尚美と正人 その5
尚美を乗せたタクシーを見送ると、正人は部屋へと戻りキャンバスの前に腰を下ろす。バイトの時間迄まだだいぶある、出来るだけ仕上げてしまおうと使い慣れた筆を手に取る。その時、玄関の扉が軽く叩かれる。
インターフォンはいちお付いてはいるが、随分と前に壊れてしまい"故障中"と書かれた小さなメモが張り付けてあるからだ。気付かないフリをして居留守を使おうかと考えていると、また扉が叩かれる
「これじゃあ、集中できないな…」
仕方なく、正人は玄関へと向かう
「はい…」
ドアノブを捻り渋々扉を開ける。
差し込む外の景色と共に、熟年の男女の姿が飛び込んで来る
「父さん…母さん…な、何でここが!?」
予想だにしなかった出来事に、正人は2人の顔を見詰めたまま動く事ができない
「正人…」
数年振りに聞く懐かしい母親の声に正人は我を取り戻す。次の瞬間、逃げる様に踵を返すと開いていた窓から裸足のまま飛び出した
「正人!危ない!!」
母親は慌てて窓に駆け寄り、窓から外へ身を乗り出す。久し振りに会った息子は手すりと雨どいを器用に伝い、見る見るうちに地面に降り立った。怪我などない姿にほっと胸を撫で下ろす
「あなた、正人が逃げちゃうわ!追いかけなきゃ!」
そう言うと、脇目も振らず慌てて部屋を出て行った。残された父親は7畳程の室内をゆっくりと見回す。家財もテレビもエアコンも何もない殺風景なその部屋は、正人が生まれ育った家とは真逆なものだった。全てを捨てて家を飛び出して、こんな惨めな生活を送っている事に呆然とした。部屋の隅に置かれたイーゼルには描きかけの絵が立て掛けられている
「まだ、絵を描いているのか…」
小さなテーブルの上に、無造作に置かれたスケッチブックを手にするとパラパラと捲っていく。
描かれているビルや路地、小さな川はこの辺りの風景なのだろうか。順を追っていた指は不意に止まり、1人の女性の姿に目を落とす。
笑っている表情、怒っている表情、眠っている顔。色々な表情が描かれた女性は愛おしむ様に優しい視線を向けて来る。恋人なのだろうか?
父親は、自分の知らない我が子の一端に触れた気がした




