第79話:狂信者の影
パリンッ、という乾いた音が夜会の広間に響き渡った。
フェリクさんの『凶星の崩蝕』によって『虚無の香炉』が砕け散り、そこから漏れ出していた紫色の煙が、霧散するように消えていく。
途端に、王都の空を覆う『星時計の魔法陣』が放つ『星律魔導式』の光が、再び力強く脈打ち始めた。
乱されていた空間の魔力波長が正常に調律され、絶対安全領域『星の静寂』がこの館を取り戻したのだ。
それはつまり、私の身体に常時へばりついているあの「不便な仕様」が、再び深い眠りにつくということでもある。
――ドスッ。
「う、うぐぐっ……! お、重い……!」
魔力回路の共鳴が途絶え、バリアが消え去った。
床から1ミリ浮いていた私のヒールが、カツンと石畳に接地した瞬間。
クロエが『星の記憶』を編み込んで作った超高密度の防護ドレスの凄まじい重量と、コルセットの情赦ない締め付けが、一気に私を生身の身体に引き戻した。
「ええ!? どうしたんだ、さっきまでのあの恐ろしい凄みはどこへ……って、うおっ!?」
「セレン! 大丈夫か!」
生まれたての子鹿のように膝がガクガクと震え出した私を、慌ててカリナとオスヴァルドが両側から支えてくれる。
「重いよぉ……息が、できない……」
「無茶しやがって。ほら、しっかり掴まってろ」
「やっぱりローストビーフの限界突破が胃袋の負担に……!」
違うの。純粋にドレスが重いだけなの。
《《そういうことにしてほしいの》》。
私が二人に支えられながら涙目で息を整えていると、アリアちゃんが静かに近寄ってきた。
「兄様、私の魔力回路の共鳴は乱れていません。周囲の敵対反応も沈黙しました」
アリアちゃんは無表情のまま、手元の魔導銃の波長を調整している。
「はっはっは! 結界が消えた時はどうなるかと思ったが、まぁセレンなら大丈夫か」
オスヴァルドが豪快に笑い、エマが私の背中をポンポンと叩く。
「……うぐぐっ、エマちゃん、叩かないで……お肉が、出ちゃう……」
「えっ、セレン!? 大丈夫!?」
私たちがそんなやり取りをしていると、館の外から、整然とした重厚な足音が近づいてきた。
王都の治安維持を担う騎士団だ。
彼らは星律魔導式が組み込まれた銀の鎧を鳴らしながら、崩れかけた館の広間へと足を踏み入れた。
その先頭を歩いていたのは、冷徹な瞳を持つ初老の男
――ナハトローゼ家現当主、アルベール・ナハトローゼだった。
彼の歩みには、一切の迷いがない。
王都の軍事権を握る名門の長としての凄みが、周囲の空気を凍りつかせるようだった。
「ち、父上……! 違うのです、これはルーメン家の罠で……!」
床に倒れ伏し、衣服が焼け焦げたモルドレッドが、縋るように手を伸ばす。
しかし、アルベールは実の息子に対し、氷のような視線を向けただけだった。
「……王都の法と家名を汚した愚か者め。貴様はもはや、我が息子ではない」
その声には一切の情が含まれていなかった。
彼はあくまで「強き貴族」としての矜持を保つため、無能な暴走を犯した息子を完全に切り捨てる選択をしたのだ。
騎士たちによって、モルドレッドが絶望の声を上げながら連行されていく。
アルベールはその後ろ姿を一瞥することもなく、静かにフェリクさんへと向き直った。
「フェリク・ルーメン。……我が愚息の不始末、ナハトローゼの名において詫びよう。境界探査局が持ち帰った『星鍵の断片』の調査権、および全ての波長同調の成果は、正式に君たちのものとして認める」
「ご理解いただき、感謝いたします。アルベール卿」
フェリクさんは優雅にお辞儀を返した。
盤上遊戯は、シーカーズの完全勝利で幕を閉じたのだ。
◇ ◇ ◇
「クロエぇ……脱がせてぇ……」
その夜。
アパートに帰還した私は、玄関の扉を開けるなり、クロエに泣きついた。
「はいはい、お疲れ様。よく頑張ったわね、セレン、カリナも」
エプロン姿のクロエが、苦笑いしながら私の背中の紐を解いてくれる。
コルセットが外れ、重いドレスから解放された瞬間。
「ぷはーーーーっ!」
圧倒的な幸福感が私を包み込んだ。
大きく息を吸い込むと、肺の隅々まで新鮮な空気が行き渡る。
私の身体の周りにはバリアがないから、ふかふかの部屋着の感触も、クロエの手の温かさも、そのまま感じることができる。
「それにしても、セレンがバリアをオフにされた途端にプルプル震え出したって聞いた時は、笑っちゃったわ」
「笑い事じゃないよぉ。あのドレス、すごく重かったんだから。クロエ、今度はもっと軽い素材で波長の同調をしてよ」
「無理ね。安全性を担保するには、星の記憶を定着させたあの布地が必要なの。あんたの運動神経を上げるしかないわね」
「うぅ……」
「まあまあ。セレンが命がけで守ってくれたローストビーフ、すごく美味しいよ!」
私は元気を取り戻し、リュックの中からこっそり持ち帰ったタッパーを取り出した。
中には、会場のビュッフェから救出した特上のローストビーフがぎっしり詰まっている。
カリナがさっそくお肉をつまみ食いしながら笑った。
「あんたねぇ……あんな修羅場から、よくそんなもの持ってきたわね」
「ふふふ。やっぱり、お家でみんなで食べるご飯が一番だもんね」
私たちはリビングのテーブルを囲み、遅めの夜食を食べ始めた。
結界の外のドロドロした政治劇も、恐ろしい魔物の影もない。
柔らかいお肉の味と、みんなの笑い声だけが、この小さな空間を満たしていた。
◇ ◇ ◇
翌日。シーカーズ本部、局長室。
「あははははっ! 見た!? あの監査官の逃げ帰る顔! これでもう、忌々しい書類も、面倒くさい法的手続きも全部おさらばよぉぉっ!」
カペラ局長が、いつになく興奮した様子で局長室を練り歩いていた。
顔を紅潮させてバンバンと机を叩いている。
いつもの変態学者、いや、それ以上に興奮していた。
「せっかくの整った顔が台無しだな。ったく……」
壁際で腕を組んでいたケプラー副局長が、からくり義手を鳴らしながら呆れたように溜息を吐く。
「まあ、ナハトローゼ家の介入を完全に退けた意義は大きい。これからは我々のペースで『星鍵の断片』の解析と波長の同調を進められるのだからな」
「それにしても、今回のナハトローゼの背後に『星詠みの教団』の影がなくて本当によかったわ。あいつらが絡むと、もっと厄介な星律魔導式の異常干渉が起きてたはずだから」
カペラ局長が少しだけ真面目な顔に戻って言う。
「油断は禁物だ。教団は常に神話の防衛機構の仕様を突いてくる。波長の同調を怠るなよ」
ケプラー副局長が義手を鳴らしながら忠告した。
「あまりはしたない真似をするでない。とはいえ……今回は見事な采配じゃったな」
部屋の奥から、本部の頂点とも言える存在――カノープス・アルマゲスト筆頭司書が、羊皮紙をめくりながら満足げに長い髭を撫でた。
「教団の目的は星の記憶の改竄。それを防ぐためにも、我々シーカーズが未知の遺跡をいち早く調査し、星鍵の断片を回収せねばならんのだ」
星の記憶を識る彼にとっても、今回の成果は計り知れない価値があるのだろう。
「ええ! 古代の星律魔導式の謎を解き明かすための、大きな一歩になるわ! 」
カペラ局長は目をキラキラと輝かせ、私たちの方を振り向いた。
「さあ、邪魔者もいなくなったことだし! 次なる『ロマン』に向けて出発よ、シーカーズの諸君!!」
その高らかな宣言に、私は静かに頷いた。
まだまだ、私たちの探求は終わらない。
もっと深い遺跡の謎を解き明かし、いつか必ず、この不便な呪いを解いてみせるのだから。




