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徳は、思ったより簡単じゃない

その日の放課後。


 廊下の端で、クラスメイトが掃除道具を前に立ち尽くしていた。


「今日、部活あってさ」

「掃除、代わってくんない?」


 悪びれた様子はない。

 頼みごとというより、確認に近い。


「……いいぞ」


 断る理由もなかった。


 バケツを持ち、雑巾を絞る。

 床を拭きながら、気づく。


 最初は「助かる」と言っていたはずなのに、

 途中から、誰も何も言わなくなった。


 終わったあと。


「サンキ」

「じゃ、また頼むわ」


 軽い声。

 約束でもないのに、次がある前提。


(……ああ)


 これは、違う。


 徳を積んだ感覚は、なかった。

 ただ、都合のいい位置に立っただけだ。


 そのまま、帰り道。


 電車に乗ると、目の前に年配の男性が立っていた。

 吊革を掴む手が、わずかに震えている。


「どうぞ」


 立ち上がって言う。


 一瞬の沈黙。

 次の瞬間。


「……まだそんな歳じゃない」


 低い声。

 周囲の視線が集まる。


「余計なことするな」


 そう言って、男は別の場所へ移動した。


 俺は、空いた席に立ったままになった。


(……今のも、違うな)


 善意だった。

 少なくとも、そう思っていた。


 だが、相手にとっては違った。


 駅を降りる。


 足元に、黒い財布が落ちていた。


 拾い上げ、中を確認する。

 身分証と現金。


 迷わず、交番へ向かう。


「はい、預かります」


 警官は事務的に受け取った。


「連絡先は?」


 答える。

 書類を書く。


「以上です」


 それだけだった。


 礼も、感謝もない。

 当たり前の処理。


 外に出て、空を見る。


(……さて)


 殴っていない。

 傷つけていない。

 やるべきことは、やった。


 それなのに。


(徳を積んだ、感じがしない)


 頭の中で、女神の声がかすかに蘇る。


『最適解を捨て続けることだ』


(捨てたつもりだ)


 だが、違う。


 俺は、

 「徳になる行動」を選ぼうとしていた。


 それ自体が、

 もう最適解を探している。


(……なるほど)


 今日は、三回失敗した。


 だが。


 どれも、殴らなかった。

 怒鳴らなかった。

 正しさを押し付けなかった。


 それだけは、守った。


(修行は、続く)


 徳を積むのは、

 どうやら、思っていたより面倒らしい。


 俺は、空を見上げず、

 ただ前を向いて歩いた。

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