第72話:からくり義手と盤上の王
ガチャン、ガチャン。
重たい真鍮製のバケツを引きずりながら、私は本部の廊下をモップでこすっていた。
「うう……重いいいい。お水入れすぎた……」
私はシーカーズ内でも「結界内でのポンコツぶり」は不本意ながら有名になりつつある。今日のような大事な日は、とにかく邪魔にならないよう雑務を命じられていた。いや、家で休ませてくれよ!
その時だった。
バァンッ! と、本部の玄関扉が乱暴に開け放たれた。
「――特別監査である! 道を開けよ、『星屑拾い』ども!」
カツカツと傲慢な靴音を響かせて入ってきたのは、黒い薔薇の刺繍が施された高価な礼服に身を包む一団だった。
先頭に立つのは、モルドレッドの腰巾着として有名な、バジル・ド・ナハトローゼ監査官。
いかにも性格の悪そうな、細い髭を蓄えた男だ。
「うわぁ。あのおじさん、土足で入ってきた……。せっかく私が磨いたのに」
私がモップを抱えて隅っこで恨めしそうに見つめる中、本部の奥から二人の人物が歩み出た。
一人は、いつになく顔色の悪いカペラ局長。
そしてもう一人は――。
「……王都の温室で育ったお貴族様が、泥臭い調査局に何の御用でしょうか?」
地鳴りのような低い声と共に、巨漢がバジルの前に立ちふさがった。
歴戦の傷跡が刻まれた強面。白髪混じりの短髪。
境界探査局・副局長、アルデバラン・ケプラーだ。
(うわ~~ケプラー副局長までいるよ。久しぶりに見たな)
ケプラー副局長が腕を組むと、その左腕――『ゼンマイ駆動式のからくり義手』が、ジリジリと重厚な機械音を立てた。
彼は元Sランクの『星狩り』だ。引退してなお、その立ち姿は「絶対に崩れない壁」そのものだった。
◇ ◇ ◇
「ケ、ケプラー副局長か。野蛮な元・星狩りが役職に就いているとは、シーカーズの質も知れる。……我々はカペラ局長に用があるのだ。どきたまえ」
バジル監査官は、ケプラー副局長の放つ圧倒的な威圧感に顔を引きつらせながらも、懐から銀印の押された書類を突きつけた。
「『星骸の奈落』での不透明な調査実態。および、未登録の遺物『星鍵の断片(要石)』の隠匿。……これらに対する精査が終わるまで、本局の全予算を凍結し、全データをナハトローゼ家の管理下に置くことを、王都法に基づき宣告する!」
「……っ。隠匿なんてしてないわ! 精査のために一時的に保管してるだけよ!」
カペラ局長が叫ぶが、バジルは薄笑いを浮かべるだけだった。
「建前はどうとでも言える。事実として、君たちは王都の星図にない資源を私物化しようとした。……さあ、さっさとその『要石』とやらを差し出せ。さもなくば、明日からここの全職員を路頭に迷わせることになるぞ?」
「現場を舐めるなよ、貴族のガキが……」
ケプラー副局長の義手が、ギチリと鳴った。
どれほど腕が立とうと、相手は国家の法を司る名門家。
物理的な手出しをすれば、その瞬間にシーカーズという組織そのものが「反逆者」として解体されてしまう。
「……困りましたね。本部の玄関を汚された上に、お客様を路頭に迷わせるような無粋な真似をされては」
沈痛な空気を切り裂くように、優雅で涼やかな声が響いた。
◇ ◇ ◇
廊下の奥から歩いてきたのは、月の紋章が刺繍されたネクタイを指先で整えた、フェリクさんだった。
彼はワゴンを押し、その上には湯気の立つティーセットが並んでいる。
「フェ、フェリク……ルーメンか」
バジル監査官の顔が、目に見えて強張った。
いくら軍事権を持つナハトローゼ家とはいえ、『星読みの一族』として王都の地下に根を張るルーメン家の次期当主候補は、政治的な重みが違う。
「監査に訪れた方を立ち話させるわけにもいきません。……バジル卿、せっかくですから、我が家の特別室でお茶でもいかがですか? 書類の話はその後にしましょう」
「……っ。お茶など飲んでいる暇はない!」
「おや。私の誘いを断ると? それはルーメン家に対する『不敬』と受け取ってもよろしいのでしょうか」
フェリクさんは、いつもの穏やかな、けれど一切の感情を感じさせない笑顔で問いかけた。
その瞳は、結界外で空間ごと敵を殴り砕く時と同じ、冷徹な光を宿している。
バジル監査官は、蛇に睨まれた蛙のように硬直した。
「……わ、分かった。お茶くらいは付き合おう」
◇ ◇ ◇
応接室。
フェリクさんが淹れた紅茶の香りが漂う中、二人の貴族が対峙した。
カペラ局長やケプラー副局長、そして(なぜかモップを持ったままの)私も隅で見守る。
「……で。お茶を飲んだら、すぐに『要石』を渡してもらうぞ」
強がるバジルに対し、フェリクさんは優雅にカップをソーサーに置いた。
「バジル卿。王都アストライアの法における『緊急時徴収権』を行使されたようですが……その前提となる『公共の利益への損害』を、具体的にどう立証されるおつもりですか?」
「な、何? それはあの遺物が強力なエネルギー源であり……」
「ええ。ですが、あの遺物はセレン調査員によって『隔離結界』の中から持ち出されたものです。つまり、王都の星図に登録される以前の、国際法における優先探索権は、発見した個人……すなわち雇用主であるシーカーズにあります」
フェリクさんは、月の紋章のネクタイをくいっと押し上げた。
「もし、ナハトローゼ家がこれを強引に奪うのであれば、我々ルーメン家は『正当な探索権の侵害』として、ナハトローゼ家を正式に提訴いたします」
「な……!? たかが調査員一人のために、ルーメン家が本気で動くというのか!?」
「たかが、ではありません。彼女は我が調査部隊の誇りです」
フェリクさんは笑顔のまま、ワゴンの影から一束の書類を取り出した。
「……それからバジル卿。ナハトローゼ家が最近、外の世界の『星狩り』に多額の裏金を払い、シーカーズの調査を組織的に妨害させようとしていた……という噂を耳にしましてね。もし提訴となれば、この辺りの裏帳簿も、証拠として明るみに出ることになるでしょう」
「……っ!! な、なぜそれを……!?」
バジル監査官の顔から血の気が引いた。
ナハトローゼ家にとって、法を守るべき立場でありながら裏で無法者を雇っていた事実が表に出るのは、破滅を意味する。
「盤上では、自分の王がどこにいるか、常に把握しておくべきですよ」
フェリクさんは、最後通告を告げるかのように、静かに言い放った。
「予算凍結は本日中に撤回されることをお勧めします。……さもなくば、次は書類ではなく、私が直接モルドレッド卿の寝室へ、お礼を言いに伺うことになりますので」
「ヒッ、ヒィィィッ!!」
バジル監査官は、椅子を蹴り飛ばす勢いで立ち上がると、逃げるように応接室から去っていった。
◇ ◇ ◇
「……ふぅ。フェリクさん、かっこいい。お茶出しのついでに、敵を追い返しちゃった」
私が感心のあまり拍手をすると、フェリクさんはいつもの優しい先輩の表情に戻って、困ったように微笑んだ。
「お見苦しいところを見せたね、セレン。……ですが局長、喜ぶのはまだ早いですよ」
フェリクさんの言葉に、カペラ局長がハッとしたように顔を上げた。
「……ええ、わかってるわ。あいつらが、こんな正論で大人しく引き下がるわけがない」
ケプラー副局長も、からくり義手をガリガリと鳴らして吐き捨てた。
「政治の表舞台で負けた奴が次にやることは一つだ。……外のルールの持ち込みだ」
「はい。モルドレッド卿は、おそらく腕利きの『星狩り』を雇って、我々を物理的に排除しに来るでしょう」
フェリクさんの予見に、応接室の温度が数度下がったような気がした。
王都の外縁。
結界の力が最も弱まる境界エリアで、猟犬たちが牙を研ぎ始めていることを、私たちはまだ知らなかった。




