第6話 世界法違反者『改稿後』
銀色の鎧をまとった一団が、冒険者組合の空気を塗り替えた。
それまで遠巻きに様子を見ていた冒険者たちは、誰に命じられたわけでもないのに壁際へ下がっていく。酔いつぶれていた男さえ目を覚まし、酒瓶を抱えたまま口を閉ざした。
先頭に立つ男は、周囲の反応を確認することなくクオリアだけを見ていた。
年齢は四十前後。短く刈った灰色の髪に、傷一つない銀の鎧。腰には細身の剣を佩いているが、装飾品には見えない。抜かれていなくても分かる。あれは人を斬るための武器だ。
「特別監査対象、クオリア。世界法違反の疑いにより、貴殿の身柄を一時拘束する」
もう一度、男が告げる。
聞き間違いではないらしい。
「質問してもいいですか」
「許可する」
「世界法というのは?」
「この世界に存在する、変更不可能な基礎法則だ」
「俺はログインして一時間も経っていないんですが」
「違反の時期は問題ではない。違反した事実が問題だ」
「まだ事実と決まっていませんよね」
男の眉がわずかに動いた。
後ろに並ぶ騎士たちのうち、二人が剣の柄へ手を置く。
クオリアは両手を見える位置に上げた。
「抵抗するつもりはありません。ただ、何が疑われているのか知りたいだけです」
「始まりの草原において、広域法則への干渉が観測された」
やはり、あの力だった。
ノクスの黒炎を止めるために使った、名もない能力。
「時間を止めたことですか」
「時間停止ではない」
監査官は即座に否定した。
「対象範囲内に存在する運動、魔力循環、熱伝導、生命活動。そのすべてに停止命令が発生している」
カリウムが、小さく息を吐く。
塩酸も珍しく口を挟まなかった。
「そんなことが可能なのですか」
受付の女性が、恐る恐る尋ねる。
「可能であってはならない」
男の視線はクオリアから外れない。
「魔術には術式がある。技能には条件がある。奇跡には信仰が必要だ。だが、今回観測された現象には、そのいずれも存在しなかった」
「俺は、止まれと言っただけです」
「だから問題なのだ」
低い声だった。
「世界は、個人の言葉で従うものではない」
組合内が静まり返る。
クオリアは何も言い返せなかった。
自分でも異常だと分かっている。
生きたいと願った。
止まれと命じた。
それだけで、黒天竜の炎も、飛び散った土も、カルシウムたちさえ停止した。
便利な能力だと喜ぶには、影響が大きすぎる。
「拘束された後は、どうなりますか」
「鑑定、尋問、能力封印試験を行う」
「安全性は?」
「保証できない」
答えは早かった。
獣人の少女の耳が、ぴくりと動く。
「封印試験だと?」
男が初めてクオリア以外へ目を向けた。
「森の狩人か。関係者ではないなら下がれ」
「その試験で、こいつが死ぬ可能性は」
「ある」
あまりにも平然とした返答だった。
少女の右手が、弓へ近づく。
周囲の騎士たちが一斉に身構えた。
「やめてください」
クオリアが少女の前へ手を出す。
「助けてもらったばかりで、今度は街の騎士と戦わせるつもりはありません」
「お前、死ぬかもしれないと言われたんだぞ」
「聞こえていました」
「なら、なぜ止める」
「ここで戦えば、あなたまで犯罪者になるからです」
少女は理解できないものを見るように、クオリアを睨んだ。
「会ったばかりの相手を気にしている場合か」
「会ったばかりだからです」
「何?」
「あなたには、俺のために人生を捨てる理由がない」
一瞬、少女の表情が固まった。
クオリア自身も、立派なことを言いたいわけではなかった。
怖い。
拘束されるのも、得体の知れない試験を受けるのも嫌だ。現実へログアウトできるなら、今すぐ逃げたい。
だが、試そうとしても、視界の隅にあるはずのログアウト項目が灰色に変わっていた。
《重要イベント進行中のため、ログアウトできません》
最悪だった。
逃げ道がないなら、自分で選ぶしかない。
誰かを巻き込んで逃げるか。
危険を承知で監査を受けるか。
カリウムが、監査官へ一歩近づいた。
「特別監査官殿。一つ、確認してもよろしいですか」
「案内人か。発言を許可する」
「拘束命令は、世界監査局から正式に発令されたものですか」
その問いに、男は懐から黒い板を取り出した。
表面に銀色の紋章が刻まれている。盾を囲むように、七本の剣が並んだ紋章だった。
「監査局第三席、ヴァルガス・レインの名において執行する」
板から淡い光が広がり、空中へ文書が表示される。
《特別監査命令》
《対象:クオリア》
《容疑:未許可の世界法則干渉》
《危険分類:暫定黒級》
《命令内容:生存状態での確保》
最後の一文を見て、クオリアは少しだけ眉を寄せた。
「生存状態で、という書き方が不穏なんですが」
「死亡した場合、能力の回収が困難になる」
「俺の安全ではなく、能力が目的ですか」
ヴァルガスは否定しなかった。
その沈黙が答えだった。
「信用しないほうがよいですよ」
塩酸が、小さな声で言う。
「珍しく意見が一致しましたね」
「いつも一致しています」
「初耳です」
カリウムは空中の文書を見つめたまま、目を細めていた。
「おかしいですね」
「何がですか」
「発令時刻です」
クオリアも文書を見る。
《発令:本日、十一時五十九分》
サービス開始は正午だった。
一分前。
クオリアがB&Eへ入るより先に、拘束命令が発令されている。
組合内に小さなざわめきが生まれた。
ヴァルガスの表情は変わらない。
「記録上の誤差だ」
「世界監査局の正式文書に、時刻の誤差が生じるのですか」
「案内人。余計な詮索は職務外だ」
「ですが、対象となるプレイヤーの安全確認は我々の職務です」
カリウムの声から、普段の軽さが消えていた。
「命令は、彼が法則干渉を行う前に作成されている」
塩酸も続ける。
「つまり監査局は、クオリアさんが能力を使うことを事前に知っていた」
「偶然では説明できませんね」
ヴァルガスの右手が、ゆっくりと剣の柄を握った。
「それ以上の発言は、監査妨害と判断する」
「判断するのは、あなたですか」
クオリアの声だった。
言った後で、自分でも驚いた。
騎士たちの視線が集まる。
「監査局ですか。それとも、その命令を書いた誰かですか」
「何が言いたい」
「俺を拘束する理由が、能力を使ったからではない」
頭の中で、点が繋がり始めていた。
ギアスという存在しない種族。
世界干渉率。
始まりの草原で待ち構えていた黒天竜。
能力を使うたび増える観測者。
そして、ログイン前に作成された拘束命令。
「最初から、俺がここへ来ることを知っていた人間がいる」
ヴァルガスは答えなかった。
だが、沈黙は先ほどまでとは違った。
ほんの一瞬。
本当に一瞬だけ、その目に迷いが浮かんだ。
『正解』
頭の中へ声が響いた。
水晶の中で笑っていた影と同じ声。
優しく、静かで、耳元で囁かれているように近い。
『やはり、君は気づく』
クオリアは息を呑み、周囲を見回した。
「今、声が――」
言い終わる前に、組合の灯りがすべて消えた。
窓から差し込んでいた昼の光まで、黒い布で覆われたように途絶える。
悲鳴が上がった。
「全員、動くな!」
ヴァルガスの声。
剣が抜かれる金属音が、暗闇の中で連続する。
クオリアの足元から、冷たいものが這い上がった。
影だ。
暗闇とは違う。
意思を持った何かが、足首から膝、腰へと絡みついてくる。
「クオリア!」
少女の声が近くで響く。
手を伸ばそうとしたが、身体が動かない。
《観測者が接触を開始しました》
《世界干渉率:0.10%――0.25%》
《警告》
《外部存在による固有領域への侵入を確認》
「外部存在……?」
『そう呼ばれるのは、少し寂しいね』
すぐ背後から声がした。
振り返れない。
だが、そこに誰かが立っている。
肩へ手を置かれた。
感触はない。
それなのに、触れられた場所から体温だけが奪われていく。
『ずっと待っていた』
声は嬉しそうだった。
『君が、この世界へ来る日を』
「誰だ」
『今は、まだ名乗れない』
影がクオリアの胸元まで昇る。
『名前には力がある。特に、私たちのような存在にとってはね』
「俺を知っているのか」
『君が君になるより、ずっと前から』
意味が分からない。
問い返そうとした瞬間、胸の奥に何かが突き刺さった。
痛みはない。
代わりに、記憶ではない映像が流れ込んでくる。
崩れた城。
空を覆う黒い雲。
無数の影が跪く広間。
その最奥にある、誰も座っていない王座。
そして、王座の前に立つ一人の男。
顔は見えない。
だが、その影だけが、異様に大きい。
『帰っておいで』
声が囁く。
『君の席は、まだ空いている』
次の瞬間、銀色の光が暗闇を切り裂いた。
「離れろ!」
ヴァルガスの剣が、クオリアの背後へ振り抜かれる。
影が甲高い音を立てて弾けた。
光が戻る。
窓から昼の明るさが差し込み、組合内の景色が再び現れた。
クオリアはその場へ膝をつく。
肩で息をしながら背後を見るが、誰もいない。
床には、斬られたように二つへ裂けた影だけが残っていた。
それも数秒で溶けるように消えていく。
《観測者との接触が中断されました》
《観測者数:二名》
《一名が、あなたへの関心を強めました》
ヴァルガスは剣を構えたまま、消えた影を睨んでいた。
その顔には、初めて隠しきれない動揺があった。
「今のを知っているんですか」
クオリアが尋ねる。
ヴァルガスは答えない。
「俺を拘束する本当の理由と関係がありますよね」
「……計画を変更する」
男は剣を納め、背後の騎士たちへ命じた。
「対象の拘束を中止。護衛対象へ分類を変更する」
「急に何ですか」
「今の影が再び現れれば、この街では防げない」
ヴァルガスの目が、真っ直ぐクオリアを捉える。
「王都へ来てもらう」
「断ったら?」
「街が滅びる可能性がある」
脅しではない。
男の表情から、それが分かった。
クオリアは周囲を見る。
受付の女性。冒険者たち。カルシウムたち。助けてくれた獣人の少女。
誰もが、不安と警戒を浮かべている。
自分がここにいるだけで、危険が集まってくる。
ノクスも、監査局も、あの影も。
ゲームを始めただけだった。
家族と合流し、知らない世界を冒険する。それだけを楽しみにしていた。
なのに、世界は最初からクオリアを初心者として扱っていない。
「王都まで、どのくらいかかりますか」
「通常の馬車で七日。監査局の転移門を使えば、一時間だ」
「家族と連絡を取る時間はありますか」
「移動前に許可する」
それを聞き、クオリアは息を吐いた。
少なくとも、何も伝えず連れていかれるわけではない。
「分かりました。行きます」
「兄弟たちも同行します」
カリウムが当然のように言う。
「他人です」
塩酸が訂正する。
「今はそこ、どうでもいいですよ」
「私も行く」
獣人の少女の言葉に、クオリアは振り返った。
「どうして?」
「借りができた」
「俺は助けられただけですが」
「お前が止めなければ、私は監査官に矢を射ていた」
少女は不機嫌そうに視線を逸らす。
「犯罪者にならずに済んだ。その分を返す」
「名前も教えてくれないのに?」
「それは別だ」
どうやら、まだ教える気はないらしい。
ヴァルガスは少女を一度見た後、拒否しなかった。
「出発は三十分後だ。それまでに準備を済ませろ」
騎士たちが組合の入口を固め始める。
クオリアは立ち上がろうとしたが、足に力が入らなかった。
少女が無言で腕を差し出す。
少し迷い、その手を借りる。
「ありがとうございます」
「次に倒れたら置いていく」
「さっきも似たことを言っていましたね」
「今度は本当に置いていく」
口調は冷たい。
だが、掴んだ腕は、クオリアが立ち上がるまで離れなかった。
視界の隅では、警告文が今も残っている。
《観測者があなたを待っています》
《目的地:王都》
まるで、これから向かう場所を先回りして知っているかのように。
その文字を見つめながら、クオリアは先ほど見た王座を思い出していた。
誰も座っていない、黒い王座。
帰っておいで。
あの声は、そう言った。
だが、クオリアには帰った覚えなどない。
それでも胸の奥には、理由の分からない懐かしさが残っていた。
まるで、忘れているのは世界のほうではなく、自分自身なのだと告げるように。




