第62話:暗黒の地下墓地
王都の夜は、上空の『星時計の魔法陣』が放つ淡い燐光に包まれている。
アパートの共有リビング。
温かいスープの香りが漂う食卓で、私は絶望の淵にいた。
「無理。絶対無理。お墓だよ? 幽霊さんのシェアハウスだよ?」
私はテーブルに突っ伏して、べそべそと泣き言を垂れ流す。
隣では、正規調査員になったばかりのカリナが、心配そうに私の背中をさすってくれていた。
「セレン、そんなに怖いなら、やっぱり私が護衛としてついていこうか? 私の『星屑の大剣』なら、幽霊だって物理で叩き斬れるかもしれないし!」
カリナの頼もしい言葉。
その力強い腕にすがりつきたい衝動に駆られたけれど、向かい側で山のような資料をめくっていたクロエが、ピシャリと言い放った。
「だめよ、カリナ。局長が言った通り、あそこは『見た者の認識を狂わせる』呪いが充満している空間なの。バリアのない貴方が行けば、数分で正気を失って、セレンに襲いかかる敵になるわ」
「うう……私が、セレンの敵に……」
カリナがショックを受けてシュンとなる。
クロエは手元の資料――他の研究者たちから回ってきた地下墓地の古い記録――を睨みながら、冷静に言葉を続けた。
「当然地下だから明かりもない。洞窟の調査ならシーカーズでも経験はあるけど……ここは規模が違いすぎるわ。言い伝えでは『地底に落ちた星』そのものが墓所になっている。宇宙的な歪みが物理法則を書き換えている場所なのかな」
クロエはそう言って、私に二つの新しい魔導具を差し出した。
一つは、真鍮製の複雑な歯車が組み込まれた『波長同調式・転写レンズ』。
もう一つは、銀色の糸が巻かれた重厚な『星糸の巻尺』だ。
「いい、セレン。バリアのせいで貴方は紙にペンを走らせることもできないし、壁に触れて拓本を採ることもできない。だから、このレンズを使いなさい。魔力の光を照射するだけで、古代文字の凹凸を波長データとして私の元へ飛ばせるから」
「……これなら、文字がツルツル滑らない?」
「ええ、私の最新作だもの。それと、その巻尺は道標代わりよ。貴方が歩いた距離を物理的にマッピングするわ。ランタンの機能も付けたけど、バリアの干渉を避けるために、貴方の目の前、数メートルを照らすのが限界よ」
私は不安げにその道具を受け取った。
結界内の今は、その道具の重みがずっしりと腕に響く。
重力って、どうしてこんなに意地悪なんだろう。
「セレン……」
カリナが私の銀髪を、優しくなでなでしてくれた。
「私はお留守番だけど、帰ってきたらセレンの大好きな甘いハチミツパイを焼いて待ってるね。だから、頑張って!!」
「……うん。パイのために、幽霊さんと鬼ごっこしてくる」
◇ ◇ ◇
境界探査局のターミナル。
転送陣の巨大な歯車が噛み合う音が響き、視界が白銀に染まる。
座標固定、転送――。
次の瞬間、足元から伝わっていた石畳の確かな感覚が消え、代わりに『ピィィィンッ』という、鼓膜を震わせるような澄んだ音が響いた。
常時発動型スキル『孤星の絶対距離』。
私を世界から切り離す、1ミリの拒絶。
それと同時に、世界は圧倒的な「無」に支配された。
地面に設置された石碑のビーコンから数歩離れるだけで、転送陣の作動音が急速に遠ざかり、やがて消える。
地下墓地への入り口へと続く石段は、最初からそこに在ったのか、それとも今、私の認識が追いついたのかさえ定かではないほど、暗闇に同化していた。
一段、降りるごとに、空気が「軽く」なるような錯覚を覚える。
湿り気が消え、代わりに乾いた、無機質な静寂が肺を満たしていく。
「……クロエ、聞こえる?」
イヤーカフに指を添える。実際には指先は1ミリ浮いているけれど、クロエが調整した波長が、私の声を確実に拾ってくれる。
『ええ、バッチリよ。波長同調、完了。セレン、そっちの状況はどう?』
「……風がない。虫さんの声もしない。……自分の足音だけが、ちょっと遅れてついてくる感じ。すっごく、寂しい場所」
『足音が遅れる? ……空間の密度の問題かしら。とにかく、休まず進んで。貴方の位置はこっちの魔導盤で追っているわ』
「クロエ……お願い。休まず、ずーーっと喋ってて。無言とか絶対ダメだからね。何か、昨日の夕飯の感想とか、王都の天気とか、なんでもいいから」
『無茶言わないでよ! 調査に集中しなさいな! ……ま、いいわ。じゃあ、昨日カリナが小麦粉の量を間違えてパンを炭にしたときの話でもしてあげましょうか』
クロエの呆れたような声。
それだけが、今の私を繋ぎ止める唯一の命綱だった。
最初は一瞬、どこからが「墓地」なのか分からなかった。
ランタンの青白い光が照らす先に、等間隔で並ぶ不自然な石の突起が見えたとき、それが墓標だと理解した。
理解した瞬間、道はその間を縫うように、果てしない奥底へと続いていた。
そこは、王都の整然とした墓所とは似ても似つかない。
巨大な、それこそ見上げるような巨人のためのものかと錯覚するほど大きな石棺が、地層のように積み重なり、天井が見えないほどの広大な闇を形成している。
まるで、地下に「死者のための宇宙」が広がっているようだった。
「……暗いなぁ。お化けさん、寝てるかな」
私はカチカチに緊張していた。
あまりの恐怖に、奥歯が鳴りそうになるのを必死に堪える。
その結果、私の表情は完璧に固定され、冷たく鋭い「氷の処刑人」の仮面を被ることになった。
銀髪の美少女が、一切の感情を排した瞳で、無数の墓石が並ぶ奈落を見下ろしている。
もしここに誰かが居合わせたら、その威圧感に膝を突いたことだろう。
けれど、私の内面は「パイ……ハチミツパイ……食べたい……」と、念仏のように唱え続けているだけ。
『セレン、そろそろ最初の広域調査ポイントよ。記録を始めて』
「……了解。レンズ、ポチッとするね」
私は『星図盤の撞球杖』を腰に提げ直し、クロエ特製のレンズを構えた。
一ミリ手前で浮いた指先が、魔導具のスイッチを「感覚的」に押し込む。
カシャリ、という小さな機械音が、地下墓地の静寂を裂いた。
私の「見えない壁」だけが、この狂った世界の理を弾き飛ばし、真実を暴いていくことになる。
「……よし、お仕事、開始。……お化けさん、靴裏ツルツルにしても怒らないでね」
私は無表情のまま、巨大な石棺の森へと足を踏み入れた。




