第65話:暗黒の直滑降と巨大な骸山羊
ノイズ混じりの静寂の中、私は来た道をトボトボと引き返していた。
巨大な車輪の骸骨たちが粉々に砕け散った通路を抜け、少し広くなった岩陰まで戻ると、イヤーカフを支配していた不快な耳鳴りがスッと晴れた。
『……レン! セレン!? 応答して! 無事なの!?』
「……うん。クロエ、聞こえるよ。お化けのチャリオット、轢いちゃった。お片付け完了」
私は極力マイペースな声を取り繕って返事をした。
でも、一人ぼっちの暗黒空間で極限の恐怖を味わった私の目は真っ赤に腫れ上がり、鼻水はずるずると止まらない。
『……っ。よかった……本当に、よかった。波長が突然途切れたから、どうなったかと思って……』
通信越しに聞こえるクロエの声は、かすかに震えていた。
幼馴染の彼女なら、私の声がひどい鼻声になっていることや、震えを必死に隠していることなど、お見通しだろう。
「……あのね、道がなくなっちゃったの。すごく大きな崖みたいになってて。……だから、それより先にお弁当、食べるね」
『ええ、そうしなさい。ゆっくり食べて、少し落ち着きましょう』
クロエはいつもよりずっと優しい、オカン全開の声で私を労わってくれた。
私は岩陰に腰を下ろし、リュックから包みを取り出した。
『波長同調式・スプーン』を取り出し、クロエ特製の甘い厚焼き玉子をすくう。
私の魔力波長に完全に同調したこのスプーンの先端だけが、唇に触れる一瞬だけバリアを透過することを許される。
ぱくり。
「……おいしい」
地下墓地の空気は弾かれて匂いも温度もわからないはずなのに。
口の中に広がる優しい甘さが、冷え切った心にじんわりと染み渡っていく。
これは物理的な熱じゃない。早起きして私のために作ってくれたクロエの愛情が、見えない壁を越えて私を温めてくれているんだ。
私はべそべそと泣きながら、もきゅもきゅとお弁当を食べ進めた。
◇ ◇ ◇
「……ごちそうさまでした。お腹いっぱい」
『落ち着いた? よし、じゃあ作戦会議よ。さっきあんたが送ってくれた壁画のデータと、魔導盤の空間波長から、その「底なしの崖」の正体がわかったわ』
クロエの声が、いつものキリッとしたオペレーターのトーンに戻る。
『そこは崖じゃないわ。家ほどもある巨大な「石棺」が、無数に積み重なってできた、すごく急な斜面……巨大な階段よ』
「……階段? でも、下は真っ暗で何も見えなかったよ?」
『呪いの認識阻害が極まってるからよ。普通の人間にはただの「暗黒の奈落」にしか見えないように、空間の波長が歪められているの。でも、あんたのバリアならその「幻覚」も弾き飛ばせるわ』
なるほど、と私は頷く。
脳みそを騙そうとするお化けの魔法は、私には効かない。
ランタンの光さえ届けば、ただの足場がすごく悪い階段として認識できるはずだ。
「……わかった。じゃあ、降りてみるね」
私はお弁当箱をしまい、再びあの途切れた通路の端へと立った。
足元には、圧倒的な暗黒。
『星糸の巻尺』のランタン機能が放つ青白い光は、目の前数メートルを薄く照らすだけで、深い闇に吸い込まれてしまう。
「……暗いなぁ。怖いなぁ。クロエ、ずっと喋っててね」
私はステッキを抜き、足元の巨大な石棺の縁に立った。
「……えい。靴裏、ツルツルにするね」
トン、と石棺の表面を突く。
摩擦係数がゼロに書き換えられた斜面を、私は「滑り台」のようにツルツルと滑り降り始めた。
ひゅおおおおっ!
「……ひえええっ! 速い速い速い!!」
内心では絶叫しながら、凄まじいスピードで巨大な石棺の屋根から屋根へと滑り落ちていく。
もちろん、バリアがあるからどんなに段差にぶつかっても衝撃は1ミリ手前で完全に反発し、私の身体は安定したままシューッと滑降を続ける。
傍から見れば、一切の表情を崩さず、腕を組んだまま暗黒の斜面を直滑降していく「氷の死神」に見えただろう。
いや、シュールな絵面過ぎて笑いが起きるかもしれない。
◇ ◇ ◇
どれくらい滑り降りただろうか。
不意に傾斜が緩やかになり、私は静かに深い底へと着地した。
「……着いた。クロエ、底に降りたよ」
『了解。……気をつけてセレン。そこから先は、さっきまでとは波長の質が全く違うわ。本当に、何がいるかわからない』
通信は聞こえる。良かった。
ランタンの光が頼りなく揺れる。
音もない。匂いもない。
けれど、バリア越しにすら伝わってくる圧倒的な「死」の気配。
息苦しさすら感じる濃密な暗闇の中で、私は完全に天然さを失い、ガタガタと震え始めていた。
「……クロエ。なんか、すごく嫌な感じがする。帰りたい」
『セレン……』
その時だ。
ゴリッ……ゴリッ……。
暗闇の奥から、硬い物が岩を削るような鈍い音が響いた。
ランタンの光が届かない闇の向こうで、青白い二つの眼光が灯る。
一つ、二つじゃない。
三つ、四つ……無数の眼光が、私を囲むように現れた。
「……ひっ」
光がわずかに届き、その姿が浮かび上がる。
それは、普通の骸骨ではなかった。
巨大な獣の骨。ねじ曲がった太い角を持ち、四つん這いで這い回る異形の怪物――『骸山羊』。
普通の羊などではない。
地底に封じられた、古代の罪深き魔獣の成れの果てだ。
ガアアアアアッ!!!
骸山羊が、巨大な顎を真っ二つに割り、私に向かって咆哮を上げた。
バリアのおかげで鼓膜が破れることはないが、その威圧感に私の足はすくんで動かない。
「……う、うわあああああっ!!」
巨大な骨の化け物が、凶悪な角を突き立てて暗闇から一斉に飛びかかってきた。
私は涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら、震える手で『星図盤の撞球杖』を構えた。




