第26話:濁流と漆黒の防波堤
ドドドドドォォォォンッ!!
赤黒い魔力が溶け込んだ泥の濁流が、轟音と共に一直線の地下通路を押し寄せてくる。
それはまさに、逃げ場のない死の壁だった。
「あ……」
背後にいたカリナの口から、絶望の吐息が漏れた。
極限の疲労と魔力酔いに侵された彼女は、杖代わりにしていた大剣を取り落とした。
ガラン、と重い鉄の音が濁流の轟音にかき消される。
「ここまでね……。あんただけでも、逃げて……ごめん」
カリナはついに生きることを諦め、ぎゅっと目を閉じた。
濁流はもう、数十メートル先にまで迫っている。
(どうしよう、どうしよう!)
無表情の仮面の下で、私の心臓は早鐘のように打ち鳴らされていた。
私の『孤星の絶対距離』は、いかなる攻撃も物理現象も完全に弾き飛ばす無敵の盾だ。
でも、その防壁は『私の身体(衣服)の1ミリ外側』にしか存在しない。
私がただ立っているだけでは、私の身体の幅の分しか水流を割ることはできない。
回り込んだ濁流は、私の背後にいる生身のカリナをあっけなく飲み込み、水圧で壁に叩きつけて確実に溺死させてしまうだろう。
バリアをドーム状に広げて、傘のように他人を守ることなんて、私には絶対にできない。
自分の身を守るためだけの、孤独で残酷な呪い。
その事実を突きつけられ、私は激しい焦燥感に駆られた。
(何か、何かないの!? カリナさんをすっぽり隠せるくらい、大きくて、絶対に水を通さない盾……!)
濁流が迫る。
死まで、あと数秒。
その時、私の視界の隅で、バサッと黒い布地がはためいた。
私が着ている、漆黒のスリットコートだ。
(……これだ!)
このコートは、クロエが私のために作ってくれた特注品だ。
布地がバリアに引っかからないよう、計算し尽くされたスリットが入り、ゆったりとした作りになっている。
私のバリアは『衣服の1ミリ外側』まで展開される。
なら、この布の面積を限界まで広げれば、それがそのまま見えない『防波堤』になる!
「死なせないって言ったでしょ!!」
私は感情を爆発させ、カリナの腕を(1ミリ手前で)乱暴に引き寄せた。
「えっ!?」
「私の真後ろにぴったりくっついて! 絶対に離れないで!!」
目を丸くするカリナを私の背中に密着させ、私は真正面から巨大な濁流に向き直った。
そして、両手でスリットの入ったコートの裾を掴み、マントのように限界まで大きく横に広げた。
漆黒の翼を広げたような、私自身の身体を使った即席の肉の盾。
クロエ、お願い。あなたの作ってくれたこのコートの力を貸して!
「バリアの表面、超ツルツルにして! ……斜め上に、……お水をお返しよ!!」
私は歯を食いしばり、正面の1ミリの防壁にかかる「反発力」の向きを、前方の上(天井方向)へと全開で誘導した。
直後。
莫大な質量の鉄砲水が、私に激突した。
ドゴォォォォォォォォォォォッ!!!
「ぐ、うぅぅぅっ……!」
空間が震えるほどのすさまじい衝撃と轟音。
しかし、広げられた漆黒のコートと、その1ミリ外側に張られた絶対防壁は、強靭な楔となって激流を見事に真っ二つに切り裂いた。
「嘘……水が、弾かれて……!?」
背中にしがみつくカリナが、信じられないというように叫んだ。
私のコートの幅に守られた私たちの背後だけ、完全に水がない「死角」が生まれているのだ。
クロエが極限まで滑りを良くしてくれた特注コートのコーティングと、私のバリアの反発力。
それが完全にリンクし、激流の摩擦をゼロにする。
私という楔にぶつかり、行き場を失った超高圧の泥水は、私の設定した反発力に従って、すさまじい勢いで「上方向」へと軌道をへし折られた。
ギュルルルルルッ!!
それはまさに、自然界の巨大なウォーターカッターだった。
斜め上へと逆流した莫大な水圧のエネルギーが、地下通路の分厚い石の天井を激しく削り、破壊し始める。
メキメキメキッ! ドガァァァァァンッ!!
強固な古代の石造りの天井が、水圧に耐えきれずについに崩落した。
上の階層へと続く、巨大な大穴が開く。
「しっかり掴まってて! ここからスッポーン!って飛ぶから!」
「えっ!? スッポーンって何よ!?」
天井に逃げ道ができた瞬間。
充満していた泥の濁流が、一気にその大穴を通って上へと吹き上がり始めた。
下から突き上げる莫大な水圧。
私たちはその濁流の勢いに完全に飲み込まれ、まるで銃身から放たれた弾丸のように、大穴を抜けて凄まじいスピードで上の階層へと「逆走」して上昇していった。
◇ ◇ ◇
ザバァァァァァンッ!!
「ゲホッ、ゴホッ! ハァッ……ハァッ……!」
私たちは、巨大な水柱と共に一つ上の階層の広間へと打ち上げられた。
勢いを失った泥水が、周囲の水路へとザァザァと流れ落ちていく。
「ぷはっ……! 助かっ、た……」
泥まみれになったカリナが、冷たい石の床にへたり込み、荒い息を吐きながら激しく咳き込んでいる。
間一髪で、溺死の危機から生還したのだ。
私はというと、1ミリのバリアのおかげで服は一切濡れておらず、空中でフワッと着地を決めていた。
でも、緊張と恐怖で心臓はバクバクと鳴り、足の震えが止まらなかった。
「……よかったぁ」
私が腰を抜かすようにその場にへたり込んだ、その時だった。
『ザザッ……セ……セレン!!』
私の右耳で、ノイズ混じりの懐かしい声が響いた。
階層を一つ上がり、磁場異常の薄い場所へ出たことで、通信が復活したのだ。
『セレン! 無事なの!? 応答して、セレン!!』
泣きそうに震えている、クロエの必死な声。
「クロエ……っ!」
その声を聞いた瞬間、張り詰めていた糸がプツンと切れ、私の目からポロポロと涙がこぼれ落ちた。
外の世界の「氷の処刑人」ではなく、ただの女の子の顔に戻って、私はイヤーカフに向かってしゃくり上げた。
「く、クロエぇ……怖かったよぉ。お水がいっぱい来て、息ができなくなるかと思った……っ」
『バカ……! バカセレン! 無事なら無事だって早く言いなさいよ……! 本当に、死んじゃったと思ったんだから……っ』
クロエも通信の向こうで、鼻をすすって泣いていた。
死の危険が隣り合わせの外の世界。
けれど、私には帰る場所がある。こうして本気で心配して、泣いてくれる大切な人がいる。
「……あんたって人は、本当に……」
床にへたり込んでいたカリナが、ボロボロの姿で私を見上げていた。
その顔には、先ほどの絶望はもうない。
圧倒的な力で自分を救いながら、今は子供のように泣きじゃくっている私を見て、彼女は毒気を抜かれたように優しく微笑んだ。
「……本当に、意味がわからないくらい規格外ね。ありがとう……セレン」
私は涙を拭いながら、カリナに向かってコクリと頷いた。
冷たい月涙の廃都の奥深くで、私たちは確かに、生き延びたのだ。




