第1話 世界で最も不運な幸運 『改稿後』
そのゲームが発表された日、世界中の人間が同じ夢を見た。
剣を握り、魔法を放ち、どこまでも続く大地を自分の足で歩く。画面の向こう側にあったはずの異世界へ、意識そのものを送り込む完全没入型VRMMORPG。
タイトルは――《B&E》。
正式名称は公表されているものの、長すぎて誰も使っていない。公式サイトでさえ、今では三文字の略称ばかりを前面に押し出している。
五感の完全再現。自律思考を行うNPC。プレイヤーの選択によって変化し続ける物語。宣伝文句だけを並べれば、これまでにも似たようなゲームはあった。
だが、B&Eは違った。
公開された映像の中で、草原を渡る風は一本一本の草を揺らし、遠くを飛ぶ竜は地上へ巨大な影を落とした。酒場のNPCは台本通りの言葉を繰り返すのではなく、プレイヤーの失礼な態度に腹を立て、取引を拒否した。
作られた世界ではない。
そこには、もう一つの現実がある。
そんな大げさな言葉さえ、誰も笑うことができなかった。
「兄さん、まだ終わらないの?」
背後から聞こえた声に、彼はパソコンの画面から目を離した。
振り返れば、部屋の扉からアリアが顔を覗かせている。長い髪を片側に寄せたいつもの姿で、いかにも不満そうに頬を膨らませていた。
彼女は兄がゲームに夢中になることを嫌っているわけではない。
むしろ、誰よりも楽しみにしている。
ただ、楽しみにしているからこそ、開始直前まで準備に追われている兄の姿を見て、少し呆れていた。
「もう終わる。あと少しだけ待ってくれ」
「その『あと少し』、さっきも聞いたのじゃ」
「今度は本当にあと少しだ」
「信用ならぬ」
呆れたように言いながらも、アリアは部屋から出ていかなかった。
彼女は兄が本当に大丈夫なのか、少し気になっていた。
普段は何でも冷静にこなす兄だが、昔から自分のことになると妙に無頓着なところがある。ゲームの中でも無茶をするのではないか。そんな小さな不安が胸の奥に残っていた。
机の横まで歩いてくると、兄の肩越しに画面を覗き込む。
表示されているのは、B&Eの初期設定画面だった。
サービス開始は本日の正午。現在時刻は十一時四十七分。
開始前に入力できるのは、プレイヤーネームと最低限の外見設定だけだ。種族や職業はゲーム内で決定され、開始地点すらプレイヤーによって変わるらしい。
「クオリア……また、その名前を使うのじゃな」
「ああ。昔から使ってるし、今さら変える理由もない」
「もっと強そうな名前にすればよいのに。暗黒剣帝とか、終焉の覇王とか」
「開始五分で後悔する名前を勧めるな」
「格好よいではないか」
「お前が使え」
「妾には可愛さが足りぬ」
真顔で言い切るアリアを見て、クオリアは小さく笑った。
こういうくだらない会話ができる時間が、彼は好きだった。
ゲームが始まれば、しばらくは別々の世界に行くことになる。
だからこそ、この何気ない時間を大切にしたかった。
入力内容を確認する。
プレイヤーネーム、クオリア。
髪は黒。瞳も黒。体格は現実とほぼ同じに設定してある。
せっかくの仮想世界なのだから、金髪や銀髪に変えることもできた。身長を伸ばし、現実とは似ても似つかない美青年になることさえ可能だ。
だが、そこまで別人になりたいとは思わなかった。
自分は自分のままで、この世界を見てみたい。
そんな気持ちがあった。
少しだけ整えた顔を見て、アリアが疑わしそうに目を細める。
「兄さん、現実より格好よくしておらぬか?」
「誤差だ」
「顎の線が明らかに違うのじゃ」
「機械の自動補正だ」
「鼻も高い」
「光の加減だ」
「肌も綺麗じゃ」
「ゲームだからな」
「……身長も三センチ伸ばしておる」
「細かいところまで見るな!」
思わず声を上げると、アリアは勝ち誇ったように笑った。
「やはり気にしていたのじゃな」
「別に気にしてない」
「なら、なぜ否定が早いのじゃ」
「……」
言い返せず黙る兄を見て、アリアは少し嬉しそうに笑った。
リビングからは、マリアたちの話し声が聞こえている。
今日は家族全員が予定を空けていた。理由はもちろん、B&Eを始めるためだ。
ただし、一斉にログインするわけではない。
VR機器は人数分用意されているものの、初回ログイン時には長時間の適性検査が行われる。安全性の確認も兼ねて、まずはクオリアが先に入ることになっていた。
長男だから。
慎重だから。
ゲームに慣れているから。
家族はそう言った。
けれどクオリア自身は分かっている。
もし何か問題が起きた時、最初に確認する役目を任されたのだ。
少しだけ寂しく思う気持ちもあった。
しかし、それ以上に家族が自分を信頼してくれていることが嬉しかった。
「兄さん」
先ほどまでふざけていたアリアの声が、少しだけ静かになった。
「怖くないのか?」
クオリアは答えず、画面の隅に表示された残り時間を見る。
十一時五十二分。
完全没入型VR技術は、すでに医療や教育の分野で使われている。危険性は低い。B&Eの運営会社も、何度も大規模な安全試験を行ったと発表している。
それでも、怖くないわけではなかった。
眠るように意識を手放し、機械の中へ自分を預ける。
目を開けた時、そこが現実と区別できないほど精巧な別世界だという。
期待と不安は、よく似ている。
どちらも心臓を速くさせ、手のひらに汗を滲ませる。
「まあ、少しはな」
「……そうか」
アリアは少しだけ俯いた。
彼女は兄が強いことを知っている。
いつも自分たちを守ってくれることも知っている。
だからこそ、たまには誰かに守られてほしいと思っていた。
「やめてもよいのじゃぞ」
「お前がそれを言うのか?」
「妾は優しい妹じゃからな」
胸を張るアリアを見て、クオリアは苦笑した。
「大丈夫だ。危なそうなら、すぐログアウトする」
「約束じゃぞ」
「ああ」
「絶対じゃぞ」
「分かってる」
「ゲームの中で綺麗な女に声をかけられても、ついていってはならぬぞ」
「心配するところはそこなのか?」
「一番危険なのじゃ」
兄を心配しているのか、ただからかっているのか分からない。
けれど、その言葉の奥にある優しさだけは、クオリアにも伝わっていた。
問い詰めようとしたところで、リビングからマリアの声が飛んできた。
「アリア! お兄ちゃんを邪魔しないで! あと五分しかないよ!」
「妾は応援しておるのじゃ!」
「さっきから会話しかしてないでしょ!」
図星を突かれたアリアは、露骨に視線を逸らした。
クオリアは笑いながら、机の横に置かれた専用機器へ手を伸ばす。
黒いヘッドギアは、想像していたよりずっと軽い。
内側には神経信号を読み取るための薄いセンサーが並び、装着者の意識を仮想世界へ接続する。
ベッドへ横になり、ヘッドギアを装着する。
視界が暗くなる直前、アリアが再び口を開いた。
「兄さん」
「今度は何だ?」
「……いってらっしゃい」
その言葉だけは、冗談ではなかった。
クオリアはわずかに目を細める。
「行ってくる」
起動ボタンを押す。
電子音が一度だけ鳴り、暗闇の中に白い文字が浮かび上がった。
《生体情報の確認を開始します》
心拍、脳波、呼吸、神経接続。いくつもの項目が凄まじい速さで処理され、視界の端を流れていく。
《安全基準を確認》
《プレイヤー認証を完了》
《サービス開始時刻まで、残り十秒》
数字が一つずつ減っていく。
十。
九。
八。
身体の感覚が薄れていく。
指先から力が抜け、ベッドに触れていた背中の感触が遠ざかった。
七。
六。
五。
代わりに、どこからともなく風の音が聞こえ始める。
四。
三。
二。
一。
《ようこそ、B&Eへ》
暗闇が砕けた。
眩しさに目を閉じ、次に開いた時、クオリアは見知らぬ場所に立っていた。
空は青く、雲は白い。足元には果ての見えない草原が広がり、頬を撫でる風には土と草の匂いが混じっている。遠くでは鳥に似た何かが鳴き、その声が澄み切った空へ溶けていった。
あまりにも鮮明だった。
映像ではない。音でもない。
そこに世界がある。
「……すごいな」
口から漏れた自分の声さえ、現実と何も変わらない。
クオリアは草へ手を伸ばした。
細い葉が指の間を滑り、先端が皮膚をくすぐる。一本引き抜けば、根元から湿った土の匂いがした。
感動に浸っていたのは、ほんの数秒だった。
「おや?」
背後から声がした。
「これは珍しいですね、カルシウム」
「ええ。非常に珍しいですね、カルシウム」
同じ名前を呼び合う奇妙な会話に、クオリアはゆっくり振り返る。
そこに立っていたのは、二人の女性だった。
一人は白衣を羽織った長身の女性。銀色の髪を背中まで伸ばし、細い眼鏡の奥から興味深そうにクオリアを見つめている。
もう一人は小柄で柔らかな雰囲気を持つ女性だった。白衣の袖から覗く手には小さな端末を持ち、楽しそうに画面を確認している。
見た目は対照的だが、二人にはどこか似た空気があった。
長身の女性が丁寧に頭を下げる。
「初めまして。私はカリウム・カルシウム」
小柄な女性も続いて微笑んだ。
「そして私は塩酸・カルシウムです」
「……姉妹ですか?」
二人は顔を見合わせた。
それから、同時に笑った。
「違います」
「血の繋がりはありません」
「なら、どうして同じ名前なんですか」
「カルシウムは名字ではありません」
「カルシウムは私たちの役割を示す名前です」
開始早々、理解できない人物に遭遇した。
クオリアが言葉を失っていると、二人は彼の周囲を回り始めた。
カリウムは冷静な目で観察し、塩酸は楽しそうに端末へ情報を入力している。
「外見は人間に近いですね」
「ですが、内部構造は明らかに通常のプレイヤーとは違います」
「興味深いです」
「ええ、とても」
二人の視線には敵意はない。
むしろ、未知の宝物を見つけた研究者のような輝きがあった。
「……俺、何か変ですか?」
クオリアが尋ねると、カリウムは少し考えてから答えた。
「変、という表現では足りません」
塩酸も頷く。
「あなたは、この世界に存在するはずのない可能性です」
その瞬間、クオリアの正面に半透明の画面が現れた。
《特殊個体を確認しました》
《種族判定を開始します》
文字が数度点滅したあと、画面が黒く染まる。
普通なら種族名が表示されるはずの場所に、見たことのない単語が浮かび上がった。
《種族:ギアス》
《危険度:測定不能》
《成長上限:存在しません》
《固有特性:解析不能》
その下に、警告を示す赤い文字が追加される。
《該当する種族データが存在しません》
沈黙が落ちた。
クオリアは画面を見つめる。
カリウムと塩酸は、驚きと興奮が混ざった表情で彼を見ていた。
やがてカリウムが、嬉しそうに微笑む。
「素晴らしい」
塩酸も目を輝かせた。
「サービス開始から三分で、世界の想定外が生まれました」
風が草原を駆け抜ける。
どこまでも穏やかな景色の中で、クオリアは自分の種族欄を見つめ続けた。
彼はまだ知らない。
この瞬間に与えられた異常が、やがてゲームの世界だけでなく、現実までも巻き込んでいくことを。
そして、自分を興味深そうに見つめる二人の案内人――カリウムと塩酸という奇妙な女性たちと、長い因縁で結ばれることになるなど――今の彼に知る由もなかった。




