力のいらない世界
殴るな。
蹴るな。
力を使うな。
――だが、逃げるな。
その瞬間だった。
「……っ!」
クラスメイトが、男の腕を振りほどいた。
一瞬の隙。
必死の判断。
そのまま、走る。
「待て!」
男が追いかけようとするが、
周囲の視線に気づいたのか、足を止めた。
「チッ……」
舌打ち。
それだけで、終わった。
男たちは、何事もなかったかのように去っていく。
残ったのは、
静かな路地と、
何もしなかった俺。
(……解決した)
拍子抜けだった。
俺が動かなくても、
声をかけなくても、
殴らなくても。
――人は、自分で逃げることができる。
その事実が、
胸の奥に、じわりと残った。
そのまま、駅へ向かう。
交差点の先が、騒がしかった。
事故だ。
車。
倒れた自転車。
集まる人。
だが、混乱はなかった。
「救急車、来てます!」
「警察も到着しました!」
救急隊が動き、
警察が整理する。
誰も、俺を必要としていない。
俺が何もしなくても、
社会は、正確に回っている。
(……そういう世界か)
異世界では、
俺がいなければ終わっていた。
だが、この世界では違う。
制度がある。
役割がある。
代わりがいる。
俺の力は――
ここでは、不要だ。
足を止め、空を見上げる。
(徳を積む場所じゃない)
力も、
善意も、
俺の判断も。
ここでは、邪魔にしかならない。
(……無理だな)
諦めたというより、
腑に落ちた。
ここでは、
俺は何者でもない。
徳を積む修行なんて、
成立しない。
――それでも。
異世界に、帰りたい。
ここは、俺のいる場所じゃない。
どうしたら帰れる?
徳を積めないのに?
本当に、積めないのか?
諦めるしか、ないのか?
問いは、答えにならないまま残る。
考えながら、
俺は歩き出した。
――修行は、まだ続いている。
だが、
終わらせたいと思いながらも、
終われない自分が、
確かに、そこにいた。




