第4話 世界は初心者に優しくない『改稿後』
窪地の上を、巨大な影が横切った。
黒天竜ノクスは、まだクオリアを探している。
焼け落ちた草原の上空を何度も旋回し、そのたびに翼が生み出す風が灰を巻き上げた。黒い粉塵が空へ昇り、昼間だというのに周囲は薄暗い。
クオリアは身を低くしたまま、荒い呼吸を整えようとしていた。
生命力は十八。
全身には鈍い痛みが残り、脚にはまともに力が入らない。先ほどまでなら気にならなかった装備の重ささえ、今は身体へ食い込むように感じられた。
「回復する方法はないんですか」
声を抑えて尋ねると、塩酸が白衣の内側を探り始めた。
「初心者用の回復薬ならあります」
「あるなら早く出してください」
「ただし、一つ問題が」
「今度は何ですか」
塩酸が取り出したのは、小さな透明の瓶だった。中には鮮やかな緑色の液体が満たされている。見た目だけなら、いかにもゲームに登場する回復薬だ。
「非常に苦いです」
「問題というほどではないですね」
「飲んだ方の約二割が吐きます」
「問題ですね」
「吐いた場合、回復効果は消えます」
「もっと飲みやすく作れなかったんですか」
「良薬は口に苦しという思想のもと開発されました」
「誰の思想ですか」
「私です」
塩酸は誇らしげに胸を張った。
クオリアは瓶を受け取り、中の液体を見つめる。色だけなら青汁を数倍濃くしたように見えた。匂いを嗅いだ瞬間、草と薬品と泥を混ぜたような刺激が鼻を突く。
「これ、本当に飲み物ですか」
「分類上は」
「分類以外では?」
「武器にもなります」
「何を作ったんですか」
それでも背に腹は代えられない。
クオリアは覚悟を決め、瓶の中身を一気に飲み干した。
舌に触れた瞬間、苦味という言葉では説明できない何かが口内を蹂躙した。喉を通るたびに身体が拒絶し、胃に到達したところで本気で吐きそうになる。
「――っ、まず……!」
「吐かないでください」
「これを作った本人が言うんですか……!」
目に涙を浮かべながらも、どうにか飲み込む。
《初心者用回復薬を使用しました》
《生命力が三十回復しました》
生命力は四十八まで戻った。
完全には程遠いが、先ほどよりは身体が軽い。
「三十しか回復しないんですね」
「初心者用ですから」
「味だけは最上級ですよ」
「お褒めいただき光栄です」
「褒めてません」
カリウムは二人のやり取りを横目に、窪地の外を観察していた。
いつものふざけた調子が消えている。
「ノクスは、まだ我々の位置を特定できていません」
「匂いで見つけたりしないんですか」
「竜の感覚は個体によって異なります。ノクスは主に魔力と存在の歪みを感知します」
「存在の歪み?」
カリウムがクオリアへ視線を向ける。
「あなたです」
「俺?」
「正確には、あなたの種族と能力です。通常、この世界に存在するものは、どれほど強くても世界の法則から外れることはありません」
「さっき俺がやったことは外れている?」
「外れるどころか、法則そのものを書き換えました」
クオリアは黙り込んだ。
世界を止めた。
あの時は生き残ることだけを考えていた。何が起きるのかも分からず、ただ願いを言葉にした。
結果として、黒炎だけでなく、風も草もカルシウムたちさえ止まった。
あれが単なる時間停止ではないというなら、確かに普通の能力ではない。
「ノクスは、その歪みを感じ取ったのでしょう」
「つまり、俺が力を使ったせいで余計に狙われている」
「そう考えるのが自然です」
「使わなければ死んでいましたけどね」
「ええ。だから厄介なのです」
使えば目立つ。
使わなければ死ぬ。
強い力を得た喜びより、面倒なものを背負わされた感覚のほうが大きかった。
「ここから街まで、他に道はありませんか」
塩酸が地面へ指を立て、簡単な地図を描き始める。
「正面へ進めば二十分ほどで小さな街があります。ただし、このまま地上を走れば確実に発見されます」
「迂回路は?」
「北に森があります。木々に紛れれば、上空からは見つかりにくいでしょう」
「そこまでの距離は」
「全力で走って五分です」
五分。
短いようで、今の状況では長すぎる。
窪地から森までの間には遮蔽物がほとんどない。飛び出した瞬間に見つかれば、先ほどと同じ攻撃が来る。
「囮は使えますか」
クオリアが尋ねると、二人のカルシウムは同時に彼を見た。
「誰を囮にするつもりですか」
「俺以外です」
「ひどい」
「チュートリアル担当なら、プレイヤーを守る機能くらいあるでしょう」
「ありますよ」
「あるんですか」
「ただし、直接的な戦闘への介入は禁止されています」
「役に立たない規則ですね」
「我々もそう思います」
カリウムが溜息をつく。
「ですが、ノクスの注意を一時的に引く程度なら可能です」
「危険では?」
「我々は死亡しても再構成されます」
「軽く言いますね」
「死には慣れていますから」
その言葉に、クオリアは僅かに引っかかった。
NPCだから復活する。
そういう意味だろう。
だが、カリウムの声には、ゲームの仕組みを説明しているだけではない重さがあった。
「何度も死んだことがあるんですか」
問いかけると、カリウムは一瞬だけ目を細めた。
「長く存在していれば、それなりに」
それ以上は話すつもりがないらしい。
塩酸が地面の地図を指で消し、立ち上がった。
「私が西へ走ります。カリウムは東へ。クオリアさんは、ノクスがどちらかへ向かった瞬間に北の森へ」
「二人とも狙われたら?」
「祈ってください」
「その言葉、嫌いになりそうです」
「この世界では頻繁に使いますよ」
窪地の外から、低い唸り声が響いた。
空気が震え、焼けた土が細かく崩れる。
ノクスが近い。
三人は自然と声を潜めた。
「合図は?」
クオリアが尋ねる。
「私が叫びます」
「何と?」
「今です、と」
「普通ですね」
「では、カルシウム爆発、とでも」
「普通でお願いします」
カリウムは窪地の斜面へ足をかける。
「クオリアさん」
「何ですか」
「先ほどの能力は、可能な限り使わないでください」
「分かっています」
「いいえ。たぶん、分かっていません」
いつになく真剣な声だった。
「力を使うたび、あなたは世界から見つかりやすくなる」
「ノクスに?」
「ノクスだけではありません」
視界の端に残る文字が、クオリアの意識へ浮かぶ。
《観測者が一名増加しました》
誰かが見ている。
その正体は、まだ分からない。
「次に使った時、何が来るかは我々にも予測できません」
「使わなければ死ぬ場面でも?」
「その時は、選んでください」
冷たい答えではなかった。
カリウムの表情は、むしろ苦しげだった。
「何を守り、何を支払うのか。あなた自身が」
強い力ほど、使用者へ選択を要求する。
先ほど言われた言葉が、今になって重く感じられた。
「分かりました」
クオリアが頷くと、カリウムはいつもの笑顔へ戻った。
「では、始めましょう」
二人のカルシウムが、同時に窪地から飛び出した。
「こちらですよ、黒いトカゲ!」
西へ走った塩酸が、信じられないほど大きな声で叫ぶ。
「空を飛べるだけで偉そうにしないでください!」
東側ではカリウムが両手を振っていた。
「挑発の内容が子供っぽい!」
思わず呟いた瞬間、上空から凄まじい咆哮が返ってきた。
ノクスが二人を見つけた。
巨大な首が左右へ動き、どちらを追うべきか迷うように揺れる。
「クオリアさん、今です!」
カリウムの声が響く。
クオリアは窪地を駆け上がった。
焼けた大地へ飛び出し、北に見える森を目指して走る。
脚は重い。
生命力も十分ではない。
それでも、止まれば終わる。
背後で風が爆ぜた。
ノクスが動いた。
どちらへ向かったのか確認する余裕はない。振り返れば速度が落ちる。ただ前だけを見る。
森まで残り四百メートル。
三百メートル。
足元の地面に、黒い影が差した。
「嘘だろ……」
上を見なくても分かった。
ノクスはカルシウムたちではなく、クオリアを選んだ。
翼の音が近づく。
黒い鱗が空を埋める。
森までは、まだ遠い。
再び炎を撃たれれば間に合わない。
能力を使うか。
だが、使えばまた観測者が増えるかもしれない。幸運以外の何かを奪われる可能性もある。
何を支払うのか。
何を守るのか。
考えている時間はなかった。
その時、森の奥から一本の矢が飛んできた。
銀色の光を纏った矢は、クオリアの頭上を通り過ぎ、ノクスの右目へ突き刺さった。
竜が悲鳴を上げる。
巨体が空中で傾き、進路を大きく逸らした。
「走れ!」
森の中から、女の声が響いた。
「死にたくなければ、こっちへ来い!」
誰なのかを確認する余裕はない。
クオリアは声の方向へ全力で走った。
木々の間へ飛び込んだ直後、背後でノクスが地面へ降り立つ。
森全体が跳ね上がった。
幹が軋み、葉が舞い、根元の土が波のように盛り上がる。
クオリアは勢いを殺せず、地面を転がった。
「立て!」
腕を掴まれ、強引に引き起こされる。
目の前にいたのは、灰色の外套をまとった少女だった。
耳の横から、獣のものらしき黒い耳が伸びている。背には弓を背負い、鋭い金色の瞳でクオリアを睨んでいた。
「ぼさっとするな。あれは森の中まで追ってくる」
「助けてくれたんですか」
「質問は後だ。走れと言っている!」
少女はクオリアの腕を放し、森の奥へ駆け出す。
その背後で、木々が次々となぎ倒された。
ノクスが、翼を畳んだまま森へ頭を突っ込んでくる。
巨大な口が開き、低い唸り声が森を震わせる。
「しつこすぎる……!」
「お前、何をした!」
「ログインしただけです!」
「意味が分からん!」
「俺もです!」
二人は木々の間を縫うように走った。
少女は森の地形を熟知しているらしく、迷いなく進んでいく。クオリアは必死についていくが、生命力の減少と疲労で徐々に距離が開いていった。
足がもつれる。
木の根に引っかかり、前のめりに倒れそうになる。
その瞬間、少女が振り返った。
「遅い!」
「初心者に無茶を言わないでください!」
「初心者が黒天竜に追われるか!」
「俺に言われても困ります!」
少女は舌打ちし、腰の袋から小さな石を取り出した。
淡い青色に光っている。
「口を閉じろ」
「はい?」
「舌を噛むぞ」
石を地面へ叩きつける。
眩い光が弾け、足元に複雑な紋様が広がった。
《転移陣を確認しました》
《移動先:初心者街エルディア》
視界に文字が浮かぶ。
ノクスの咆哮がすぐ背後まで迫っていた。
「二人ほど足りません!」
カルシウムたちが森へ入っていない。
「待っている暇はない!」
「でも――」
「来たければ自分で来る! 死にたくないなら乗れ!」
選択を迫られる。
自分だけ街へ逃げるか。
カルシウムたちを待つか。
答えを決められずにいると、視界の隅で白いものが動いた。
森の入口から、二人のカルシウムが信じられない速度で走ってくる。
「置いていかないでください!」
「チュートリアル担当を忘れていますよ!」
「無事だったんですね!」
「再構成は面倒なので!」
二人が転移陣へ飛び込む。
直後、少女が陣を起動した。
青い光が四人を包み込む。
ノクスの牙が木々を砕き、クオリアたちへ迫る。
光が閉じる直前、竜の金色の瞳と目が合った。
怒っている。
だが、それだけではない。
あの瞳には、明確な知性があった。
そして、ノクスの口が僅かに動いた。
『見つけた』
声が聞こえた。
耳ではない。
頭の中へ、直接響いた。
次の瞬間、景色が青く塗り潰される。
地面の感触が消え、身体がどこかへ引き込まれた。
転移が始まったのだ。
《始まりの草原を離脱しました》
《チュートリアルクエストを達成しました》
《達成評価を算出中》
《評価:測定不能》
《特殊条件を満たしました》
《称号『災害に見初められし者』を獲得しました》
「いらない……」
クオリアの呟きは、転移の光に飲まれた。
こうして彼は、どうにか最初の草原を抜けた。
ただし、初心者が最初に手に入れる称号としては、あまりにも不吉なものを抱えたまま。




