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第25話:捨て駒の覚悟

 泥の魔物を退け、私たちはさらに地下迷宮の深くへと足を進めていた。


 下層へ降りるにつれ、周囲の環境は明らかに異常なものへと変わっていった。

 壁面に埋め込まれた古代のクリスタルは、本来の青白い光から、毒々しい赤黒い色へと変色している。

 空間そのものが陽炎のように歪んで見え、空気が重く、ねっとりとした不快なものに変わっていくのがわかった。


「ハァッ……ハァッ……、ゲホッ!」


 背後を歩くカリナが、苦しそうに咳き込んだ。

 彼女の顔色は土気色になり、身の丈ほどもある大剣を杖にして、ズルズルと足を引きずるようにして歩いている。


 濃密すぎる魔力が空気に溶け込み、呼吸するだけで肺が焼けるような負荷をかける『魔力酔い』の空間。


 結界外の過酷な死地。

 私は『孤星の絶対距離』のおかげで、有毒な空気も1ミリ手前で遮断されているため、息苦しさは全く感じていない。


(……でも)


 私は自分の手のひらをギュッと握りしめ、冷たい汗が背中を伝うのを感じた。


 この空間は、異常だ。

 古代の気象制御システムが暴走し、魔力が飽和して世界のルールそのものが歪み始めている。


(もし、この異常な空間のせいで、私のスキルが通じなくなったら?)


 私のバリアは無敵だ。でも、それはあくまで「システムが正常に作動していれば」の話。


 もし突然バリアが消えてしまったら。

 私は剣も振れない、魔法も使えない、ちょっとした段差で転んでしまうような、ただの運動神経の悪い女の子だ。


 自分の本当の無力さを知っているからこそ、未知のバグ空間に対する根源的な恐怖が、足元からじわじわと這い上がってくる。


『ザザッ……ピーーーッ!』


 その時、右耳のイヤーカフから強烈なノイズが走った。


「っ、クロエ!?」


『セ、レン……磁場が、異常……これ以上は、危険……』


 クロエの声が、激しい砂嵐のような音に掻き消されていく。


 彼女は懸命に波長を合わせようとしてくれているようだが、魔力炉の暴走が生み出す磁場異常が、通信の道筋を物理的に捻じ曲げているのだ。


『通信が、切れ……セレ……必ず、戻っ……』


 プツン。


 その音を最後に、私の耳元に温かい相棒の声は届かなくなった。

 完全な沈黙。世界から自分だけが切り離されたような、あの恐ろしい孤独感が押し寄せてくる。


「……」


 私は足を止め、振り返った。


 最も頼りになるクロエのナビゲートが失われた。

 そして「これ以上進めば通信すら弾かれる」という、この遺跡が極めて危険であるという明確な調査結果が出た。


 シーカーズの調査員として、これ以上進む理由はない。


「調査はここまで。引き返すよ」


 私が冷静に撤退を告げると、大剣に寄りかかっていたカリナが、弾かれたように顔を上げた。


「な……にを言ってるの……? コアは、もうすぐそこのはずよ……!」


「クロエとの通信が切れた。これ以上は私の安全も保障できないし、あんたはもう限界だ。帰る」


 私が背を向けて階段を登ろうとすると、カリナが泥水に塗れた手で、私のコートの裾を(1ミリ手前で弾かれながらも)掴もうと手を伸ばした。


「ふざけないで! 私はまだ依頼を達成してない! ここまできて、手ぶらで帰れるもんですか!」


 カリナは血を吐くような声で叫び、無理やり私の横を通り抜けて、奥へ進もうとする。


「待って」


 私はスッと前に立ち塞がり、見えないバリアでカリナの行く手を阻んだ。


 ドンッ、と見えない壁にぶつかり、カリナがよろめく。


「どきなさいよ! 私は行くの!」


「どうしてそこまで一つの依頼にこだわるの!」


 私はたまらず叫んだ。

 いつもの感情を消した「氷の処刑人」の仮面なんか、もうどうでもよかった。


「最初から捨て駒にされてたって、あんたも分かってるでしょ! 運良くコアを持ち帰れたとしても、貴族連中があんたを生かしておくはずない! 命を捨てる価値なんてないよ!」


 私が感情を露わにして問い詰めると、カリナは悔しさに唇を噛み切り、大粒の涙をこぼした。


「あんたみたいな、安全な結界内にいる人間には分からないわよ!」


 悲痛な叫びが、地下迷宮に響き渡る。


「正規の『星狩り(冒険者)』はね、厳しい資格試験を突破して、ギルドの保護と特権を受けてるエリートなのよ! でも私みたいな『フリーの傭兵』は、試験にも受からない、ギルドにも守ってもらえないはぐれ者なの!」


 カリナは自分の胸を強く叩いた。


「私たちみたいな底辺にとって、たった一つの『信用』だけが命綱なの! 一度でも依頼を放棄して違約金を出せば、悪い噂が回って二度と仕事は来ない。そうなれば、この外の世界じゃ生きていけないのよ!」


 力とスキルが全てを決める階級社会。

 その最底辺で生きる彼女たちにとって、依頼の失敗は「社会からの死」を意味する。


「貴族が偉いからじゃない……! 泥水をすすってでも、依頼を果たすしか、私が生きる道はないのよ!!」


 痛いほどの覚悟と、理不尽な世界への絶望。

 その重い本音を聞いて、私は言葉を詰まらせた。


 外の世界は、私が想像していたよりもずっと残酷で、冷たい。

 でも。


「……それでも、引き返すよ」


 私は絶対にどかなかった。


「ここで死んじゃったら、もう美味しいご飯も食べられないんだから」


 それは、あまりにもポンコツで、緊迫感のない理由だったかもしれない。

 けれど、温かいスープを飲んで涙を流した彼女に、これ以上冷たい泥水をすすらせたくなかったのだ。


「あんたって人は……!」


 カリナが力なく拳を握りしめ、私を睨みつけた、その時だった。


 ゴゴゴゴゴゴォォォォォォォォッ!!!


 迷宮の最深部から、鼓膜を破るような轟音が響き渡った。

 空間が激しく揺れ、壁のクリスタルが次々と砕け散っていく。


「な、なに!?」


 カリナが悲鳴を上げる。

 限界を超えた魔力炉の暴走。それは、最悪の形で私たちに牙を剥いた。


 ドドドドドォォォォンッ!!


 通路の奥から、部屋全体を埋め尽くすほどの巨大な鉄砲水――赤黒い魔力が溶け込んだ『泥の濁流』が、津波のように押し寄せてきたのだ。


「うそ……っ!」


 逃げ場のない一直線の地下通路。

 圧倒的な質量を持った濁流が、轟音と共に私たちを飲み込もうと迫り来る。


 撤退すらもはや許されない。

 結界外の過酷な死地が、ついに私たちに「完全な死」を突きつけてきた。

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