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氷の処刑人は1ミリも触れさせない!  作者: 水色蛍
調査・炎獄の古炉
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第57話:古代語のゲシュタルト崩壊

 王都に帰還して数日後。

『炎獄の古炉』で見てきた灼熱の景色が、まるで遠い昔のことのように思えるほど、本部の図書室は穏やかな静寂に包まれていた。


 ……はずだったのだけれど。


「うう……セレン、助けて。文字が、文字がウネウネ動いて、私の目を攻撃してくるよぉ……」


 机に突っ伏したまま、カリナが消え入るような声で唸った。

 彼女の目の前には、カペラ局長から手渡された『シーカーズ見習い用・古代語基礎読本』が、これ見よがしに開かれている。


「大丈夫だよ、カリナ。この文字はね、星の動きを表してるんだって。ほら、ここを繋げて読むと……」


「……読めない。お腹が空いた時以外、頭が働かないよぉ」


 私が一生懸命教えても、カリナは頭からプスプスと煙を出しそうな勢いで、床をゴロゴロと転がり始めた。

 孤児院育ちで、ずっと剣一本で生きてきたカリナにとって、読み書きの猛勉強は外の世界の魔物よりも強敵らしい。


 いや、でも確かに着実に成長しているのだけれどね。


「はいはい、カリナ。そこまでにしておきなさい。……セレンも、甘やかしすぎよ」


 横で特注の製図ペンを走らせていたクロエが、眼鏡のブリッジをクイッと押し上げた。

 彼女はカリナの家庭教師役も兼ねているけれど、その教育方針は極めて合理的で、かつ厳しい。


「まずは単語の丸暗記。仕組みなんて後回しでいいわ。テストに出るパターンを脳に叩き込むのよ」


「……その教え方は、感心しませんね」


 突如として本棚の陰から現れたのは、分厚い銀縁眼鏡をかけた神経質な青年――星図編纂官のリゲル先輩だった。

 彼は手元の資料の束をトントンと整えると、クロエに鋭い視線を向けた。


「クロエ君。君の教えは、単に概要をなぞっているだけに過ぎない。古代語とは星の律動そのものだ。なぜその一画がそこにあるのか。ロジックを理解しなければ、応用が効かない。……カリナ君、私ならもっと効率的に『理』から教えてあげられますよ」


「えっ、リゲル先輩はお忙しいでしょう? ここは私のやり方で……」


「忙しくても、非効率な教育を見過ごすのは専門家として苦痛だ。そもそも君の理論構成は――」


「なんですって!? だったら先輩のその、理屈っぽすぎて日が暮れる解説はどうにかしてください!」


 始まった。

 

 クロエとリゲル先輩の、お馴染みの大喧嘩だ。

 しかも今回は教育方針を巡って。

 

 二人が難解な用語を並べて言い合いを深めるほど、その中間地点にいるカリナの表情はどんどん虚無に染まっていく。


「わーっ! もう無理! 分からない言葉が空中でぶつかって、頭がパンクしちゃうよぉーっ!」


 ついにカリナが知恵熱オーバーヒートを発症し、完全に幼児退行したように床でのたうち回り始めた。


 ◇ ◇ ◇


「よしよし、カリナ。頑張ったね。もういいよ、休憩にしよう」


 私は床に転がるカリナの頭を、直接、素手でなでなでした。

 結界内だからこそできる、バリアのない「直接の温もり」。

 私の手のひらから伝わる感覚で、カリナの荒い息が少しずつ落ち着いていくのが分かった。


「……セレン。手が、あったかい」


「ふふ、そうだね。……ほら、クロエ。二人とも喧嘩はやめて、おやつの時間にしようよ」


 私の提案に、顔を真っ赤にして言い合っていた二人がようやく口を閉ざした。

 クロエが「……そうね。糖分を補給しないと、これ以上は非効率だわ」と吐き捨て、鞄から包みを取り出した。


「はい、カリナ。セレン。今日は、職人街の新作クレープよ」


「わぁ……!」


 私は、クロエから直接クレープを受け取った。

 結界外なら、同調シート越しにしか持てないけれど、ここでは自分の指先で直接、生地のしっとりした柔らかさと、包まれたクリームの重みを感じることができる。


「おい、図書室で飲食は……」


「リゲル先輩も食べたいんですか~? 大丈夫、すぐに終わるんで!!」


 眼鏡を抑えてやれやれといったリゲル先輩を差し置いて、ささやかな女子会の始まりだ。


「あむっ……うん、すっごく美味しい! 甘くて、直接味が広がるのって、やっぱり最高だね」


「……ん。美味しい。セレン、半分こする?」


「いいよ、カリナ。自分の分は全部食べていいんだよ」


 私たちは、図書室の隅で肩を並べてクレープを頬張った。

 理屈やロジックも大切かもしれないけれど、こうしてみんなで美味しいものを「直接」分かち合える日常こそが、今の私には何よりも大切に思えた。


 ◇ ◇ ◇


「あはは! 本部の図書室で、そんなに賑やかにしてるの誰かなー!?」


 扉が勢いよく開かれ、太陽のような明るい声が響いた。


 そこに立っていたのは、癖っ毛のオリーブグリーンのショートヘアとまあまあ豊かな胸を揺らした、元気いっぱいの女の子。


 頬には絆創膏を貼り、日焼けした健康的な肌にはそばかすが浮いている。

 動きやすそうなショートパンツに分厚い編み上げブーツ、頭には使い込まれたゴーグルを乗せた彼女――エマ・グリーンライトだ。


「エマ! おかえり!」


 私はクレープを飲み込んで立ち上がった。

 エマは私やクロエ、アリア、オスヴァルドと同じフィールドワーク部隊の同期で、植物や地質を専門にする調査員だ。


「ただいま、セレン! クロエも元気そうだね! いやー、密林の遺跡は大変だったよ。見てよ、このリュックの汚れ!《《可愛いでしょ》》!!」


 エマは泥だらけの巨大なリュックをドスンと床に置いた。

 

 クールに見られがちな私や無口なアリアとは正反対で、彼女がいるだけで本部の空気がパァッと明るくなる。


「エマ先輩、お疲れ様です! 荷物、運びますか?」


 カリナが素早く立ち上がり、エマに駆け寄った。


「あ、カリナちゃん! 助かる〜! このリュック、採取した化石が詰まってて、結界内だと重すぎて腰が死んじゃうんだよね」


 ◇ ◇ ◇


「手伝うよ!」


 私もエマの荷物を一つ持とうとしたけれど。


「お、おもぉぉい……!?」


 バリアのサポートがない私の腕では、たった一つの石の箱でもプルプルと震えてしまった。


 一方、カリナはエマの巨大なリュックをひょいっと片手で持ち上げている。


「えへへ、セレン。これは《《私の筋肉にお任せください》》! 結界内でスキルが消えても、傭兵時代に鍛えたこの腕は裏切らないのである!!」


「さっすがカリナちゃん! 頼りになるなぁ!」


 エマがカリナの肩をガシガシと叩いて笑う。


 私たちはそのまま、資料室のある地下へと続く廊下を歩いた。


「セレンたちが持ち帰った『星の炉』のデータ、凄かったって聞いたよ! フェリクさんも『流石はシーカーズの誇りだ』って、珍しく真剣な顔で褒めてたよ」


「フェリクさんが……えへへ、嬉しいな」


「私たち生態調査班も、あのデータのおかげで新しいアプローチができそうなんだ。……ねえ、カリナちゃん」


 エマが、重たい荷物を軽々と運ぶカリナを、興味深そうに見つめた。


「そんなに力があるなら、明日の私のフィールドワーク、付いてきてくれないかな?  ちょっと険しい場所なんだけど、見習いの実地研修も兼ねて、フェリクさんに許可取ってみるよ!」


「えっ!?  私が、外に……?」


 カリナの目が大きく見開かれた。


「うん! 戦うのは私がやるから、カリナちゃんには勉強を兼ねて調査のサポートをお願いしたいんだ。セレンたち以外の背中を見ておくのも、いい経験になると思うよ!」


 カリナは一瞬、私の方を見た。

 私は、彼女の決意を応援するように力強く頷いた。


「行っておいで、カリナ。エマはとっても頼りになるよ」


「……はい! 私、頑張る!!」


 古代語の猛勉強に知恵熱を出していた見習い少女に、久しぶりの外の世界での研修チャンスが巡ってきた。

 それは、シーカーズという学術機関が持つ、知識と経験の温かい繋がりの一端だった。

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