掌の下で、冷たさの質が変わった。


 ざらついていた砂が、ぴたりと止まる。ばらばらになっていた粒が、今度は内側から寄り集まり始める。腐食を押し返すように、澄んだ流れが構造を満たしていく。


 回廊が脈打つ。


 見えないはずなのに、エリアーナにははっきりわかった。要塞の内部を、淡い白い光が走っている。白は主壁を巡り、連絡壕を抜け、逆斜面の銃座へ届き、また戻ってくる。その流れが通った場所から、赤茶けた錆が薄れ、砂化した表面が再び硬さを取り戻していく。


「……っ」


 熱い。今度は掌だけではない。腕、胸、喉、額の奥まで熱が昇る。けれど嫌な熱ではなかった。自分と要塞が同じ鼓動で脈打っているような、不思議な一体感だった。


 兵たちがどよめく。


「戻ってる!」

「壁が……!」

「白い筋が……見えたぞ、今」


 リーゼの笑みが、初めてほんのわずかに浅くなった。


「へえ。そこまで出来るんだ」


 崩壊は止まり、再構築が始まる。


 ただ元へ戻すだけでは足りない。エリアーナはそのまま祈りを深めた。浄化の流れを前提に、結び目を増やす。腐食が入ってきた時に逃がさず、洗い、押し返す回路を、要塞の中へ新しく組み込む。


 主壁の内側へ細い縦の導路。

 連絡壕の角へ浄化の節点。

 逆斜面と主壁を結ぶ回廊を太く、深く。


 複合要塞。


 ただの壁ではない。守る構造と、清める機構が一体になった新しい形。


 最後に、エリアーナは掌を壁から離した。


 夜風が吹き抜ける。


 そこに立っていた主壁は、さっきよりわずかに白く見えた。表面には薄い光沢が宿り、内部ではかすかな脈動が生き物みたいに続いている。崩れていた箇所はすべて塞がり、むしろ前より強くなっていた。


 リーゼはその光景を静かに見ていた。


 黒髪が風に揺れ、白い頬に細い影が差す。やがて彼女は小さく肩をすくめる。


「今日はここまでにしてあげる」


 余裕を失ってはいない。ただ、今夜この場で奪いきるのは難しいと判断した声音だった。


「でも、築く聖女」


 その目が、再びエリアーナを射抜く。


「あなたの物語は、ここから先ほどけていくわ」


 背筋が冷える。


 けれど今度のエリアーナは、目を逸らさなかった。


「いいえ」


 声は震えなかった。


「これは、私の物語です」


 一瞬だけ、リーゼの瞳に別の色がよぎる。驚きか、興味か、それとも遠い記憶か。だが次の瞬間には消えていた。


「……そう」


 黒衣の少女はくるりと踵を返す。敵陣へ向かって歩き出す背中は軽く、まるで夜そのものが彼女を運んでいくみたいだった。やがて闇へ溶け、その白い顔だけが最後まで残り、完全に見えなくなる。


 風だけが残った。


 張りつめていた空気が、そこでようやく少しだけ緩む。兵たちの間から、押し殺していた息がいくつも漏れた。誰もまだ勝った顔はしていない。だが壊されなかった。その事実だけで、夜の中へ確かな足場が戻る。


 エリアーナは壁に手をついたまま、浅く息を繰り返した。足が震える。指先の感覚が薄い。けれど立っていられる。崩されても、立て直せた。


 その時、背後から軍靴の音が近づいた。


 アイゼンハルト将軍だった。


 彼は再構築された主壁を見上げ、内部を巡るかすかな白の脈動を確かめるように目を細める。副官もヴェルナー少佐も黙っていた。ここで将軍が何を言うかを待っている。


 やがて、将軍はエリアーナの正面へ立った。


 夜風の中、その灰色の目は静かで、揺るぎがない。


「エリアーナ・ルーミス」


「……はい」


「貴官を」


 言葉は短く、はっきりしていた。


「国家戦略資源として正式登録する」


 その瞬間、胸のどこか深い場所で何かが音を立てて定まった気がした。


 聖堂では数値で測られ、足りない者として切り捨てられた。前線では最初、役に立たない慰問係として見られた。だが今、目の前の現実を基準に生きる人間が、自分を戦力として名指しした。


 国家戦略資源。


 重い言葉だった。誰かの所有物みたいでもある。けれど同時に、それはもう「無価値」ではないという宣言でもあった。


 ヴェルナー少佐が隣で短く息を吐く。その口元に、わずかな苦笑が浮かんだ。


「包帯より壁、か。訂正しよう。お前は壁そのものだ」


 兵たちの間に、小さな笑いが走る。疲れた、けれど生きている者の笑いだった。


 エリアーナは思わず胸元の聖印を押さえた。


 まだ熱い。

 そして、どこか遠くで別の鼓動が微かに共鳴している。


 リーゼの聖印。


 白と黒。築くものと呪うもの。起源を同じくするかのような不気味な脈の響きが、夜の底にまだ残っていた。


 アイゼンハルト将軍は要塞の上から地図を広げる。夜気に晒された紙がぱさりと鳴り、彼の指がその中央の一点を押さえた。


「次の任務だ」


 指先の先には、峠よりはるか後方の大きな円。複数の街道が交わり、川が流れ、城壁記号すらない、むき出しの都市。


「——都市そのものを、築いてもらう」


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