第2話 チュートリアル担当が信用できない『改稿後』
目の前に浮かぶ文字を、クオリアは何度も読み返した。
《種族:ギアス》
《危険度:測定不能》
《成長上限:存在しません》
《固有特性:解析不能》
どれだけ見つめても、表示が変わることはない。
「……バグですか?」
最初に浮かんだ可能性を口にすると、カリウム・カルシウムは顎に手を添え、考え込むように首を傾げた。
「その可能性は極めて低いですね」
「では、仕様ですか?」
「その可能性も極めて低いです」
「どっちなんですか」
「分かりません」
即答だった。
クオリアは思わず眉間を押さえた。サービス開始からまだ数分しか経っていないというのに、すでに頭が痛くなってきている。
その横で、塩酸・カルシウムは半透明の画面を覗き込みながら、子供のように目を輝かせていた。
「危険度が測定不能。成長上限なし。固有特性も解析不能。素晴らしい結果です」
「何が素晴らしいんですか」
「何も分からないところです」
「一番困るところでしょう」
「未知とは浪漫です」
「事故とも言います」
塩酸は聞こえなかったふりをした。
二人の反応を見る限り、少なくともクオリアに危害を加えるつもりはなさそうだった。ただし、信用できるかと問われれば、答えは迷うことなく否である。
「それで、ギアスって何なんですか」
クオリアが尋ねると、二人は顔を見合わせた。
先ほどから何度も見た動作だ。
「知っていますか、カルシウム」
「知りませんね、カルシウム」
「知らないんですか」
「少なくとも、現存する主要種族の一覧には存在しません」
カリウムが指を鳴らすと、クオリアの前に新たな画面が開いた。
そこには、人間、獣人、森人、鉱人、竜人といった種族名が並んでいる。他にも見たことのない名前がいくつもあり、それぞれの特徴が簡単に記されていた。
「通常、プレイヤーの種族は適性検査によって決定されます。身体能力、思考傾向、精神構造、価値観、潜在的な欲求。そうした複数の情報を世界側が判断し、最も適した器を与える」
「世界側?」
「運営とは別のものです」
さらりと言われた言葉に、クオリアは引っかかりを覚えた。
「世界側って、システムのことですよね」
「正確には違います」
「では、人工知能ですか?」
「それとも違います」
「じゃあ何ですか」
カリウムは穏やかに笑った。
「この世界です」
答えになっていない。
そう言おうとしたが、クオリアは口を閉じた。
目の前に広がる草原。風に揺れる草。頬を撫でる空気。遠くを流れる雲。
あまりにも精巧で、あまりにも自然だ。
これらすべてが計算によって作られたものだと頭では理解している。それでも、ここに立っていると、本当に世界そのものに見られているような感覚があった。
「適性検査の結果、俺はこの種族になった」
「その通りです」
「でも、ギアスという種族は登録されていない」
「その通りです」
「それなのに、世界は俺をギアスだと判断した」
「その通りです」
「……意味が分からないですね」
「我々もです」
二人はまったく同じタイミングで頷いた。
無責任な案内役だった。
「運営に連絡したほうがいいんじゃないですか」
「連絡手段がありません」
「チュートリアル担当なのに?」
「我々は運営の職員ではありませんから」
クオリアは動きを止めた。
「NPCなんですよね?」
「はい」
「なのに、自分たちがNPCだと理解している?」
「はい」
「プレイヤーや運営の存在も知っている?」
「もちろんです」
塩酸が両手を広げ、何を当たり前のことを聞いているのかと言いたげな顔をした。
「我々は案内人です。自分が何者で、誰を案内するのか分からなければ、職務を果たせません」
「普通のゲームなら、NPCはそういう設定に従って話しているだけだと思うんですけど」
「普通のゲームなら、そうでしょうね」
カリウムの返答には、わずかな含みがあった。
B&Eは普通のゲームではない。
そんな宣伝文句は何度も目にしてきた。だが、実際に世界へ入ってみると、その意味は事前に想像していたものとは少し違う気がする。
単に映像が美しいのでも、NPCの会話が自然なのでもない。
ここにいる存在は、自分たちを単なるプログラムだと思っていない。
それどころか、クオリアの知らない何かを知っている。
「まあ、難しい話は後にしましょう」
塩酸が手を叩いた。
「今のあなたに必要なのは、世界の秘密ではなく、歩き方と戦い方です」
「それには同意します」
クオリアは周囲を見渡した。
草原以外には何もない。街もなければ、他のプレイヤーの姿も見えなかった。サービス開始直後なら、同じ場所に大勢の人間が集まっていてもおかしくないはずだ。
「ここはどこなんですか」
「始まりの草原です」
「他のプレイヤーは?」
「別の始まりにいます」
カリウムは、遠くの空を指した。
「B&Eには、すべてのプレイヤーが集まる共通の開始地点は存在しません。各自の種族や適性に応じて、異なる場所から物語が始まります」
「家族と合流するには?」
「街へ到着し、通信機能を解放してください」
「すぐに行けますか」
「あなた次第です」
嫌な答えだった。
クオリアが詳しく聞こうとした瞬間、視界の端に青い光が走った。
《チュートリアルクエストが発生しました》
《草原を抜け、最寄りの街へ到達してください》
《推奨レベル:1》
《想定所要時間:三十分》
内容自体は普通だ。
だが、画面の一番下に表示された注意事項が気になった。
《警告:進行経路上に未確認反応があります》
「未確認反応?」
「気にしなくて大丈夫ですよ」
カリウムが笑顔で言った。
「そう言われると、余計に気になるんですが」
「大丈夫です。おそらく死ぬことはありません」
「おそらく?」
「この世界には絶対など存在しませんから」
クオリアは改めて、チュートリアル担当の変更ができないか考え始めた。
しかし、設定画面を開いても、それらしい項目は見つからない。ログアウトの表示はある。危険を感じたらすぐに戻ると、アリアにも約束した。
今の時点で戻るべきだろうか。
種族欄には意味不明な表示。案内役は信用できない。進行経路には未確認の何かがいる。
帰る理由としては十分すぎる。
それでも、クオリアの足は草原の先へ向いた。
怖さより、知りたいという気持ちのほうが少しだけ勝った。
「街はどちらですか」
「真っ直ぐです」
塩酸が正面を指す。
「本当に真っ直ぐですか?」
「たぶん」
「今、たぶんって言いましたよね」
「地形は変化しますので」
「チュートリアルの道まで変わるんですか」
「世界とは変わるものです」
便利な言葉として使っているだけではないだろうか。
疑いながらも、クオリアは歩き始めた。足元の草を踏む感覚は現実とほとんど変わらない。むしろ、普段は意識しない細かな感触まで強く伝わってくる。
数歩進んだところで、カリウムが声をかけた。
「その前に、ステータスを確認しておきましょう」
「どうやって?」
「ステータス、と念じてください」
言われた通りにすると、目の前へ画面が現れた。
《プレイヤーネーム:クオリア》
《種族:ギアス》
《レベル:1》
《生命力:100》
《魔力:100》
《筋力:10》
《耐久:10》
《敏捷:10》
《知力:10》
《精神:10》
《幸運:――》
最後の項目だけ、数値が表示されていない。
「幸運が横線なんですが」
「数値化できないのでしょう」
「良い意味ですか?」
「さあ」
カリウムは楽しそうに画面を眺めている。
「他は普通に見えますね」
「そうですね」
「成長上限なしといっても、最初は一般的な数値なんですね」
「表面上は」
その言い方が気になった。
「表面上?」
「詳細表示を開いてみてください」
クオリアがステータス画面の端にある小さな印へ触れる。
画面が展開され、隠されていた項目が現れた。
《種族補正:未確定》
《成長倍率:変動》
《経験値要求量:不明》
《死亡時処理:不明》
《世界干渉率:0.01%》
《観測状態:監視中》
クオリアの指が止まった。
「……監視中?」
その瞬間、風が止んだ。
草原を揺らしていた音が消え、遠くで鳴いていた鳥の声も途絶える。
世界が静まり返る。
カリウムと塩酸の笑顔も、わずかに消えていた。
二人はクオリアではなく、その背後を見ている。
「何かいますか」
返事はなかった。
クオリアはゆっくりと振り返った。
そこには、何もいない。
青い空と、果ての見えない草原だけが広がっている。
だが、視線を戻そうとした瞬間、遥か遠くの地平線に黒い点が見えた。
小さすぎて、形までは分からない。
それでも、その何かがこちらを見ていると、なぜか確信できた。
《世界干渉率が上昇しました》
《0.01%――0.02%》
赤い文字が視界に浮かぶ。
黒い点が、一瞬だけ大きくなった。
近づいたのではない。
翼を広げたのだ。
次の瞬間、遅れて地響きのような咆哮が草原を駆け抜けた。
空気が震え、足元の草が一斉に倒れる。
クオリアは反射的に腕で顔を覆った。
「今のは……」
問いかける声が、自分でも分かるほど震えていた。
塩酸は地平線を見つめたまま、静かに答えた。
「未確認反応ですね」
「ずいぶん大きく見えたんですが」
「大きいでしょうね」
「推奨レベル一のチュートリアルですよね?」
「はい」
「倒す必要は?」
「出会わなければありません」
「出会った場合は?」
カリウムが、ようやくいつもの笑顔を取り戻した。
「全力で逃げてください」
黒い影が空へ昇っていく。
距離があるはずなのに、その輪郭は次第にはっきりしてきた。
巨大な翼。
長い尾。
太陽の光を反射する黒い鱗。
竜だった。
想像していたものよりも、遥かに巨大な。
クオリアの視界に、新たな警告が表示される。
《特殊個体があなたを発見しました》
《個体名:黒天竜ノクス》
《推定ランク:Z》
《推奨行動:祈ってください》
「最後、逃げるですらないんですが」
クオリアの声に、二人のカルシウムは答えなかった。
黒天竜が、空の上で明確に進路を変える。
その頭が向いた先にいるのは、間違いなくクオリアだった。
チュートリアル開始から、まだ十分も経っていない。
それなのに彼は、世界最高位の怪物から、獲物として認識されていた。




