第3話 逃げるための力『改稿後』
第3話 逃げるための力
黒天竜ノクスが翼を打つたび、空そのものが沈んだ。
遠くにいたはずの巨体が、一度羽ばたくごとに距離を削ってくる。黒い鱗は陽光を吸い込み、巨大な両翼の影が草原を覆った。
《個体名:黒天竜ノクス》
《推定ランク:Z》
《推奨行動:祈ってください》
視界に居座る警告文が、何度見ても役に立たない。
「逃げますよね?」
クオリアが確認すると、カリウムは竜を見上げたまま頷いた。
「もちろんです」
「なら、どうして二人とも動かないんですか」
「我々はチュートリアル担当ですから」
「答えになってません」
「プレイヤーの自主性を尊重しています」
「この状況で尊重しないでください!」
叫びながら、クオリアは走り出した。
背後から轟音が追ってくる。振り返らなくても分かる。ノクスは一直線にこちらへ向かっていた。
草を踏みしめる感覚。肺に入る冷たい空気。身体の重さ。すべてが現実と変わらない。それなのに、命の危険だけはゲームだと割り切れなかった。
頭では分かっている。
死んでも現実の身体が傷つくわけではない。おそらく復活地点へ戻されるだけだ。
だが、ステータスにはこう表示されていた。
《死亡時処理:不明》
不明。
その二文字が、背中に氷を入れられたような恐怖を生んでいた。
「街は本当にこの先なんですよね!」
「たぶんです!」
「また、たぶんって言った!」
並走しているはずの塩酸は、まるで散歩でもしているような顔をしている。体型からは想像できないほど足が速い。カリウムに至っては、長い脚で余裕を持って走っていた。
「ノクスがこちらへ来た理由は何ですか!」
「考えられる可能性は三つあります!」
風に負けないよう、カリウムが声を張る。
「一つ目、偶然!」
「まずありえません!」
「二つ目、空腹!」
「もっと嫌です!」
「三つ目、あなたの匂いが気に入った!」
「食べ物としてですか!?」
「それはノクスに聞かないと!」
「会話できる距離に近づきたくないんですが!」
言い合っている間にも、竜は迫ってくる。
空が暗くなった。
クオリアが顔を上げると、巨大な影が真上を通過していくところだった。
「伏せてください!」
カリウムの声に反応し、地面へ身を投げ出す。
次の瞬間、頭上を暴風が薙いだ。
草が根ごと吹き飛び、土と石が視界を埋める。身体が何度も地面を転がり、肺から空気が押し出された。
「がっ……!」
痛い。
ただ痛いというより、身体の内側まで揺さぶられたような衝撃だった。
クオリアは咳き込みながら起き上がる。生命力を確認すると、百あった数値が七十三まで減っていた。
一度、翼の風に巻き込まれただけだ。
攻撃ですらない。
「これ、勝てる相手じゃないですよね」
「レベル一で勝てるなら、我々も驚きますね」
塩酸は土まみれになった白衣を叩きながら答えた。
「そもそも、ランクZは何なんですか」
「この世界における災害指定です」
「敵の強さの単位では?」
「強すぎる個体は敵ではなく、災害と呼ばれます」
「それを先に教えてください!」
ノクスは上空で旋回していた。
逃げるクオリアを見失ったわけではない。どう追い詰めるかを考えているように見える。
獲物を弄んでいる。
そう理解した瞬間、腹の奥に重いものが沈んだ。
ゲーム開始直後。武器もない。魔法もない。技能の使い方も知らない。
逃げる以外の選択肢はない。
「街までの距離は!」
「通常なら残り二十五分ほどです!」
「追いつかれるほうが先ですね」
「残念ながら!」
ノクスが首を持ち上げた。
黒い鱗の隙間から、赤い光が漏れる。
嫌な予感などという生易しいものではない。見た瞬間、身体のすべてが危険を告げた。
「来ます!」
塩酸が叫ぶ。
竜の口元に黒い炎が集まっていく。
逃げても間に合わない。
どちらへ走るべきか考える前に、草原全体が赤く染まった。
クオリアは反射的に腕で顔を覆う。
死ぬ。
そう思った。
怖かった。
まだ何もしていない。家族とも合流していない。アリアに危なくなったらログアウトすると約束した。
それなのに、ログアウト画面を開く余裕すらない。
納得できなかった。
こんなところで終わるのは嫌だった。
その感情が、胸の奥で何かに触れた。
《生存意思を確認》
聞き覚えのない音が響く。
《種族特性の発現条件を満たしました》
《ギアスは、強い願望を世界へ強制します》
視界の中央に、新たな文章が現れる。
《願いを選択してください》
選択肢は表示されない。
自分で決めろということらしい。
欲しいものは決まっていた。
敵を倒す力ではない。
傷つかない身体でもない。
ただ、生き延びるための時間。
「――止まれ」
クオリアは呟いた。
竜へ向けた言葉ではなかった。
炎へ向けたものでもない。
この場で動くすべてに対して、命令するように言い放った。
「止まれ!」
瞬間、世界から音が消えた。
ノクスの口から放たれた黒炎が、空中で静止している。
吹き上がった土も、千切れた草も、飛び立とうとしていた鳥も、すべて止まっていた。
カリウムと塩酸も動いていない。
表情さえ固まっている。
動けるのは、クオリアだけだった。
《固有能力を獲得しました》
《能力名:未命名》
《効果:指定した現象への一時的な強制命令》
《代償:対象規模に応じて変動》
《現在の代償を算出しています》
「代償?」
胸が大きく跳ねた。
次の瞬間、全身を激痛が貫いた。
「――ッ!」
膝から力が抜け、地面へ手をつく。
身体の中にある何かを、強引に抜き取られている。
生命力が一気に減少した。
七十三。
五十四。
三十二。
十八。
数値が止まらない。
《生命力が不足しています》
《不足分を別資源より徴収します》
《経験値:不足》
《魔力:不足》
《代替資源を検索中》
嫌な文章だった。
「待て……やめろ……」
自分で発動した能力なのに、止め方が分からない。
《代替資源を確認》
《幸運を消費します》
空欄だった幸運の項目に、一瞬だけ巨大な数値が現れた。
直後、その数値が凄まじい速さで減っていく。
何桁あるのか数えることすらできない。
《代償の支払いを完了しました》
《強制命令の有効時間:残り七秒》
七秒。
痛みに耐えながら、クオリアは立ち上がった。
ここで呆然としていれば、支払ったものがすべて無駄になる。
「走れ!」
静止したカルシウムたちの肩を叩く。
命令の対象外になったのか、二人の身体が動き始めた。
カリウムは目の前で止まる黒炎を見て、初めて明確な驚愕を顔に浮かべた。
「時間停止……ではない」
「炎だけではなく、世界の運動そのものを拒絶した?」
「分析は後です! 逃げますよ!」
クオリアは二人を追い越し、全力で走った。
残り五秒。
草原を蹴る。
残り四秒。
肺が焼ける。生命力が十八しかない影響なのか、身体が鉛のように重い。
残り三秒。
「こちらです!」
塩酸が進路を変える。
そこには、草に隠れた小さな窪地があった。
残り二秒。
三人で斜面を滑り降りる。
残り一秒。
「伏せて!」
カリウムの声と同時に、止まっていた世界が動き出した。
黒炎が草原を飲み込む。
轟音と熱が背後から押し寄せ、空が黒く染まった。
窪地の上を炎が通過する。地面が震え、土が崩れ落ちる。
クオリアは腕で頭を庇いながら、息を殺していた。
数秒後、炎が途切れた。
草原の匂いは消え、代わりに焼け焦げた土の臭いが鼻を刺す。
クオリアは恐る恐る顔を上げた。
先ほどまで一面に広がっていた緑はない。
黒く焼けた大地が、地平線まで続いていた。
「……これがランクZ」
声が震えた。
一撃。
たった一撃で、地形が変わった。
あの能力がなければ、確実に消し飛んでいた。
「今のは、何だったんですか」
カリウムが問いかけてくる。
いつもの笑顔はない。
塩酸も同様だった。二人ともクオリアを見つめ、その瞳に警戒と興味が混ざっている。
「俺にも分かりません。止まれって願ったら、止まりました」
「世界へ命令したのですか」
「結果だけ見れば、そうなります」
「ギアス……」
塩酸が、その名を確かめるように呟く。
「なるほど。種族名そのものが、能力の性質を示している可能性があります」
「どういう意味ですか」
「命令。制約。絶対的な誓約。ギアスという言葉には、そうした意味があります」
クオリアは自分の手を見る。
力が入らず、小刻みに震えていた。
世界へ命令する力。
言葉だけなら強力だ。だが、使った結果は生命力の大半を失い、正体不明の幸運まで消費した。
「便利な力ではなさそうですね」
「力とは、本来そういうものです」
カリウムが静かに答えた。
「強い力ほど、使用者へ選択を要求します」
「使うか、使わないか」
「何を支払い、何を守るか」
遠くで、ノクスの咆哮が響いた。
生きている。
当然だ。クオリアは攻撃していない。ただ七秒間、動きを止めただけだ。
しかも、その七秒で幸運を大量に消費した。
不幸な目に遭うのか。それとも、単純に幸運という能力値が低下しただけなのか。
確認しようとステータスを開いた瞬間、視界に新たな表示が現れる。
《幸運:測定不能》
《状態:世界から注目されています》
《世界干渉率:0.02%――0.10%》
急激な上昇だった。
さらに、その下へ赤い文字が追加される。
《固有能力の使用が観測されました》
《観測者が一名増加しました》
「一名……?」
先ほど地平線に見えた黒い点とは違う。
ノクスでも、カルシウムたちでもない。
どこかから、誰かがクオリアを見ている。
そう考えた瞬間、焼けた地面に落ちた自分の影が、不自然に揺れた。
風はない。
クオリアも動いていない。
それなのに影だけが、まるで生き物のように首を持ち上げた。
一瞬だけ、人の顔に見えた。
笑っているようにも。
泣いているようにも見えた。
次に瞬きをした時、影は元へ戻っていた。
「どうかしましたか」
塩酸に尋ねられ、クオリアは迷った末に首を振る。
「……何でもありません」
見間違いだ。
そう思いたかった。
だが、視界の隅に残る警告は消えない。
《観測状態:監視中》
黒天竜だけではない。
この世界には、クオリアの誕生を見つめている何かがいる。
そしてそれはおそらく、彼が力を使う瞬間を待っていた。
遠くから再び咆哮が響く。
窪地の外では、黒い翼が空を横切っていた。
チュートリアルは、まだ終わっていない。
むしろ本当の始まりは、今この瞬間だった。




