第71話:特別監査状とルーメン家の決意
「……んむ。やっぱり、ここのハチミツパイは世界を救うと思うの」
王都の昼下がり。
街路樹の隙間から差し込む柔らかな陽光が、カフェのテラス席を白く照らしていた。
私は手元のフォークで、黄金色に焼き上がったパイの端っこを慎重に切り取る。
「よく飽きないわね。セレンが帰ってきてから、これで四日連続じゃない?」
向かいの席で、クロエが呆れたように紅茶を啜った。
彼女の視線の先には、すでに空になった三つのお皿が積み重なっている。
「おやおやおや?? 誰がそんな口をきいてるのかなぁ? クロエだって、さっき『あーん』ってした時、私の半分くらい食べたじゃない」
「……っ。それは、あんたが食べにくそうにしてたから手伝っただけでしょ!」
クロエがわずかに頬を赤くして言い返す。
その隣では、正規調査員としての制服がすっかり板についたカリナが、豪快にパイを頬張っていた。
「そうだぞ、クロエ。一番あんたが欲張ってるじゃないか。さっきの最後の一口、セレンが悲しそうな顔してたぞ」
「カリナまで! あんた、最近セレンの味方ばかりじゃない!」
「当たり前だ。私は《《先輩の忠犬》》だからな。もちろんクロエのことも同じくらい大好きだぞ……むぐ、このパイ、確かに美味いな」
「バッッ!! 恥ずかしいじゃない」
平和だ。
数日前まで、真っ暗な奈落の底でお化けに追いかけ回されていたのが嘘みたいだ。
空を見上げれば、巨大な『星時計の魔法陣』がゆっくりと回転し、世界から「暴力」を奪い去っている。
この穏やかな時間がずっと続けばいいのに。
そんな私のささやかな願いは、背後から近づいてきた一人の使者によって、あっけなく霧散することになった。
◇ ◇ ◇
「……何、この空気。お葬式?」
本部三階、局長室。
呼び出された私たちが足を踏み入れると、そこにはいつもの賑やかさとは正反対の、重苦しい沈黙が満ちていた。
「あら、セレン君……。よく来たわね……」
デスクの奥で、カペラ局長が魂の抜けたような顔で椅子に深く沈み込んでいた。
その横には、本部最深部の主であるカノープス・アルマゲスト先生が、難しい顔をして古い羊皮紙を検分している。
「局長さん、どうしたの? またロマンが足りなくて貧血?」
私が首を傾げると、カノープス先生が重々しく口を開いた。
「セレンよ。……ロマンどころではない。現実という名の怪物が、シーカーズを飲み込もうとしておるのだ」
先生が差し出したのは、銀色の蝋で封印された、見るからに高級そうな封筒だった。
そこには、大輪の薔薇を模した紋様――王都の軍事権の一部を握る名門『ナハトローゼ家』の印章が刻まれている。
「……ナハトローゼ。あの、遺跡でいじわるしてきたモルドレッドさんの?」
クロエがその名前を聞いた瞬間、嫌悪感を隠さずに眉を寄せた。
「そうよ。……今朝、正式な『特別監査状』が届いたわ。あいつら、セレン君が持ち帰った『疑似宇宙』のデータと『星鍵の断片』を、国家の安全保障に関わる重要物件として、ナハトローゼ家が没収・管理するって言い出したの」
「没収!? せっかくセレンが命がけで見つけたのに!?」
カリナが机を叩いて立ち上がる。
けれど、局長の声は力なく震えていた。
「……それだけじゃないわ。もし拒否すれば、境界探査局への次期予算を『不透明な調査実態がある』として無期限に凍結するって。……これ、あからさまな脅しよ」
「……うーん。よくわかんないけど。その人たちがここに来たら、バリアで『お返しドーン』しちゃえばいいの?」
私が無表情のまま、ステッキの感触を確かめようとすると、クロエが私の頭をぺしっと叩いた。
「おばかセレン!! 結界内はスキル発動しないし、そんな乱暴な真似は絶対ダメだよ! 相手は法律を盾にしてるの。ここで手を出したら、私たちなんか国家反逆罪で簡単に消されちゃうよ」
「こっか……はんぎゃく………。 てことは、ハチミツパイ食べられなくなる…」
「食べられるどころか、一生暗い牢屋の中だよ」
クロエの厳しい言葉に、私はようやく事の重大さを(私なりの基準で)理解した。
バリアがあれば、どんな魔物だって怖くない。
けれど、この目に見えない「権力」という壁は、私の『孤星の絶対距離』でも弾き返すことができない。
「……外の魔物より、王都の法律のほうが厄介ね……。私のロマンが、汚い書類で埋め尽くされていくわ……」
局長が机に突っ伏し、シクシクと泣き始めた。
カノープス先生も、深く、深い溜息を吐く。
平和なはずの王都が、急に冷たい檻のように感じられた。
◇ ◇ ◇
その時だった。
コンコン、と控えめだが芯の通ったノックの音が響いた。
「失礼します」
扉を開けて入ってきたのは、仕立ての良いスーツを完璧に着こなした、フェリクさんだった。
彼はいつものように優雅な微笑を浮かべているが、その双眸だけは、氷の底のように冷たく澄んでいる。
「フェリク……。あんた、話は聞いた?」
局長が顔を上げると、フェリクさんは静かに頷き、私のお皿に残っていたハチミツパイの欠片を拾い上げるように、優雅な所作で書類の束を片付けた。
「ええ。……モルドレッド卿も、ずいぶんと可愛らしい盤上遊戯を好まれるようになった。外の世界で私に勝てぬと悟り、今度は結界内という『安全な籠』の中から石を投げてきましたか」
フェリクさんは月の紋章が装飾されたネクタイをくいっと押し上げた。
「泥に塗れて真実を追う探索者が、泥棒の相手などしては手が汚れます。貴族の浅ましいプライドと、退屈な書類の手綱を握るのは、私の得意分野だ」
彼は局長の前で深々とお辞儀をし、それから私とクロエ、カリナを順に見つめた。
「局長。……そしてカノープス先生。ここはどうか、私にお任せいただけないでしょうか? 『ルーメン家』の名において、あの方々に少しばかり、王都での正しい歩き方を教えて差し上げたい」
その微笑みは、いつもの優しい先輩のものだった。
けれど、その背後には、結界外で敵を殴り砕く「殲滅者」としての圧倒的な凄みが、静かに、けれど確実に立ち昇っていた。
「……フェリク。あんた、やる気なのね?」
局長の問いに、フェリクはただ、美しく目を細めて答えた。
「ええ。シーカーズのロマンを、あのような無粋な者たちに汚させるわけにはいきませんから。」
王都に忍び寄る暗雲。
けれど、私たちの前には、最高に頼りになる「盾」が立っていた。
境界探査局という一組織がフェリクさんに託された。




